第27話 近い距離
火曜日の朝。
朝比奈湊は、教室へ入った瞬間に少しだけ違和感を覚えた。
いつもより騒がしい。
しかも、その騒がしさの中心が教室の後ろに集まっている。
「何?」
湊が藤堂に聞くと、藤堂は楽しそうに振り返った。
「席替え」
「……は?」
「来週らしい」
その一言で、湊の思考が一瞬止まった。
席替え。
教室の空気が騒がしかった理由を理解する。
女子たちも、「窓側がいい」とか「後ろ嫌だ」とか盛り上がっている。
山崎が朝のホームルームで言ったらしい。
来週、ゴールデンウィーク前に席替えをする。
「マジか……」
湊は思わず小さく漏らした。
藤堂がにやにやする。
「なんだその反応」
「別に」
「雨宮さんと離れたくない?」
「うるさい」
即答した。
でも、少し図星だった。
湊は自分の席を見る。
窓際から二列目。
前すぎず後ろすぎず。
そして隣には栞。
この席が、いつの間にかかなり当たり前になっていた。
毎朝「おはよう」と言う。
授業中にノートを見せる。
小声で話す。
放課後に残る。
帰り道。
その全部の始まりが、この席だった。
だから、“席替え”という言葉が思った以上に重かった。
「おはよう、湊」
後ろから声。
振り返ると栞がいた。
湊は少しだけ安心する。
「おはよう」
栞は席へ座りながら言った。
「席替えするんだって」
「聞いた」
「みんな盛り上がってる」
「そりゃな」
栞は教科書を机へ置いて、小さく息を吐いた。
「今の席、結構好きだった」
その一言で、湊の心臓が跳ねた。
かなり。
「……俺も」
声が少し小さくなる。
栞は少しだけ笑った。
「やっぱり」
「何その反応」
「顔に出てるから」
最近、本当に全部読まれている。
でも、今は少しだけ嬉しかった。
一時間目が始まる前。
教室では席替え予想が始まっていた。
「次どこがいい?」
「後ろ!」
「窓側!」
「前は嫌!」
そんな声が飛び交う。
藤堂が突然言った。
「朝比奈、席替えしたら泣くなよ」
「泣かない」
「雨宮さんと離れても?」
「お前ほんと朝から元気だな」
藤堂は笑う。
倉田が眠そうに言った。
「でも実際、今の席よくない?」
「分かる」
三橋も頷く。
「バランスいいし」
「だろ?」
藤堂がなぜか得意げだった。
その会話を聞きながら、湊は少しだけ安心する。
別に、自分だけがこの席を気に入っている訳じゃない。
ただ。
自分の場合は少し理由が違うだけだ。
一時間目は英語だった。
先生の話を聞きながらも、湊の頭の片隅にはずっと席替えが残っていた。
もし離れたら。
今みたいに自然に話せるだろうか。
休み時間、毎回わざわざ話しかけに行くのか。
帰り道は変わらないかもしれない。
でも、学校での距離は確実に変わる。
湊は、自分が思っていた以上に“隣の席”に慣れていたことを知る。
授業の途中。
栞がノートの端に小さく書いた。
『気にしてる?』
湊は少し笑う。
完全に顔に出ていたらしい。
『少し』
返す。
栞は少し考えてから、また書いた。
『私も少し』
その文字を見た瞬間、湊の胸が軽くなる。
私も。
その一言が、最近本当に大きい。
自分だけじゃないと思えるから。
休み時間。
佐伯たち女子グループも席替えの話で盛り上がっていた。
「雨宮さん、次どこがいい?」
佐伯が聞く。
栞は少し考える。
「後ろすぎなければ」
「朝比奈くんの隣とか?」
軽い調子。
からかい半分。
でも、教室の空気が少しだけこちらを見る。
湊は一瞬固まった。
栞は少しだけ目を伏せ、それから普通に答えた。
「今の席は話しやすい」
その言葉が、また湊の心臓に悪い。
佐伯は「へー」と笑った。
悪意はない。
本当に軽い会話。
でも湊は、その“話しやすい”という言葉をしばらく引きずった。
昼休み。
湊たちはいつものように弁当を食べていた。
話題は当然、席替え。
「俺、絶対後ろがいい」
藤堂が言う。
「授業聞かなくなるだろ」
三橋が冷静に返す。
「聞いてる風はできる」
「最低」
倉田が笑う。
湊は唐揚げを食べながら、少しぼんやりしていた。
すると藤堂が急に聞く。
「朝比奈は?」
「何が」
「どこがいい?」
湊は少し考える。
本音を言えば、今の席。
