第34話 少しだけ触れた手
火曜日。
文化祭準備二日目。
朝から教室には段ボールと色紙が増えていた。
後ろのロッカー前には、誰かが持ってきたガムテープやペンが積まれている。
完全に文化祭前の教室だった。
「うわ、学校来た感じする」
藤堂が教室へ入るなり言う。
「昨日より増えてる」
倉田も眠そうに段ボールを見る。
三橋はすでに黒板へ、係ごとの進行予定を書いていた。
「三橋、仕事できるな」
藤堂が感心したように言う。
「忘れそうだから書いただけ」
でも、そういう人がいると本当に助かる。
湊は席へ向かう。
隣には栞。
「おはよう、湊」
「おはよう」
栞は机の上に広げたプリントを押さえながら、小さくため息を吐いた。
「文化祭って思ったよりやること多い」
「まだ始まったばっかだぞ」
「もう少し気楽だと思ってた」
「真面目だからだろ」
湊が言うと、栞は少しだけ目を細めた。
「湊も結構真面目」
「普通」
「便利」
最近、本当に“普通”が万能になっている。
一時間目が始まる前。
教室の後ろでは、早くも射的の試作品をいじる男子たちが騒いでいた。
「これ絶対飛ぶって!」
「危ない危ない!」
藤堂が中心で盛り上がっている。
その様子を見ながら、湊は少し笑った。
クラス全体が前より近くなっている。
最初の頃は、まだ遠慮が多かった。
でも今は、自然に騒げる空気がある。
その変化が、なんとなく嬉しかった。
授業中。
栞は珍しく少しぼんやりしていた。
教科書を見ているけれど、視線がたまに止まっている。
「眠い?」
湊が小声で聞く。
栞は少しだけ頷いた。
「昨日、課題してた」
「真面目」
「湊は?」
「寝た」
「高校生っぽい」
「またそれ」
栞は小さく笑う。
その笑顔を見て、湊は少し安心した。
最近、自分はかなり栞の表情を気にしている。
元気か。
疲れてないか。
楽しそうか。
そういうことを、無意識に見てしまう。
昼休み。
今日は文化祭準備の話し合いで、弁当を食べながら軽い会議みたいになっていた。
「射的の景品どうする?」
「お菓子系?」
「当たり欲しいよな」
「ハズレも必要」
藤堂が机へ広げたメモを見ながら熱弁している。
湊は少し笑った。
「お前、ほんと楽しそうだな」
「祭りだからな」
「それしか言わない」
栞も少し笑っていた。
その時、佐伯がふと栞に聞く。
「雨宮さん、器用そうだよね」
「そう?」
「装飾とか得意そう」
栞は少し考えた。
「細かい作業は嫌いじゃないかも」
「じゃあ背景お願いしようかな」
女子たちが盛り上がり始める。
その会話を見ながら、湊は少しだけ不思議な気持ちになった。
栞が、ちゃんとクラスの中心に混ざっている。
最初はもっと静かな存在だった。
でも今は違う。
自然に周囲と話している。
笑っている。
その変化が、なんだか自分のことみたいに嬉しかった。
午後の授業は短縮だった。
文化祭準備のため、放課後の時間が長めに取られている。
ホームルームが終わると、一気に教室が動き始めた。
机を寄せる音。
段ボールを切る音。
笑い声。
完全にお祭り前の空気。
湊は藤堂たちと一緒に射的の土台を作ることになった。
段ボールを切り、テープで固定する。
「朝比奈、そこ押さえて」
「ここ?」
「違うそっち!」
「分かりづらい!」
倉田が横で笑っている。
三橋は寸法を測っていた。
「藤堂、適当すぎる」
「勢いだろ」
「文化祭で事故るタイプ」
教室中がわいわいしていた。
その空気が、すごく心地いい。
湊は段ボールを押さえながら、ふと栞の方を見る。
窓側の席で、女子たちと一緒に背景用の色紙を切っていた。
真面目な顔。
