第29話 名前のない関係
木曜日の朝。
朝比奈湊は、昨日の帰り道を思い出しながら駅へ向かっていた。
『湊が嫉妬するの、ちょっと可愛かった』
あの一言の破壊力が、思った以上に残っている。
寝る前にも思い出した。
風呂でも思い出した。
朝起きて最初にも思い出した。
もうかなり重症だと思う。
湊はため息をつきながら、コンビニで缶コーヒーを買った。
少し苦い。
でも、その苦さで頭が少しだけ落ち着く。
嫉妬。
可愛かった。
そんな会話をしている時点で、かなり危ない気がする。
なのに、まだ告白はしていない。
付き合ってもいない。
関係に名前がない。
それが逆に、最近の湊を落ち着かなくさせていた。
駅へ着く。
ホームには通勤客と学生。
いつもの景色。
電車が来る。
乗り込む。
そして次の駅。
栞が乗ってきた。
湊を見つけると、少しだけ笑う。
「おはよう、湊」
「おはよう」
その笑顔を見ただけで、昨日の会話が全部蘇る。
栞は湊の顔を見るなり言った。
「まだ引きずってる」
「何を」
「昨日の」
完全に見抜かれていた。
湊は視線を逸らす。
「……少し」
栞は少しだけ笑った。
「正直」
「最近もう隠せない」
「うん。だいぶ」
その言い方が楽しそうで、湊は少し悔しくなる。
でも、嫌ではない。
栞が隣へ立つ。
電車が揺れる。
近い距離。
最近、この距離にもかなり慣れてきた。
前なら、隣に立たれるだけで変に緊張していたのに。
もちろん今も意識はする。
でも、それ以上に落ち着く気持ちの方が大きくなっていた。
「今日、席替えのくじ決めるらしいよ」
栞が言う。
「もう?」
「山崎先生が朝言ってた」
湊は少しだけ顔をしかめた。
「運か……」
「苦手そう」
「苦手」
栞は小さく笑う。
「私はちょっと楽しみ」
「余裕だな」
「だって、離れても話すって決めたし」
その言葉に、湊は少しだけ安心する。
最近、栞はこういうふうにちゃんと言葉にしてくれる。
だから、湊は前より不安になりすぎずに済んでいた。
学校へ向かう道。
春の空気はかなり暖かくなってきていた。
制服の上着を着ていると少し暑いくらいだ。
周囲では、文化祭の話をしている生徒も多い。
ゴールデンウィークが近いからか、学校全体の空気も少し浮ついている。
教室へ入る。
藤堂がすぐにこちらを見た。
嫌な予感。
「おはよー、嫉妬男子」
「朝から何言ってんだ」
「昨日、雨宮さんに嫉妬してたって?」
湊は止まった。
「なんで知ってる」
「雨宮さんが少し嬉しそうだった」
湊は反射で栞を見る。
栞は席へ座りながら、少しだけ視線を逸らした。
「言ってない」
「顔」
藤堂が笑う。
湊は本気で頭を抱えたくなった。
最近、周囲にバレすぎている。
倉田まで眠そうに言う。
「もう付き合えば?」
「軽いな」
「でも距離感そんな感じ」
三橋は教科書を出しながら静かに言った。
「本人たちのペースでいいと思うけど」
その言葉に、湊は少しだけ救われる。
藤堂はすぐ勢いで話を進める。
でも三橋は、ちゃんと一歩引いて見ている感じがした。
「ていうかさ」
藤堂がまた言う。
「朝比奈と雨宮さんって、今なんなの?」
その質問で、教室の空気が少しだけ止まった。
佐伯たちもなんとなくこちらを見る。
湊は言葉に詰まった。
今なんなの。
その質問は、湊自身が最近一番考えていたことだった。
友達?
仲のいいクラスメイト?
好きな人?