でも、それを言うと絶対いじられる。
「……窓側?」
少し逃げた。
藤堂はにやっとする。
「雨宮さんの隣、とは言わないんだ」
「うるさい」
「でも実際そうだろ?」
湊は返事に詰まる。
その時、栞が静かに言った。
「私は、今の席好きだけど」
教室が少し静かになる。
藤堂が目を丸くする。
「雨宮さん、意外とちゃんと言うよな」
栞は少しだけ首を傾げた。
「だって本当だし」
その言い方があまりにも自然で、湊は何も言えなくなった。
好き。
話しやすい。
今の席が好き。
栞は、そういう言葉をちゃんと口にする。
大げさじゃなく。
でも、隠しもしない。
湊はそのたびに少し救われていた。
午後の授業。
数学の途中、突然雨が降り始めた。
窓に雨粒が当たる音。
少し暗くなる教室。
先生の声。
そして、隣にいる栞。
湊はふと思う。
もし席替えして離れたら、この景色も変わるのだろうか。
ノートを見せる距離。
小声で話す距離。
全部。
それを考えると、少しだけ胸がざわつく。
放課後。
今日は文化祭の係分担を軽く整理するため、また少し残ることになった。
教室にはまだ数人いる。
でも、少しずつ減っていく。
湊と栞は、係希望の紙を見ながら話していた。
「呼び込み、やっぱ男子多い」
栞が言う。
「藤堂の影響」
「強い」
「景品管理、倉田」
「予想通り」
二人で少し笑う。
雨はまだ降っていた。
窓の外が薄暗い。
放課後の教室に、雨音が響いている。
湊はその空気が好きだった。
静かで。
少し閉じ込められた感じがして。
栞がふと聞いた。
「席替え、そんなに嫌?」
湊は少しだけ言葉に詰まる。
でも、今さら隠してもたぶん無理だ。
「……今の席、慣れてるから」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
湊は少し笑った。
「栞と話しやすいし」
言ったあと、少しだけ恥ずかしくなる。
でも栞は、少しだけ目を細めた。
「私も」
短い返事。
でも、それだけで十分だった。
雨音が少し強くなる。
教室にはもう二人しか残っていない。
湊は窓の外を見ながら言った。
「でも、席替えしても話さなくなる訳じゃないよな」
栞は少し考えた。
「うん」
「帰り道もあるし」
「電話もあるし」
その言葉に、湊は少しだけ笑った。
電話。
休日に話したことが、ちゃんと二人の中に残っている。
「あと」
栞が続ける。
「別に、離れても話しかければいいし」
その言い方が、妙に安心できた。
そうだ。
席が変わっても終わる訳じゃない。
ただ、少し距離が変わるだけ。
それでも、今まで積み重ねてきたものは消えない。
湊はそう思えた。
帰る頃には、雨は少し弱くなっていた。
二人で昇降口へ向かう。
傘を開く。
今日はそれぞれ自分の傘。
でも、昨日みたいな距離じゃなくても、前ほど寂しくない。
「湊」
栞が呼ぶ。
「ん?」
「もし席離れても」
「うん」
「ちゃんと話すから」
その言葉に、湊は少しだけ胸が熱くなる。
「……俺も」
栞は少し笑った。
「なら大丈夫」
駅までの道。
雨上がりの匂い。
制服の袖に当たる湿った風。
二人で並んで歩く。
距離はいつも通り。
でも、湊の中では少しだけ変化があった。
隣の席だから仲良くなった。
それは確かだ。
でも今は、席だけじゃない。
放課後。
帰り道。
休日の電話。
名前で呼ぶこと。
そういう積み重ねがある。
だから、席替えしてもきっと大丈夫。
そう思えるくらいには、二人の距離は近くなっていた。
駅へ着く。
電車が来る。
二人で乗る。
今日は座れた。
窓の外には、雨上がりの夜の街。
栞が静かに言った。
「でも、できれば近い方がいい」
湊は一瞬、言葉を失う。
栞は窓の外を見たまま続けた。
「今みたいに、すぐ話せるし」
それが本音だと分かった。
湊は小さく笑う。
「……俺も」
栞が少しだけ笑った。
電車が揺れる。
普通の火曜日。
席替えの話をしただけ。
それだけなのに、湊の胸にはちゃんと残る一日だった。
近い距離に慣れてしまった。
でも、それはたぶん悪いことじゃない。
好きな人の隣が、当たり前になってきている。
その事実が、少し怖くて。
でも、かなり嬉しかった。




