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『普通の恋が、したかった。』  作者: vastum


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第36話 帰りたくない放課後

木曜日。


雨は止んでいた。


朝の空気は少し湿っている。


昨日までの雨を引きずったような曇り空。


でも、教室へ入ると空気はいつも通り騒がしかった。


文化祭準備三日目。


もう完全にクラスの話題はそれ一色だった。


「背景かなりできてきた!」


「射的の景品どうする?」


「段ボール足りなくね?」


朝からみんなうるさい。


でも、その騒がしさが嫌じゃない。


朝比奈湊は席へ座りながら、少しだけ周囲を見回した。


一ヶ月前。


この教室に入るだけで、少し緊張していた。


浮かないように。


変に目立たないように。


そう考えていた自分が、今では少し遠い。


「おはよう、湊」


隣。


栞。


その声だけで、かなり安心する。


「おはよう」


栞は鞄を机へ置きながら、小さく言った。


「今日、ちょっと眠い」


「昨日遅かった?」


「お風呂入ったあと、そのまま寝ちゃった」


「珍しい」


「起きたら二時だった」


「終わってる」


栞は少し笑う。


「そこから課題やった」


「真面目すぎる」


「普通」


最近、本当にその言葉が便利すぎる。


湊は少し笑いながら教科書を出した。


その時、ふと気づく。


栞の指先。


昨日の絵の具が少しだけ残っていた。


薄い青色。


「栞」


「ん?」


「まだ絵の具ついてる」


栞は自分の手を見る。


「あ、本当だ」


「取れてない」


「昨日疲れてたから適当だった」


そう言って笑う。


その何気ない会話が、妙に好きだった。


一時間目。


授業は相変わらず静かに進む。


でも、教室全体に少し浮ついた空気がある。


文化祭前特有の空気。


先生たちも少しだけ緩い。


授業中。


湊はノートを取りながら、ふと窓の外を見た。


曇り空。


でも、少しだけ明るい。


隣を見る。


栞は真面目に板書していた。


でも、時々ペンが止まる。


「眠い?」


小声で聞く。


栞は少しだけ頷く。


「ちょっと」


「寝ろ」


「隣いるのに無理」


その一言で、湊の心臓が静かに跳ねる。


「……何それ」


「なんとなく」


栞は普通の顔をしていた。


でも、その言葉の意味を考えると落ち着かない。


隣にいるから寝れない。


それは意識しているってことなのか。


いや、考えすぎかもしれない。


でも最近、そういう“考えすぎたくなる言葉”が増えていた。


昼休み。


教室は今日も騒がしい。


文化祭準備の関係で、みんな少しずつクラス全体と話すようになっている。


湊は弁当を食べながら、その空気をぼんやり見ていた。


「朝比奈」


藤堂が急に言う。


「何」


「最近、帰るの遅くね?」


「文化祭準備」


「いや、そうじゃなくて」


藤堂がにやにやする。


嫌な予感。


「帰りたくなくなってる顔」


「何その顔」


「青春顔」


「意味分からん」


倉田が笑う。


「でもちょっと分かる」


三橋まで小さく頷いた。


「最近、放課後の空気いいよね」


その言葉に、湊は少しだけ黙る。


たしかに。


最近、放課後がかなり好きだった。


授業が終わってからの時間。


みんなで準備して。


騒いで。


疲れて。


それでも帰る時には少し寂しい。


その感覚が、自分の中にある。


「湊」


栞が小さく呼ぶ。


「ん?」


「分かりやすい顔してる」


またそれだ。


でも最近、自分でも少し諦めていた。


栞には、かなり読まれる。


午後。


今日は授業が短めだった。


文化祭準備の時間を長く取るため、学校全体が少し特別時間割になっている。


ホームルームが終わると、すぐに教室が動き始めた。


机を端へ寄せる。


段ボールを運ぶ。


色紙を切る。


教室の空気が、一気に放課後モードへ変わる。


「朝比奈!」


藤堂が叫ぶ。


「射的の的作るぞ!」


「なんでそんな元気なんだ」


「祭りだから!」


「もういいって」


教室に笑い声。


湊も少し笑いながら立ち上がった。


作業が始まる。


段ボールを切る音。


ハサミの音。


笑い声。


その全部が混ざった騒がしい空間。


でも、不思議と落ち着く。


湊は的の土台を作りながら、ふと栞の方を見る。


窓側で、背景の文字を書いていた。


筆ペンを持つ横顔。


真剣な顔。


でも、女子たちと話している時はちゃんと笑っている。


その姿を見ているだけで、少し気持ちが柔らかくなる。


「朝比奈」


また藤堂。


「見すぎ」


「見てない」


「最近もう否定弱いな」


図星だった。


昔ならもっと強く否定していた気がする。


でも今は、そこまで隠したい訳でもない。


それが少し不思議だった。


作業が進む。


気づけば、教室の後ろにはかなり文化祭らしいものが増えていた。


射的ブース。


背景。


飾り。


少しずつ形になっていく。


「なんか、本当に文化祭だな」


湊がぽつりと言う。


その近くにいた三橋が頷いた。


「準備してる時が、一番実感あるかも」


「分かる」


「終わったら、意外と一瞬だし」


その言葉が、少しだけ胸に残った。


終わったら一瞬。


たしかに、今の時間もいつか終わる。


この教室。


この放課後。


この距離。


全部。


湊は無意識に栞を見た。


栞も、ちょうどこちらを見ていた。


目が合う。


少しだけ笑う。


それだけなのに、胸が少し苦しくなる。


夕方。


教室の窓がオレンジ色に染まり始める。


みんな少し疲れていた。


でも、誰もすぐ帰ろうとしない。


藤堂が床へ座り込む。


「疲れたー」


「まだ全然終わってない」


三橋が冷静に返す。


倉田は机に突っ伏していた。


「でも、なんか帰りたくないな」


その一言で、教室が少し静かになる。


湊は驚いて倉田を見る。


倉田自身も少し照れくさそうだった。


「いや、なんか今楽しいし」


藤堂が笑う。


「分かる」


三橋も頷く。


「最近、放課後いいよね」


その空気が、すごく柔らかかった。


みんな同じことを感じている。


文化祭前の、今しかない空気。


湊は少しだけ胸が熱くなった。


栞が小さく言う。


「終わってほしくない感じする」


その言葉に、湊は静かに頷いた。


帰り道。


今日は少し遅くなった。


空はもう暗い。


駅までの道を、二人でゆっくり歩く。


疲れている。


でも、その疲れが嫌じゃない。


「今日」


栞が小さく言う。


「ん?」


「私もちょっと帰りたくなかった」


湊は少しだけ笑う。


「倉田と同じこと言ってる」


「でも分かるでしょ」


「……かなり」


たぶん、理由は同じだ。


放課後が楽しい。


この空気が好き。


そして。


隣に栞がいる。


それがかなり大きい。


駅が見えてくる。


夜のホーム。


電車が来る。


二人で乗る。


今日は座れた。


並んで座る。


少し疲れているせいか、沈黙が長い。


でも、その沈黙が心地いい。


栞が窓の外を見ながら、ぽつりと言った。


「文化祭終わったら、ちょっと寂しくなりそう」


その言葉が、静かに胸へ落ちる。


湊は少し考えてから、小さく言った。


「じゃあ、終わったあとも遊べばいい」


言ったあと、自分で少し照れる。


でも栞は笑った。


「それ、かなりいい案」


その笑顔を見て、湊は思う。


終わるのが怖いと思えるくらい、今が楽しい。


そんな高校生活を、自分が送れるようになるなんて。


少し前の自分なら、きっと信じていなかった。

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