第28話 少しだけ嫉妬
水曜日の昼休み。
教室はいつも以上に騒がしかった。
理由は単純だ。
来週の席替え。
そして文化祭。
その二つの話題だけで、一組はしばらく盛り上がれる。
「絶対後ろ!」
「窓側がいい!」
「藤堂の近く嫌だ!」
「ひどくない?」
そんな声が飛び交う中、朝比奈湊は弁当を開いていた。
隣では栞が静かにお茶を飲んでいる。
最近、この時間がかなり自然になっていた。
昼休み。
弁当。
他愛ない会話。
特別ではない。
でも、湊にとってはかなり大事な時間。
「そういえばさ」
藤堂が突然言った。
嫌な予感がした。
「席替えしたら、雨宮さんモテそうだよな」
湊の箸が少し止まる。
「何その話」
倉田が笑う。
「急だな」
「いや、普通に。男子結構話したいと思ってるだろ」
藤堂は軽い調子だった。
悪意はない。
でも、湊の胸の奥が少しざわつく。
栞は小さく首を傾げた。
「なんで」
「話しやすいし、落ち着いてるし」
「あと顔普通に可愛いし」
藤堂がさらっと言う。
その瞬間、湊は変な顔をしそうになった。
栞は一瞬だけ止まり、それから小さくため息をついた。
「急にそういうのいいから」
「照れてる?」
「違う」
でも、栞の耳は少し赤かった。
湊はそれを見て、妙に落ち着かなくなる。
“可愛い”。
その言葉が頭に残る。
もちろん湊だって思っている。
栞は特別派手ではない。
すごく目立つ美人という訳でもない。
でも、話している時の表情とか、笑い方とか、静かな声とか。
そういうもの全部込みで、かなり可愛いと思っている。
ただ、それを他の男子に言われると、妙に嫌だった。
「朝比奈、顔怖い」
藤堂が笑いながら言う。
湊はハッとする。
「別に」
「いや今ちょっと不機嫌だった」
「気のせい」
倉田がぼそっと言う。
「分かりやす」
栞が隣で少しだけ笑った。
その笑い方が、なんとなく全部見抜いている感じで、湊はさらに落ち着かなくなる。
昼休みが終わったあとも、その感情は少し残っていた。
嫉妬。
たぶん、そういうものだった。
自分でも驚く。
こんなふうに、誰かの言葉で気分が変わるなんて。
一時間目や二時間目の授業中ですら、湊は少しだけぼんやりしていた。
隣の栞は普通にノートを取っている。
たまに目が合う。
そのたびに、さっきの“可愛い”が頭に蘇る。
湊は内心でかなり面倒くさくなっていた。
休み時間。
栞が小さく聞いた。
「まだ気にしてる?」
完全にバレている。
「……何を」
「藤堂くんの話」
湊は少し黙った。
隠しても無理だ。
最近、栞にはだいたい読まれる。
「まあ、少し」
栞は少しだけ目を細めた。
「嫉妬?」
湊は危うく咳き込みそうになった。
「言い方」
「違う?」
図星だった。
でも認めるのも悔しい。
湊は視線を逸らした。
「……分かんない」
栞は数秒だけ湊を見ていた。
それから、小さく笑った。
「そっか」
それだけ。
からかわない。
追及もしない。
でも、その“そっか”が少し嬉しそうに聞こえた。
午後。
体育の授業があった。
男子はグラウンドでサッカー。
女子は体育館。
湊は運動が得意な方ではない。
でも、最近はそこまで嫌でもなくなっていた。
藤堂がうるさくパスを要求してくるし、倉田は適当に走っているし、三橋は意外とちゃんとしている。
そういう空気の中に混ざることに慣れてきたからだ。
授業終わり。
グラウンドの端で水を飲んでいると、藤堂が肩を組んできた。
「朝比奈」
「重い」
「お前、分かりやすいな」
またそれだ。
「何が」
「雨宮さんの話された時」
湊は無言になる。
藤堂は少し笑った。
「いや、別に悪い意味じゃないって」
「……別に」
「好きなんだろ?」
直球だった。
湊は本気で止まった。
グラウンドの音が遠くなる。
サッカーボール。
笛。
男子の声。
全部少しぼやける。
藤堂は、からかう顔ではなかった。
少しだけ真面目だった。
