第24話 放課後の寄り道
金曜日の放課後。
教室には、週末前特有の少し浮いた空気が流れていた。
授業が終わった瞬間から、あちこちで予定の話が始まっている。
「カラオケ行かね?」
「土曜部活だるい」
「映画観たい」
そんな声が飛び交う中、朝比奈湊は文化祭の係希望用紙をまとめていた。
隣では栞が、提出された紙を順番に揃えている。
「呼び込み多い」
栞が言った。
「藤堂効果」
湊が返す。
実際、呼び込み希望には藤堂の名前が最初に書かれていた。
その下に何人か男子が続いている。
「射的も人気あるな」
「男子多いね」
「輪投げは?」
「女子が多い」
そんな話をしながら、二人で紙を整理する。
クラスの人数分あると、思ったより時間がかかる。
でも、こういう作業をする時間が、湊は嫌いじゃなかった。
放課後の教室。
夕方の光。
少しずつ減っていくクラスメイト。
その中で、栞と並んで何かをしている時間。
特別なことは何もない。
けれど、最近の湊にとってはかなり大事な時間になっていた。
「朝比奈、まだ残る?」
藤堂が鞄を肩にかけながら聞く。
「もう少し」
「真面目だなー」
「お前が適当すぎるだけ」
「ひど」
藤堂は笑ったあと、栞の方を見た。
「雨宮さんもお疲れー」
「お疲れ」
「じゃ、また月曜な。湊」
最後だけわざとだった。
湊は思わず顔をしかめる。
「慣れてきたな」
「だって反応面白いし」
「最低」
藤堂は大笑いしながら教室を出ていった。
倉田もその後ろを歩いていく。
「じゃーな」
三橋は帰る前に、係希望の紙を少し見た。
「人数、意外と偏ってないね」
「たしかに」
湊が頷く。
「いい感じに分かれてる」
「クラス全体でやる感じになってるからじゃない?」
栞が言った。
三橋は少しだけ笑った。
「それなら成功だね」
そう言って、三橋も帰っていった。
教室に残ったのは、湊と栞だけだった。
窓の外は、少しオレンジ色になり始めている。
部活の音が遠くから聞こえる。
栞が最後の紙を揃えて、ふうと小さく息を吐いた。
「終わった」
「お疲れ」
「湊も」
湊は机に軽く背中を預けた。
週末前の疲れが少しある。
でも、不思議と嫌な疲れではなかった。
栞がふと聞く。
「今日、このあと予定ある?」
湊は少し考える。
「特には」
「そっか」
栞はそこで一度言葉を切った。
何か考えている顔。
湊は少し待つ。
すると栞が、小さく言った。
「駅前、少し寄る?」
湊は一瞬止まった。
「寄る?」
「うん。本屋とか」
本屋。
その単語だけで、以前一緒に行った土曜日を思い出す。
ドリンクバー。
私服。
本屋。
普通の話。
湊の心臓が少し速くなった。
「……行く」
返事が少し早かった気がする。
栞は少しだけ笑った。
「即答」
「いや、別に」
「嬉しそう」
「顔に出てる?」
「少し」
最近そればっかだ。
でも、否定しきれない。
二人で教室を出る。
夕方の廊下は静かだった。
文化祭のポスターを作っているクラス。
部活へ急ぐ生徒。
窓から入る春の終わりの風。
その中を、二人で並んで歩く。
駅までの道。
今日は少しだけ、帰る時より足取りが軽い気がした。
“寄り道”という響きが、高校生っぽく感じる。
中学の頃は、放課後に誰かとどこかへ行くなんてほとんどなかった。
まっすぐ帰る。
それが普通だった。
でも今は違う。
「本屋だけ?」
湊が聞くと、栞は少し考えた。
「お腹空いてたら、何か食べる?」
その言葉で、湊の心臓がまた少し跳ねる。
放課後。
寄り道。
二人。
何か食べる。
言葉にすると、急に特別感が出てしまう。
「……まあ、空いてる」
「素直」
「最近もう隠せない」
栞は少し笑った。
駅前は、金曜日の夕方で少し人が多かった。
制服姿の高校生も多い。
どこかへ遊びに行くグループ。
カップル。
部活帰り。
その中に、自分たちも混ざっている。
湊はそれが少し不思議だった。
本屋へ入る。
冷房の涼しい空気。
静かなBGM。
紙の匂い。
栞は自然に文庫本コーナーへ向かった。
湊もその後をついていく。
「また普通の話読むの?」
湊が聞く。
栞は棚を見ながら頷く。
「疲れてる時は、普通のがいい」
「分かる気がする」
「湊は?」
「最近は、学校の話っぽいやつ読むかも」
「影響されてる」
「誰かさんに」
栞は少しだけ口元を緩めた。
本棚の前に並んで立つ。
静かな空間。
ページをめくる音。
近くにいるのに、会話は少ない。
でも、不思議と気まずくない。
湊はふと思った。
こういう時間が好きなんだ。
騒がしい場所で盛り上がるより、こうやって静かに同じ場所にいる方が落ち着く。
栞もたぶん、同じタイプだ。
「湊」
「ん?」
「これ」
栞が一冊の文庫本を見せてくる。
タイトルは恋愛小説だった。
「珍しい」
「表紙が気になっただけ」
「恋愛読むんだ」
