第26話 月曜日の教室
月曜日の朝。
朝比奈湊は、家を出る前から少し落ち着かなかった。
理由は分かっている。
土曜日の電話だ。
一時間以上。
文化祭の話から始まって、気づけば普通の会話をずっとしていた。
好きな本。
休日の過ごし方。
学校のこと。
どうでもいい話。
でも、その“どうでもいい話”が楽しかった。
しかも最後、電話を切ったあとまでLINEが続いた。
『電話、思ったより平気だった』
『最初だけ緊張した』
『湊、最初めちゃくちゃ固かった』
『うるさい』
そんなやり取りを、寝る前まで何度か続けた。
日曜日も、少しだけLINEをした。
本当に少しだけ。
栞が読んでいた本の話。
湊が見ていた動画の話。
それだけ。
でも、休日が完全に一人じゃなかった。
その感覚が、まだ胸に残っている。
湊は制服のネクタイを締めながら、鏡を見た。
少しだけ顔が緩んでいる気がする。
「やば……」
自分で自分に引いた。
高校生すぎる。
でも、どうしようもない。
好きな人と電話した翌朝なのだから。
駅へ向かう道。
空気は少し暖かくなってきていた。
四月が終わりに近づいている。
新学期の緊張感も、クラス全体から少しずつ抜け始めていた。
湊はホームで電車を待ちながら、スマホを見た。
特に通知はない。
でも、土曜の通話履歴がまだ残っている。
それを見ただけで少し恥ずかしくなる。
電車が来る。
乗り込む。
いつもの場所。
そして次の駅。
扉が開き、栞が乗ってきた。
湊を見つける。
少しだけ目を細める。
「おはよう、湊」
「おはよう、栞」
もう自然に名前が出る。
少し前なら、それだけで心臓が暴れていた。
今ももちろん嬉しい。
でも、前より少し落ち着いて返せる。
栞は湊の顔を見るなり、小さく言った。
「今日、ちょっと元気そう」
湊は一瞬だけ詰まる。
「そう?」
「うん」
「普通」
「最近、その“普通”信用ない」
湊は少し笑った。
「栞もなんか機嫌よさそう」
「そう?」
「うん」
栞は少しだけ視線を逸らした。
「……電話、楽しかったからかも」
その言葉が、朝の電車の中で静かに落ちる。
湊は何も返せなくなった。
嬉しい。
かなり。
でも、そのまま言葉にすると全部顔に出そうだった。
栞が少しだけ笑う。
「固まった」
「……仕方ないだろ」
「分かりやすい」
また言われた。
でも今日は、少しだけ悔しくない。
学校へ向かう道。
休日明けだからか、生徒の数が多かった。
部活の話をする声。
眠そうに歩く男子。
コンビニ袋を持った女子。
そんな中を、二人で歩く。
「昨日、何時に寝た?」
栞が聞く。
「一時くらい」
「遅い」
「動画見てた」
「高校生っぽい」
「栞は?」
「十二時前」
「健康」
「普通」
湊は少し笑った。
最近、栞の“普通”の使い方が分かってきた気がする。
特別じゃない、という意味だけではない。
落ち着くもの。
無理していないもの。
そういう意味も含まれている。
教室へ入る。
月曜日の朝のざわめき。
藤堂はすでに来ていて、なぜか射的の設計図みたいなものを書いていた。
「見ろ、朝比奈」
「何それ」
「輪ゴム鉄砲改良版」
「本気すぎる」
倉田が後ろから言う。
「藤堂、文化祭だけ異常にやる気あるよな」
「祭りだからな」
三橋は静かにノートを見ながら言った。
「でもちゃんと考えてるのは偉いと思う」
「三橋に褒められた」
藤堂が嬉しそうにする。
その横で、湊は自然に席へ座った。
隣には栞。
それがもう、かなり当たり前になっている。
「栞、見て」
藤堂がなぜか栞にまで設計図を見せる。
「ちゃんと飛びそう」
栞が真面目に答える。
「だろ!」
「でも安全性は?」
三橋が冷静に口を挟む。
「それ言う?」
「学校だから」
教室に笑いが起きる。
月曜日の朝なのに、空気が明るい。
湊はその空気の中で、少しだけぼんやり思った。
楽しい。
本当に。
中学の頃、教室でこんなふうに笑っている自分なんて想像できなかった。
一時間目は現代文だった。
先生が前で小説の一節を読んでいる。
“特別ではない日常ほど、あとから思い出になる”
そんな内容だった。
湊は少しだけ手を止める。
最近、こういう文章に妙に反応してしまう。
放課後の寄り道。
雨の日の傘。
休日の電話。
どれも特別な事件ではない。
でも、湊の中ではちゃんと残っている。
隣を見る。
栞は真面目に教科書を見ていた。
でも、ページをめくる指先が少しゆっくりだった。
もしかしたら、同じことを考えているのかもしれない。
授業中、栞がノートの端に小さく書いた。
『眠い』
湊は少し笑う。
『昨日寝るの遅かった?』
栞が返す。
『少し』
そのあと、小さく追記。
『電話の後、ちょっと寝れなかった』
湊の心臓が一瞬止まりかけた。
それ、言う?