湊は視線を逸らした。
「……どうだろ」
「それ、ほぼ答えだろ」
藤堂は笑った。
でも、それ以上は言わなかった。
「まあ、頑張れ」
軽く背中を叩いて、先に歩いていく。
湊はその後ろ姿を見ながら、しばらく動けなかった。
好きなんだろ。
その言葉が頭の中で何度も響く。
もう、自分でも分かっている。
かなり前から。
でも、人に言われると急に現実味が増す。
放課後。
今日は文化祭準備委員の簡単な集まりがあった。
各クラスの進捗確認。
係分担の途中経過。
備品申請。
そんな真面目な話。
終わった頃には、外は少し暗くなっていた。
教室へ戻ると、栞が待っていた。
「お疲れ」
「そっちも」
栞は鞄を持ちながら聞く。
「何かあった?」
湊は少し驚く。
「なんで」
「今日、午後ちょっと変」
そこまで分かるのか。
湊は苦笑した。
「藤堂に変なこと言われた」
「どんな?」
少し迷った。
でも、隠すのも変な気がした。
「……栞のこと、好きなんだろって」
言った瞬間、自分で顔が熱くなる。
教室にはもうほとんど人がいなかった。
夕方の静かな空気。
その中で、自分の声だけがやけに大きく感じる。
栞は少しだけ目を丸くした。
それから、静かに聞く。
「湊、なんて答えたの」
「どうだろって」
「それだけ?」
「それ以上無理」
栞は少し俯いた。
長い髪が少し揺れる。
湊は急に不安になった。
言わない方がよかったかもしれない。
変に意識させたかもしれない。
でも、栞は小さく笑った。
「そっか」
またその言い方。
でも今度は、少しだけ照れているように見えた。
「……変だった?」
湊が聞く。
栞は首を横に振る。
「ううん」
少し沈黙。
窓の外から、運動部の声が聞こえる。
夕方の光が教室をオレンジ色にしていた。
栞がぽつりと言う。
「私、ちょっと嬉しかったかも」
湊の心臓が大きく跳ねた。
「え」
「嫉妬されるの」
その言葉で、湊は完全に固まった。
栞は少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らす。
「いや、変な意味じゃなくて」
「いや十分変な意味だろ」
思わず言うと、栞は少し笑った。
「でも、湊が気にしてくれたの、ちょっと嬉しかった」
湊はもうどうしていいか分からなかった。
顔が熱い。
たぶんかなり赤い。
栞はそれを見て、小さく笑う。
「分かりやすい」
「……うるさい」
帰り道。
今日は少し風が強かった。
駅へ向かう途中、二人とも少し静かだった。
さっきの会話が、まだ残っている。
好き。
嫉妬。
嬉しかった。
そんな単語が、普通に出てきてしまった。
湊は空を見上げた。
夕方の雲が流れている。
「湊」
栞が呼ぶ。
「ん?」
「さっきの話」
「うん」
「無理に答えなくていいからね」
湊は少し黙った。
それはたぶん、“好きなんだろ”の答えのことだ。
栞は前を向いたまま続ける。
「急に言われても困るよね」
「……まあ」
「私も、そういうの急だと整理できないし」
湊はその言葉を聞いて、少し安心した。
焦らなくていい。
そう言われた気がした。
駅に着く。
ホームには夕方の人が並んでいる。
電車が来る。
二人で乗る。
今日は座れなかった。
並んで立つ。
電車が揺れる。
栞が窓の外を見ながら、小さく言った。
「でも」
「ん?」
「湊が嫉妬するの、ちょっと可愛かった」
湊は本気で吹き出しそうになった。
「何それ」
「本音」
「やめろ」
「なんで」
「心臓に悪い」
栞は少し笑った。
その笑顔が、今日はいつもより少し柔らかかった。
電車が揺れる。
夕方の景色が流れていく。
湊は思った。
たぶん、自分たちは少しずつ境界線を越え始めている。
友達。
クラスメイト。
文化祭委員。
そういう言葉だけでは、もう少し足りない。
でも、まだ名前はつかない。
その曖昧な距離が、今は少し心地よかった。