栞は少しだけ視線を逸らした。
「たまに」
その反応だけで、湊は妙に意識してしまう。
恋愛。
その単語が、今の自分には強い。
「湊は?」
「俺?」
「恋愛小説読む?」
湊は少し考えた。
「昔は全然読まなかった」
「今は?」
その質問に、湊は少しだけ詰まる。
今は、読むかもしれない。
でも、それはたぶん。
恋愛が少し分かるようになってきたからだ。
「……最近は、ちょっと分かる気がする」
栞は数秒だけ黙った。
それから、小さく言った。
「そっか」
その“そっか”の意味を考えそうになって、湊はやめた。
考えすぎると、また顔に出る。
本屋を出た頃には、空はかなり暗くなっていた。
駅前のライトがつき始めている。
栞が聞く。
「何か食べる?」
「食べる」
「また即答」
「今日は腹減ってる」
「言い訳っぽい」
結局、駅前の小さなファミレスに入った。
前に行った店とは別の場所。
制服姿の高校生も多い。
二人は窓際の席に座った。
メニューを開く。
「どうする?」
栞が聞く。
「甘いのいける?」
「まあ普通に」
「じゃあこれ半分する?」
栞が指したのは、小さいパンケーキだった。
湊は一瞬止まる。
“半分する”という言葉が、思った以上に距離感を近く感じさせた。
「……いいけど」
「嫌ならいい」
「嫌じゃない」
むしろ嬉しい。
でも、それを言うとたぶん終わる。
ドリンクバーとパンケーキ。
それだけ。
本当に普通の寄り道。
なのに、湊の心臓はかなり忙しかった。
「湊」
栞がストローをくわえながら言う。
「ん?」
「今日、朝より普通」
「努力した」
「成果出てる」
「よかった」
栞は少し笑う。
「でも、たまに止まる」
「何が?」
「私が名前呼ぶと」
湊は思わず目を逸らした。
「……慣れないんだよ」
「そんなに?」
「栞は平気そうなのに」
栞は少しだけ考える。
「平気じゃない時もある」
「え?」
「でも、嬉しい方が大きい」
その言葉が、湊の胸にまっすぐ入った。
嬉しい。
栞も。
湊は何も返せなくなる。
ファミレスの周囲は騒がしい。
隣の席では高校生グループが笑っている。
店員の声。
食器の音。
そんな中なのに、栞の言葉だけが妙にはっきり聞こえた。
栞はパンケーキを小さく切りながら言う。
「だから、慣れてもいいかなって思ってる」
「……名前呼び?」
「うん」
湊は小さく息を吐いた。
「俺も」
栞が少し顔を上げる。
「慣れたい?」
「うん。でも、今の変な感じも嫌じゃない」
言ったあと、少し恥ずかしくなる。
でも栞は笑った。
「同じ」
また、その言葉だった。
同じ。
最近、一番安心する言葉。
パンケーキを半分に分ける。
湊は少しだけ笑った。
「なんか高校生っぽいな」
「今さら?」
「いや、こういうの」
「寄り道?」
「うん」
栞はフォークを持ったまま、少し窓の外を見た。
「高校入る前、こんなことすると思ってなかった」
湊はその言葉に少し驚く。
「栞も?」
「うん」
「もっと一人でいるタイプだと思ってた」
「失礼」
「でも実際、最初はそんな感じだった」
栞は少しだけ頷く。
「最初は、誰ともそこまで仲良くなるつもりなかった」
その言葉が、湊には少し意外だった。
「そうなの?」
「うん。普通に過ごせればいいかなって」
それは、湊と少し似ている。
普通でいい。
目立たなくていい。
ちゃんと学校生活を送れれば、それで。
でも今、自分たちは放課後に寄り道して、パンケーキを半分こしている。
普通だけど、少し特別な時間。
「でも」
栞が小さく言う。
「今は、こういうの結構好き」
湊は少しだけ笑った。
「俺も」
栞がこちらを見る。
目が合う。
そのまま少しだけ沈黙が落ちた。
気まずくはない。
でも、前よりずっと静かな時間が増えた気がする。
言葉がなくても、なんとなく分かる瞬間。
それが少しずつ増えている。
店を出る頃には、夜になっていた。
駅前の光が眩しい。
金曜の夜で、人も多い。
二人で駅へ向かう。
「今日」
栞が言う。
「うん」
「楽しかった」
湊は少し笑う。
「俺も」
「本屋も、ファミレスも」
「パンケーキも?」
「半分したし」
その言い方が少しおかしくて、湊は笑った。
栞も少し笑う。
駅に着く。
ホームで電車を待つ。
夜の風は少し涼しかった。
電車が来る。
二人で乗る。
今日は座れた。
少し間を空けて座る。
でも、前よりその距離が近く感じる。
栞が窓の外を見ながら、小さく言った。
「今日の寄り道も、覚えてると思う」
湊の心臓が、また少し速くなった。
前にも聞いた言葉。
でも今日は、前より少し意味が違う気がした。
「……俺も覚えてると思う」
湊がそう返すと、栞は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、湊は思った。
たぶん今、自分はかなり幸せだった。




