第25話 休日の連絡
土曜日の朝。
朝比奈湊は、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
カーテンの隙間から入る光。
静かな部屋。
平日のように急いで起きる必要はない。
それなのに、頭は妙にすっきりしていた。
理由は分かっている。
昨日の放課後だ。
本屋。
ファミレス。
パンケーキ。
「今日の寄り道も、覚えてると思う」
栞の言葉を思い出すたび、胸の奥が少し熱くなる。
湊は枕に顔を押しつけた。
完全に高校生だ。
いや、高校生なんだけど。
でも、自分がこんなふうになるとは思っていなかった。
誰かと寄り道しただけで、次の日まで引きずるなんて。
中学の頃の自分なら、たぶん想像もしていない。
湊は起き上がり、スマホを手に取った。
時間は九時前。
通知は特にない。
LINEも静かだ。
それなのに、無意識に栞とのトーク画面を開いてしまう。
昨日の最後のやり取り。
『今日はありがとう』
『こっちこそ』
『パンケーキ、思ったより美味しかった』
『半分だったからかも』
『何それ』
『分からない』
そこで終わっている。
たったそれだけ。
でも、画面を見るだけで少し落ち着かない。
休日。
学校がない日。
つまり、自然に会話するタイミングがない日だ。
平日は隣の席がある。
授業がある。
帰り道がある。
でも休日は違う。
自分から連絡しなければ、何も起きない。
湊はスマホを伏せた。
いや、朝から送るのも変だろ。
用事もないのに。
でも、昨日あれだけ話して、今日まったく連絡なしというのも少し寂しい。
面倒くさい。
自分が。
湊はベッドから降りた。
とりあえず顔を洗う。
朝食を食べる。
テレビでは情報番組が流れている。
休日のゆるい空気。
でも、頭の片隅にはずっと栞がいる。
昼前。
湊は部屋で文化祭のことを少し考えていた。
係分担。
景品。
射的の作り方。
段ボール。
輪ゴム鉄砲。
ノートの端に軽くメモをする。
その途中、スマホが震えた。
湊は反射的に手を伸ばす。
画面。
栞。
その名前を見ただけで、心臓が少し速くなった。
『暇?』
短い一言。
それだけ。
でも湊は五秒くらい画面を見つめていた。
暇。
今の自分はかなり暇だ。
そして、かなり嬉しい。
でも、即返信すると待ってたみたいで恥ずかしい。
いや、実際ちょっと待ってたけど。
湊は一度スマホを置いた。
十秒。
いや長い。
不自然。
結局、普通に返した。
『暇』
すぐ既読がつく。
早い。
湊の心臓がまた少し跳ねる。
『よかった』
その三文字だけで、今日の気分がかなり変わる。
『どうした?』
湊が送る。
栞から返信。
『文化祭の景品、少し見たい』
湊は少しだけ笑った。
完全に栞らしい理由だ。
『ネットで?』
『うん』
『真面目』
『湊も見る?』
その誘い方が、妙に自然だった。
学校帰りみたいに。
当たり前みたいに。
湊は少しだけ息を吐く。
『見る』
すぐに通話アプリの通知が来た。
湊は一瞬固まる。
通話。
文字じゃなくて?
心の準備が。
でも今さら断れない。
湊は覚悟を決めて通話ボタンを押した。
「……もしもし」
自分でも少し声が硬い。
少し間があってから、栞の声が聞こえた。
『もしもし』
電話越しの声。
それだけで、変に緊張する。
学校で毎日話しているのに、電話になるだけで別物だった。
『なんか変な感じ』
栞が小さく言う。
「分かる」
『湊、ちょっと固い』
「そっちも」
栞が少し笑う声が聞こえた。
その瞬間、湊の緊張が少しだけほぐれる。
『景品、駄菓子系でいいかなと思ってるんだけど』
「あー、定番だよな」
『でも当たり感欲しい』
「分かる」
そんな会話が始まる。
最初は少しぎこちなかった。
でも、文化祭の話をしているうちに、いつもの空気に戻っていく。
景品。
予算。
当たり。
ハズレ。
輪投げ。
射的。
くだらない話をしているうちに、通話ということを忘れそうになる。
『これとかどう?』
栞が送ってきた画像を見る。
小さいお菓子詰め合わせ。
「普通に良さそう」
『普通に、って便利』
「最近うつった」
『感染力高いから』
二人で少し笑う。
通話越しだと、笑い声が少し近く感じる。
それが妙にくすぐったい。
気づけば三十分以上話していた。
景品の話から、文化祭全体の話へ変わり、そこからクラスの話になる。