いや、でも。
たぶん。
自分も同じだった。
湊は少しだけ迷ってから書いた。
『……俺も』
栞はその文字を見て、少しだけ口元を緩めた。
その笑い方が、妙に嬉しかった。
休み時間。
藤堂が突然言った。
「そういえば土曜何してた?」
湊の心臓が跳ねる。
「別に」
「俺、友達とボウリング行った」
「へえ」
「朝比奈は?」
なぜ聞く。
湊は少しだけ視線を泳がせた。
その時、栞が横から静かに言った。
「電話してた」
教室が少し止まった。
湊は完全に固まる。
藤堂が目を丸くする。
「誰と?」
栞が普通の顔で言う。
「湊と」
終わった。
湊は本気でそう思った。
でも、栞は全然焦っていなかった。
藤堂は数秒黙ったあと、机を叩いて笑い出した。
「高校生してる!」
「うるさい!」
湊は反射で返す。
倉田まで笑っている。
「休日電話は強い」
三橋だけが比較的落ち着いていた。
「長かったの?」
栞が少し考える。
「一時間くらい」
藤堂がさらに騒ぐ。
「長っ!」
湊はもう顔を隠したかった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
恥ずかしい。
かなり。
でも、栞が隠さなかった。
それが少し嬉しかった。
「何話すんだよ、一時間も」
藤堂が聞く。
「文化祭」
湊が即答する。
「絶対途中から違う話してるだろ」
図星だった。
栞が少し笑う。
「普通の話」
「それもう青春だろ」
「何でも青春って言うな」
教室にまた笑いが起きる。
佐伯たち女子グループも少し笑っていた。
でも、嫌な空気ではなかった。
からかわれている。
でも、それだけだ。
変に距離を置かれる訳でもない。
むしろ、自然にクラスの会話の中へ入っている。
湊は少しだけ安心した。
昼休み。
湊は弁当を食べながら、少しぼんやりしていた。
栞は意外と強い。
名前呼びの時もそうだった。
今日の電話の話も、普通に言った。
隠さない。
でも、見せびらかす訳でもない。
そのバランス感覚がすごい。
「湊」
栞が小さく呼ぶ。
「ん?」
「まだ引きずってる?」
「少し」
「電話の話?」
「うん」
栞は少しだけ笑った。
「でも、隠すことでもないし」
「まあ、そうだけど」
「嫌だった?」
湊はすぐに首を横に振った。
「嫌じゃない」
本当に。
むしろ、少し嬉しかった。
栞はその反応を見て、小さく頷いた。
「ならよかった」
午後の授業。
今日は妙に時間が早く感じた。
気づけば放課後。
ホームルームで山崎が文化祭の係分担を発表する日程を確認していた。
「今週中には決めたいから、準備委員よろしく」
「はい」
湊と栞が同時に返事をする。
それだけで、少しだけ目が合う。
最近、こういう小さい瞬間が増えた。
放課後。
今日は特に残る作業はなかった。
でも、なんとなく二人とも帰る準備が遅い。
湊は鞄を閉じながら聞いた。
「今日、寄る?」
栞が少しだけ目を丸くする。
「どこに?」
「コンビニとか」
「理由適当」
「……少し話したいだけ」
言ってから、湊は少し固まった。
何を言ってるんだ。
でも栞は笑わなかった。
少しだけ目を細めて言う。
「じゃあ寄る」
コンビニで飲み物を買う。
それだけ。
本当にそれだけ。
でも、学校帰りに二人でコンビニへ寄るだけで、少し特別に感じる。
店を出て、並んで歩く。
夕方の風。
少し暖かい空気。
「今日」
栞が言う。
「うん」
「電話の話、びっくりした?」
「かなり」
「藤堂くん、反応大きかった」
「絶対面白がってる」
「でも楽しそうだった」
それは確かにそうだった。
からかってはいた。
でも、嫌な感じではない。
「湊」
「ん?」
「私、休日に電話するの、ちょっと嬉しかった」
湊は足を止めそうになった。
栞は前を向いたまま続ける。
「学校ない日でも、話したいって思われてる感じして」
その言葉が、胸にまっすぐ刺さる。
湊はしばらく何も言えなかった。
でも、その気持ちはかなり分かる。
休日に連絡したい。
話したい。
それは、学校だけの関係じゃなくなってきているということだから。
「……俺も」
やっとそれだけ言えた。
栞は少しだけ笑った。
「同じ」
またその言葉。
でも今日は、いつもより少しだけ特別に聞こえた。
駅が近づく。
夕方のホーム。
電車が来る。
二人で乗る。
今日は座れなかった。
並んで立つ。
吊り革を持ちながら、湊は窓の外を見た。
普通の月曜日。
授業。
文化祭。
友達との会話。
そして、好きな人との休日の電話。
少し前の自分なら、こんな毎日は想像できなかった。
栞が小さく言う。
「また今度、電話する?」
湊はすぐに答えられなかった。
嬉しすぎて。
「……する」
栞は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、湊は思った。
たぶん今、自分は高校生活をかなり好きになっていた。




