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『普通の恋が、したかった。』  作者: vastum


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第35話 雨の日の教室

水曜日。


朝から雨だった。


窓を叩く細かい雨音。


少し暗い空。


登校してくる生徒たちも、どこか眠そうだった。


朝比奈湊も例外ではない。


傘を閉じながら昇降口へ入る。


制服の袖が少し湿っている。


昨日の帰り道。


『今日、ちょっと心臓うるさかった』


栞のその言葉が、まだ頭に残っていた。


手を掴んだだけ。


本当にそれだけなのに、あの瞬間からずっと少し落ち着かない。


教室へ入る。


湿った空気。


窓の外の雨。


そして。


「おはよう、湊」


隣の席。


栞。


その声を聞くだけで、少し安心する。


「おはよう」


湊が座ると、栞が少しだけこちらを見る。


「今日、雨すごい」


「梅雨みたい」


「まだ早いけど」


栞の髪が少しだけ湿っていた。


たぶん、駅から学校までの間に濡れたのだろう。


その感じが妙に目に残る。


「湊」


「ん?」


「見すぎ」


即バレだった。


湊は思わず視線を逸らす。


「いや、濡れてるなって」


「髪?」


「うん」


栞は自分の髪を少し触った。


「駅からの道で濡れた」


「傘意味ないやつ」


「ちょっと風あったし」


その何気ない会話だけで、湊の心臓は普通に忙しい。


最近、自分でも呆れるくらい単純だった。


ホームルーム。


山崎が教卓の前で言う。


「今日は放課後、装飾班は背景作り始めるぞー。射的班は試作完成させろ」


「はーい」


教室からだるそうな返事。


でも、みんな少し楽しそうだった。


文化祭準備が本格化してきて、クラス全体が一つの方向を向き始めている。


湊はその空気が好きだった。


一時間目。


雨の日の教室は少し静かだ。


窓に当たる雨音。


先生の声。


ページをめくる音。


その全部がゆっくり流れていく。


湊は授業を聞きながら、ふと隣を見る。


栞は真面目にノートを取っている。


でも、少しだけ眠そうだった。


昨日の準備で疲れているのかもしれない。


「眠い?」


小声で聞く。


栞は少しだけ頷く。


「ちょっと」


「寝不足?」


「昨日、思い出してた」


その言葉で、湊は一瞬止まる。


「……何を」


栞は少しだけこちらを見た。


「さっきの」


完全に昨日の手の話だった。


湊は急に教科書へ視線を戻す。


無理だ。


朝からその話題は心臓に悪い。


栞が小さく笑った。


「分かりやすい」


「最近ずっとそれ」


「だって本当に分かりやすい」


否定できない。


昼休み。


今日は雨のせいか、みんな教室からあまり出ない。


いつもより少し狭く感じる空間。


弁当の匂い。


騒がしい声。


その中で、藤堂が突然言った。


「雨の日って眠くね?」


「分かる」


倉田が即答する。


三橋は静かにプリントを見ながら言った。


「気圧じゃない?」


「急に理系」


「普通だよ」


その会話に笑いが起きる。


湊も少し笑った。


最近、この空気に自然に混ざれるようになっている。


そのことが、まだ少し不思議だった。


「朝比奈」


藤堂が急に聞く。


「何」


「昨日、雨宮さんとなんかあった?」


湊の箸が止まる。


「なんで」


「なんとなく空気」


「エスパーか」


「青春センサー」


「気持ち悪い」


教室に笑いが起きる。


でも、湊の心臓は普通にうるさかった。


昨日のことを思い出す。


細い手首。


近い距離。


柔らかい感触。


無理やり頭を切り替える。


「何もない」


「ほんとかー?」


藤堂はにやにやしている。


その時。


「ちょっとあった」


栞が普通に言った。


湊は完全に固まった。


教室が少し静かになる。


藤堂が目を見開く。


「え、何」


栞は弁当を食べながら、小さく言う。


「ぶつかった」


「だけ?」


「だけ」


