第30話 ゴールデンウィーク前
金曜日。
ゴールデンウィーク前最後の登校日。
朝から学校全体が少し浮ついていた。
「連休だー!」
「部活あるけどな!」
「課題多くね?」
そんな声が廊下中から聞こえてくる。
朝比奈湊も、いつもより少しだけ気分が軽かった。
理由は連休だけじゃない。
席替えの結果が変わらなかったこと。
今まで通り、栞が隣にいること。
その安心感が、思っていた以上に大きかった。
教室へ入る。
「おはよう、湊」
もう当たり前みたいに栞が言う。
「おはよう」
自然に返す。
それだけで、朝の空気が少し落ち着く。
藤堂が後ろからにやにやしながら言った。
「はいはい、安定」
「何が」
「席替え成功カップル」
「違う」
反射で返す。
でも最近、“違う”と言う時の勢いが少し弱くなっている気がする。
倉田が笑う。
「もう慣れてきたな」
三橋は静かに教科書を出しながら言った。
「周りも含めて」
それは少し分かる。
最初は、名前で呼ぶだけでもかなり意識していた。
周囲に知られた時も落ち着かなかった。
でも今は、教室の空気の中に自然に溶け込み始めている。
朝のホームルーム。
山崎が連休中の注意事項を話していた。
「事故とか気をつけろよー。あと課題忘れるな」
教室から小さいため息。
「文化祭準備も連休明けから本格的に入るからな」
その言葉で、教室の空気が少し変わる。
楽しみと面倒くささが混ざった感じ。
湊は隣を見る。
栞もプリントを見ながら、小さく息を吐いていた。
「課題多い?」
湊が小声で聞く。
「そこそこ」
「終わる気しない」
「まだ始まってもない」
「それが一番終わってる」
栞は少し笑った。
その笑い方を見て、湊も少し肩の力が抜ける。
一時間目。
授業はほとんど連休前モードだった。
先生たちもどこか気が抜けている。
教室全体が静かに浮ついている感じ。
湊は窓の外をぼんやり見ながら思った。
高校に入って、一ヶ月。
まだ一ヶ月しか経っていないのに、かなり濃かった。
最初は、本当に普通に過ごせればいいと思っていた。
友達ができればいい。
教室で浮かなければいい。
そのくらいだった。
でも今は違う。
放課後に寄り道する相手がいる。
休日に電話する相手がいる。
隣の席が変わらなくて安心する相手がいる。
それは、湊にとってかなり大きな変化だった。
授業中。
栞がノートの端に小さく書いた。
『連休、暇?』
湊は少しだけ目を丸くする。
『まあまあ』
返す。
栞が少し考えてから書く。
『どこか行く?』
その文字を見た瞬間、湊の心臓がかなり大きく跳ねた。
どこか行く。
休日。
二人で。
湊は数秒止まった。
栞が横で少しだけ笑う。
完全に反応を見られている。
『固まった』
追記される。
『……仕方ない』
そう返すのが精一杯だった。
栞は少しだけ楽しそうだった。
休み時間。
藤堂たちは連休の予定で盛り上がっていた。
「俺、部活と遊びで終わる」
「リア充」
「言い方古い」
倉田は家で寝る宣言をしている。
三橋は図書館へ行くらしい。
湊はその会話に混ざりながらも、頭の片隅ではずっとさっきのノートを引きずっていた。
どこか行く?
それって、遊びの誘いだろうか。
いや、たぶんそうだ。
でも、どういう感じで?
映画?
本屋?
前みたいな寄り道?