藤堂は絶対呼び込み向いてる。
倉田は景品で寝そう。
三橋は会計完璧そう。
そんな話をしているだけなのに、時間があっという間だった。
『そういえば』
栞が言った。
「ん?」
『昨日の本屋』
「ああ」
『湊、恋愛小説の棚ちょっと見てた』
湊は一瞬止まった。
「見てない」
『見てた』
「ちらっと」
『興味出た?』
電話越しなのに、栞が少し笑っているのが分かる。
湊は天井を見上げた。
「……まあ、少し」
『そっか』
その“そっか”が、昨日と同じだった。
でも今日は、電話越しだからか少し柔らかく聞こえた。
少し沈黙が落ちる。
不思議と嫌じゃない。
電話なのに。
普通なら気まずくなりそうなのに、今は落ち着く。
『湊』
「うん」
『昨日、楽しかった』
その言葉に、湊は少し息を止めた。
『寄り道』
栞が続ける。
「……俺も」
『よかった』
また少し沈黙。
でも今度は、お互い少し照れているのが分かる沈黙だった。
湊はベッドに寝転がった。
天井を見る。
電話越しに栞の呼吸音が少しだけ聞こえる。
それだけで、距離が近く感じた。
『休日に電話すると思わなかった』
栞がぽつりと言う。
「俺も」
『高校生っぽい』
「昨日も言ってた」
『最近ちょっと思う』
湊は少し笑った。
「何を?」
『ちゃんと高校生活してる感じ』
その言葉は、湊の胸に静かに落ちた。
ちゃんと高校生活してる。
それはたぶん、今の湊が一番欲しかった感覚だった。
中学の頃にはなかったもの。
誰かと放課後に寄り道して。
休日に連絡して。
どうでもいい話をして。
それを楽しいと思えること。
「……うん」
湊は小さく頷いた。
「俺も、最近そう思う」
電話の向こうで、栞が少しだけ笑った気がした。
昼過ぎ。
通話は一時間近く続いていた。
景品の話なんて、途中からほとんどしていない。
好きな本。
中学の時の話。
苦手な教科。
休日の過ごし方。
そんな普通の話ばかりだった。
『湊って、休日何してること多いの?』
「寝るかゲームか」
『高校生っぽい』
「栞は?」
『本読むか、動画見るか』
「インドア」
『お互い』
また“同じ”だった。
そのことが少し嬉しい。
『でも』
栞が少し間を空ける。
『最近は、学校ある方が楽しいかも』
湊は少し黙った。
その気持ちは、かなり分かる。
前なら休日の方が好きだった。
学校は疲れる場所だったから。
でも今は違う。
学校へ行けば栞がいる。
藤堂たちがいる。
文化祭の話がある。
隣の席がある。
「……俺も」
自然に言葉が出た。
『そっか』
またその言い方。
短いのに、ちゃんと嬉しそうなのが分かる。
気づけば、窓の外は少し夕方に近づいていた。
時間が過ぎるのが早い。
『長電話したね』
栞が言う。
「ほんとだ」
『疲れた?』
「全然」
それは本音だった。
むしろ、切るのが少し惜しい。
でも、それをそのまま言う勇気はまだない。
『じゃあ、そろそろ切る?』
栞が聞く。
湊は少しだけ間を空けた。
「……うん」
本当は、もう少し話したかった。
でも、ずっと続ける訳にもいかない。
栞が小さく言う。
『また月曜ね、湊』
その言葉が、少しだけ特別に聞こえた。
学校で毎日言っているのに。
電話越しだからかもしれない。
「うん。また月曜、栞」
通話が切れる。
部屋が急に静かになった。
湊はスマホを胸の上に置いて、しばらく天井を見ていた。
一時間以上話していた。
休日に。
用事だけじゃなく。
普通の話を。
それが、まだ少し信じられない。
でも、かなり嬉しかった。
スマホがもう一度震える。
栞からだった。
『電話、思ったより平気だった』
湊は少し笑った。
『最初だけ緊張した』
すぐ既読がつく。
『湊、最初めちゃくちゃ固かった』
『うるさい』
『でも途中から普通だった』
その言葉に、湊は少しだけ安心した。
『栞も』
返信すると、少ししてから返ってくる。
『じゃあ、少し成長』
湊はスマホを見ながら笑った。
成長。
最近よく言われる。
でも、悪くない。
好きな人と、休日に普通に電話できるくらいには、自分は変われているのかもしれない。
窓の外を見る。
夕方の光が、部屋を少しオレンジ色にしていた。
普通の土曜日。
特別な予定は何もない。
でも、湊にとってはかなり大事な一日になった。
休日に、学校がない日に、それでも話したいと思う相手がいる。
そのことが、思っていたよりずっと嬉しかった。