でも、その“だけ”に少し含みがある気がして、湊はさらに落ち着かなくなる。


藤堂は数秒こちらを見て、それから笑った。


「青春だなー」


「それしか言えないのか」


でも、教室の空気はすぐ元に戻った。


その感じが、少しありがたかった。


変に騒がれない。


でも、完全に無関心でもない。


今のクラスの距離感は、かなり心地よかった。


午後。


雨はさらに強くなっていた。


窓の外は白っぽい。


教室も少し暗い。


授業中、栞が珍しくぼんやり外を見ていた。


「どうした?」


湊が聞く。


栞は少しだけ目を細める。


「雨の日、嫌いじゃない」


「分かる」


「静かだから」


たしかに。


雨の日の教室は、いつもより少しだけ距離が近い気がする。


外へ行けない分、みんな教室へ残る。


窓の外の雨音で、空気も柔らかくなる。


湊はその空気が好きだった。


放課後。


文化祭準備。


今日は背景作りと射的ブースの組み立て。


教室の後ろでは、女子たちが大きな模造紙へ色を塗っている。


男子は段ボールを切ったり運んだり。


かなり文化祭っぽくなってきていた。


「朝比奈、ここ押さえて」


藤堂が叫ぶ。


「雑!」


「勢いだって!」


「だから危ないんだよ」


三橋が冷静に修正する。


倉田はガムテープ係になっていた。


「俺、今日ほぼ貼ってるだけなんだけど」


「大事な仕事」


教室に笑い声。


その空気の中で、湊はふと栞を見る。


栞は女子たちと背景を描いていた。


絵の具で少し指が汚れている。


真剣な顔。


でも、たまに楽しそうに笑っている。


その姿を見ていると、不思議と疲れが薄れる。


「湊」


突然、栞が近づいてきた。


「ん?」


「手」


「手?」


「汚れてる」


湊は自分の手を見る。


黒いペンのインクが少しついていた。


「あー」


「じっとして」


栞はポケットからウェットティッシュを取り出す。


そして、湊の手を軽く掴んだ。


昨日より自然だった。


でも。


やっぱり心臓はうるさい。


栞の指が、軽く手に触れる。


ウェットティッシュでインクを拭いていく。


近い。


かなり。


「……栞」


「ん?」


「距離近い」


栞は少しだけ笑った。


「昨日よりは慣れた」


「俺が慣れてない」


「知ってる」


その言い方が、妙に優しかった。


インクを拭き終わる。


でも、栞はすぐに手を離さなかった。


数秒。


ほんの少しだけ。


それだけなのに、湊の心臓は完全に限界だった。


「はい」


やっと手が離れる。


「……ありがと」


「どういたしまして」


栞は少しだけ笑って、自分の作業へ戻っていった。


湊はその背中を見ながら、しばらく動けなかった。


無理だ。


最近、本当に距離が近い。


でも、不思議と嫌じゃない。


むしろ、もっと近くにいたいと思ってしまう。


準備が終わる頃には、外は完全に夜だった。


雨はまだ降っている。


みんな疲れた顔をしている。


でも、どこか満足そうだった。


「文化祭、絶対楽しいな」


藤堂が言う。


「まだ本番じゃないのに」


倉田が笑う。


三橋も小さく頷いた。


「準備が一番楽しいって言うしね」


その言葉に、湊は少し納得する。


今この時間が、すでにかなり楽しい。


帰り道。


二人で傘を差して歩く。


今日は雨が強いから、自然と距離が近い。


肩が少し触れそうになる。


「今日」


栞が小さく言う。


「ん?」


「手、昨日より平気だった」


湊は少し笑う。


「俺は平気じゃなかった」


「知ってる」


「顔に出てた?」


「かなり」


またそれだ。


でも今日は、そこまで恥ずかしくなかった。


栞が少しだけ傘を寄せる。


肩が軽く触れる。


「でも」


栞が静かに言った。


「ちょっと嬉しかった」


その言葉を聞きながら、湊は思う。


たぶん、自分たちは少しずつ慣れてきている。


でも、完全には慣れない。


隣にいることも。


触れることも。


名前を呼ぶことも。


全部、まだちゃんと特別だった。

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