でも、付き合ってはいない。
名前がない。
その曖昧さが、今の自分たちだった。
「……普通」
湊はとりあえずそう返した。
藤堂が吹き出す。
「便利すぎるだろ、その言葉」
「最近ずっとそれ」
倉田も笑う。
その時、栞が小さく言った。
「まだ、名前ない感じ」
教室が少し静かになる。
湊は思わず栞を見た。
栞は普通の顔だった。
でも、少しだけ照れているようにも見える。
「名前ない感じ?」
藤堂が聞き返す。
栞は少し考えてから言った。
「友達ではあるけど、それだけでもない、みたいな」
その言葉が、妙にしっくりきた。
湊は何も言えなかった。
でも、たぶん同じことを思っていた。
藤堂が数秒黙って、それから笑った。
「めっちゃ青春」
「だから何でも青春って言うな」
でも今回は、そこまで否定したい気持ちもなかった。
一時間目。
現代文。
でも湊の頭の中には、さっきの会話がずっと残っていた。
名前ない感じ。
その表現が、かなり今の自分たちだった。
はっきりしていない。
でも、確かに特別。
曖昧で、不安定で、でも心地いい。
授業中、栞がノートの端に小さく書いた。
『変なこと言ったかも』
湊は少し笑う。
『いや、分かる』
返す。
栞がそれを見て、少しだけ安心したように笑った。
その笑顔だけで、湊の胸はかなり満たされる。
休み時間。
席替えのくじ引きが配られた。
小さい紙。
番号。
ただそれだけ。
でも教室はかなり盛り上がっている。
「最悪前だったら終わる」
「後ろ来い……!」
「窓側!」
そんな声が飛び交う。
湊は紙を裏返したまま持っていた。
「見ないの?」
栞が聞く。
「怖い」
「大げさ」
「栞は?」
「まだ」
二人で少しだけ顔を見合わせる。
「一緒に見る?」
栞が言った。
その言葉に、湊は少しだけ笑った。
「なにそれ」
「なんとなく」
「……じゃあ」
二人で同時に紙を開く。
湊、三番。
栞、四番。
一瞬、意味が分からなかった。
栞が先に気づく。
「隣だ」
湊も顔を上げる。
本当に隣だった。
教室がざわつく。
藤堂が爆笑した。
「運命じゃん!」
「うるさい!」
でも、湊自身かなり驚いていた。
隣。
また。
偶然。
しかも連番。
栞も少し目を丸くしていた。
それから、小さく笑う。
「すごい」
「びっくりした……」
湊は本気で力が抜けた。
安心した。
かなり。
隣じゃなくなる覚悟を少ししていたから、その反動も大きかった。
藤堂が机を叩きながら笑っている。
「持ってるなーお前ら」
倉田まで笑っていた。
「これは強い」
三橋も少しだけ口元を緩める。
「よかったね」
その言葉に、湊は素直に頷きそうになった。
本当に、よかった。
昼休み。
教室の空気はまだ席替えの話で盛り上がっていた。
でも、湊の中ではもう結果が決まった安心感でいっぱいだった。
隣。
また隣。
それだけで、今日一日かなり気分が違う。
栞が弁当を開きながら言う。
「湊、朝より元気」
「分かりやすい?」
「かなり」
「だって隣だったし」
言ったあと、少し恥ずかしくなる。
でも栞は笑った。
「私も安心した」
その言葉で、また胸が熱くなる。
最近、本当にこういう瞬間が増えた。
嬉しいことを、ちゃんと言葉にしてくれる。
だから湊も、少しずつ素直になれている気がした。
午後。
授業はあまり頭に入らなかった。
隣。
また同じ席。
その事実だけで、妙に満たされている。
放課後。
教室の窓から夕方の光が入る。
文化祭の話をする声。
帰る準備をする音。
その中で、湊はふと思った。
もし今日、席が離れていたら。
たぶん今みたいに笑えていなかった。
それくらい、自分は栞の隣に慣れてしまっている。
「湊」
栞が呼ぶ。
「ん?」
「今日、ちょっと嬉しそうすぎた」
「栞もだろ」
「まあ、少し」
「少しか?」
栞は少し笑った。
「かなり」
その素直さがずるい。
帰り道。
夕方の空は薄いオレンジ色だった。
二人で駅へ向かう。
今日は、いつもより少しだけ距離が近い気がした。
「名前ない感じ」
湊がぽつりと言う。
栞が隣を見る。
「朝の?」
「うん」
「変だった?」
「いや」
湊は少し考える。
「たしかに、って思った」
栞は小さく頷いた。
「私も」
しばらく沈黙。
でも気まずくはない。
風が少し吹く。
制服の袖が揺れる。
「でも」
栞が静かに言った。
「名前なくても、今は結構好き」
湊はその言葉に、少しだけ息を止めた。
今は。
結構好き。
それが“関係”の話だと分かる。
友達とも、恋人ともまだ違う。
でも、今の距離。
今の空気。
それを栞も好きだと思っている。
「……俺も」
やっとそれだけ返した。
栞は少し笑う。
駅が見えてくる。
電車が来る。
二人で乗る。
今日は座れた。
並んで座る。
窓の外には夕方の街。
栞が小さく言った。
「でも、そのうち名前つくのかな」
湊の心臓が静かに跳ねた。
その質問には、まだ答えられなかった。
でも、嫌ではない。
むしろ。
少しだけ、その未来を期待している自分がいた。