でも、たまに笑っている。
その姿を見ているだけで、少し落ち着く。
「朝比奈」
藤堂がにやにやしながら言う。
「何」
「見すぎ」
「見てない」
「分かりやす」
最近、本当にこればっかだ。
でも、否定しきれない。
放課後もかなり時間が経った頃。
少し休憩になり、教室の空気が緩む。
湊は飲み物を取りに行こうとして、机の間を通った。
その時。
「っ」
誰かと軽くぶつかる。
反射的に手を伸ばく。
掴んだ。
細い手首。
栞だった。
一瞬、時間が止まる。
近い。
かなり。
栞も少し驚いた顔をしていた。
湊は慌てて手を離す。
「ご、ごめん」
「ううん」
でも、そのまま二人とも少し動けなかった。
さっき触れた感覚が、まだ残っている。
柔らかかった。
細かった。
心臓が一気にうるさくなる。
周囲は騒がしい。
でも、二人だけ少し静かになった感じがした。
「……びっくりした」
栞が小さく言う。
「俺も」
「転びそうだった」
「反射で」
そこまで言って、また沈黙。
気まずい訳じゃない。
でも、変に意識してしまう。
最近、距離には慣れてきた。
隣の席。
帰り道。
映画。
でも、“触れる”のはまた別だった。
栞が少しだけ視線を逸らす。
耳が赤い。
たぶん、自分も同じだ。
「朝比奈ー!」
遠くから藤堂の声。
「飲み物行くなら俺のも!」
タイミングが最悪だった。
でも、その声のおかげで少し空気が戻る。
湊は小さく息を吐いた。
「……行ってくる」
「うん」
栞も少し笑った。
でも、その笑顔はいつもより少しだけぎこちなかった。
自販機へ向かう途中。
湊は顔を押さえた。
無理だ。
手を掴んだだけで、この破壊力。
自分が思っている以上に、栞を意識している。
飲み物を買って戻る。
教室の空気は相変わらず騒がしい。
でも、栞と目が合うたびに、さっきの感覚が蘇る。
「湊」
栞が小さく呼ぶ。
「ん?」
「さっきの」
「……うん」
「ありがとう」
その言葉で、また心臓が跳ねる。
「いや、普通に反射だから」
「でも、ちゃんと掴んでくれた」
栞はそう言って、小さく笑った。
その笑顔が妙に柔らかくて、湊はしばらく何も言えなかった。
準備が終わる頃には、外は暗くなっていた。
みんな疲れている。
でも、どこか楽しそうだ。
「文化祭っぽくなってきたなー」
藤堂が伸びをしながら言う。
「まだ序盤」
三橋が冷静に返す。
倉田は机に突っ伏していた。
「もう疲れた」
教室に笑いが起きる。
その空気の中で、湊はふと栞を見る。
栞もこちらを見ていた。
少しだけ目が合う。
そして、二人ともなんとなく笑ってしまう。
帰り道。
夜風が少し涼しかった。
駅へ向かう道を、二人で歩く。
今日は少し静かだった。
たぶん、お互いさっきのことをまだ引きずっている。
「湊」
栞が小さく呼ぶ。
「ん?」
「今日、ちょっと心臓うるさかった」
湊は思わず止まりそうになる。
「……どのタイミング」
「分かってるくせに」
図星だった。
湊は少しだけ視線を逸らす。
「俺も」
栞は少し笑った。
でも、その笑顔は少し照れていた。
駅が見えてくる。
夜のホーム。
電車が来る。
二人で乗る。
今日は座れなかった。
並んで立つ。
電車が揺れる。
少しだけ肩が近い。
その距離を意識してしまう。
栞が窓の外を見ながら、小さく言った。
「慣れたと思ってたんだけどな」
湊は少し笑う。
「何に」
「近い距離」
その言葉が、静かに胸へ落ちた。
たぶん、自分たちはまだ慣れきっていない。
隣にいること。
名前で呼ぶこと。
休日に会うこと。
そして、少し触れること。
全部。
まだちゃんと特別だった。