考え始めると止まらなくなる。
「朝比奈」
藤堂が急に言った。
「聞いてる?」
「聞いてる」
「絶対聞いてない」
図星だった。
藤堂は少し笑う。
「なんか今日ずっとふわふわしてんな」
「連休前だから」
「雨宮さんとどっか行く?」
その瞬間、湊は本気で止まった。
なんで分かる。
藤堂は湊の顔を見て爆笑した。
「分かりやすすぎる!」
「うるさい!」
倉田まで笑っている。
「図星じゃん」
三橋が静かに言う。
「誘われた?」
湊は言葉に詰まった。
まだ決まっていない。
でも、誘われたと言えばそうだ。
「……まあ」
藤堂が机を叩く。
「青春!」
「だからそればっか!」
でも今日は、そこまで否定する気力もなかった。
昼休み。
湊は少し落ち着こうと思い、廊下へ飲み物を買いに行った。
自販機の前。
炭酸にするかお茶にするか迷っていると、後ろから声。
「逃げた?」
栞だった。
「別に」
「藤堂くんにいじられてた」
「いつものこと」
栞は隣に立って、お茶を買った。
自販機の音が鳴る。
廊下には他の生徒たちの声。
その中で、二人だけ少し静かな空気だった。
「さっきの」
栞が言う。
「ノート?」
「うん」
湊は少しだけ緊張する。
「どこか行くってやつ」
「うん」
栞はペットボトルを持ちながら、小さく言った。
「嫌じゃなければ」
その言い方が、妙に優しかった。
無理に誘っている感じじゃない。
でも、ちゃんと誘ってくれている。
湊は少し笑った。
「嫌じゃない」
「よかった」
「むしろ、かなり嬉しい」
言ってから、少し恥ずかしくなる。
でも栞は笑った。
「正直」
「最近もう隠せない」
「うん」
栞は少しだけ目を細めた。
「そこ好き」
湊は危うくお茶を落としかけた。
「急にそういうこと言うな」
「本音」
「心臓に悪い」
栞は少し笑う。
「湊、最近すぐ顔赤くなる」
「誰のせいだよ」
その会話が、あまりにも自然だった。
まるでずっと前からこういう関係だったみたいに。
でも実際は、まだ一ヶ月くらいしか経っていない。
それなのに、もうかなり近い。
午後。
授業はほとんど頭に入らなかった。
連休。
どこか行く。
その言葉がずっと残っている。
何を着ていくんだとか、どこへ行くんだとか、そんなことまで考えてしまう。
かなり浮かれている。
自覚はあった。
放課後。
ホームルームが終わると、教室が一気に騒がしくなる。
連休前。
みんなテンションが高い。
藤堂が叫ぶ。
「ゴールデンウィークだー!」
「うるさい」
「青春の始まり!」
「お前ずっと青春言ってるな」
そんなやり取りをしながら、湊は鞄をまとめる。
隣では栞も帰る準備をしていた。
「湊」
「ん?」
「連休、どこ行く?」
完全に決定事項みたいな聞き方だった。
湊は少し笑う。
「まだ決めてないだろ」
「じゃあ決める?」
その言葉だけで、また胸が熱くなる。
教室にはまだ何人か残っていた。
でも、もう周囲をそこまで気にする感じでもなかった。
藤堂たちも、遠くで普通に話している。
湊は少し考えた。
「映画とか?」
「定番」
「嫌?」
「ううん」
栞は少しだけ笑った。
「高校生っぽい」
「またそれ」
「最近よく思うから」
二人で教室を出る。
夕方の廊下。
窓から入る光。
部活の声。
その全部が、少し柔らかく感じる。
駅へ向かう道。
今日は風が暖かかった。
春が終わって、少しずつ初夏に近づいている感じ。
「映画、何見る?」
栞が聞く。
「恋愛以外」
「意識してる」
「そりゃする」
栞は少し笑った。
「私は別に恋愛でもいいけど」
その言葉で、また湊の心臓が忙しくなる。
最近、本当に栞は容赦がない。
駅が見えてくる。
夕方の人混み。
電車が来る。
二人で乗る。
今日は座れた。
並んで座る。
窓の外にはオレンジ色の空。
栞が静かに言った。
「連休、楽しみ」
湊はその横顔を見る。
たぶん、自分も同じ顔をしている。
「……俺も」
それだけで十分だった。
名前のない関係。
まだ恋人じゃない。
でも、もうただの友達でもない。
その曖昧な距離のまま、二人は少しずつ前へ進んでいた。
そして湊は、その時間が思っていた以上に好きだった。




