第23話 少しだけ噂
翌朝、朝比奈湊は教室の前で少しだけ足を止めた。
理由は分かっている。
昨日、藤堂たちに栞と名前で呼び合っていることを知られた。
それだけならまだいい。
問題は、藤堂がああいう性格だということだった。
悪いやつではない。
むしろ、かなりいいやつだと思う。
けれど、面白そうなものを見つけると、わりと遠慮なく広げる。
昨日の放課後、わざと廊下から「湊ー」と呼んできた時点で、しばらくいじられるのは確定していた。
湊は教室のドアの前で、小さく息を吸った。
別に悪いことはしていない。
名前で呼ぶようになっただけ。
それだけだ。
それだけなのに、教室に入るのに少し緊張する。
中学の頃から、こういう空気が苦手だった。
何かを言われる前に、言われることを想像して疲れる。
実際に言われるより先に、自分の頭の中で何度もからかわれる。
それが一番面倒くさい。
湊はドアを開けた。
朝の教室は、いつも通り騒がしかった。
藤堂はまだ来ていない。
倉田は机に突っ伏している。
三橋はノートを開いている。
女子の方では、数人が文化祭の装飾について話していた。
ひとまず、何も起きていない。
湊は少し安心して席へ向かう。
隣の席には、もう栞がいた。
珍しい。
いつもは湊の少し後か、同じくらいに来ることが多い。
栞は湊を見ると、小さく言った。
「おはよう、湊」
その呼び方に、まだ少しだけ胸が反応する。
でも昨日よりはましだった。
「おはよう、栞」
栞は少しだけ笑った。
「今日はちゃんと普通」
「努力してる」
「努力なんだ」
「慣れるまでは」
湊が座ると、栞は机の上に置いていたプリントを少し寄せた。
文化祭の係分担表だった。
「朝から?」
湊が聞くと、栞は頷く。
「昨日ちょっと考えた」
「ほんと真面目だな」
「湊も考えてたでしょ」
「少し」
「なら同じ」
そう言われると、少し嬉しい。
最近、栞との“同じ”が増えている。
それは偶然もあるし、合わせている部分もあるのかもしれない。
けれど、そのたびに自分だけではないと思える。
湊はプリントを見た。
射的係。
輪投げ係。
受付。
景品。
装飾。
会計補助。
呼び込み。
「呼び込みっている?」
湊が言うと、栞は少し首を傾げる。
「いるんじゃない? 文化祭っぽいし」
「藤堂向き」
「すごく向いてる」
二人で少し笑った。
その時、教室のドアが勢いよく開いた。
藤堂だった。
「おはよー」
いつも通り声が大きい。
湊は反射的に身構えた。
藤堂は鞄を席に置き、すぐにこちらを見た。
にやっと笑う。
「おはよう、湊」
来た。
湊は顔をしかめた。
「普通に朝比奈でいい」
「えー、雨宮さんはいいのに?」
「お前は違う」
藤堂は大げさに胸を押さえた。
「差別だ」
倉田が顔を上げる。
「朝からうるさい」
三橋も静かに言った。
「本人が嫌ならやめた方がいいよ」
藤堂はすぐに手を上げた。
「はいはい、分かったって。ごめん、朝比奈」
軽い。
でも、ちゃんと引くところは引く。
だから藤堂は嫌いになれない。
湊は少しだけ息を吐いた。
「別に怒ってはない」
「照れてるだけだろ」
「それは言わなくていい」
藤堂は笑った。
栞は隣で少しだけ口元を緩めていた。
「面白がってる?」
湊が小声で聞くと、栞は小さく答えた。
「少し」
「昨日も言ってた」
「湊、分かりやすいから」
「それも昨日言ってた」
栞はまた少し笑った。
その笑い方を見て、湊の緊張は少し薄れた。
一時間目が始まる前、教室の中で名前呼びの話は少しだけ広がった。
藤堂が大声で言った訳ではない。
でも、近くの席の何人かには聞こえていたらしい。
女子の一人、佐伯が通りがかりに言った。
「朝比奈くんと雨宮さん、名前で呼ぶようになったんだ」
湊は一瞬固まった。
栞は普通に答える。
「うん。最近」
「仲いいね」
佐伯は笑って言った。
悪意はない。
本当に軽い感想だった。
湊はどう返せばいいか分からなかった。
でも、栞が先に言った。
「文化祭委員だから、話すこと増えた」
ああ、その言葉があった。
湊は心の中で助かる。
文化祭委員。
便利な言葉。
でも、今は少しだけ違う気もする。
もちろん、文化祭委員だから話すことが増えたのは本当だ。
けれど、名前で呼ぶようになった理由を全部そこに押し込めるには、少し無理がある。
湊はそう思ってしまった。
佐伯は「そっか」と笑って、自分の席へ戻っていく。
それだけだった。
湊は思った。
噂というのは、こうやって少しずつ生まれるのかもしれない。
大げさに騒がれるのではなく、軽く言われる。
仲いいね。
名前で呼ぶんだ。
それだけ。
でも、言われた本人だけが少し意識してしまう。
一時間目は数学だった。
湊は黒板を見ながら、なるべく授業に集中しようとした。
けれど、今朝の佐伯の言葉が少し残っている。
仲いいね。
そう見えるらしい。
少なくとも、周囲から見ても湊と栞は仲がいい。
それは嬉しい。
でも怖くもある。
もしそれを栞が嫌だと思ったら。
そう考えかけて、すぐに自分で否定する。
昨日、栞は言った。
私は嫌じゃないよ。
名前で呼ぶの。
あの言葉を思い出すと、少し安心できた。
授業中、栞がノートの端に小さく書いた。
『気にしてる?』
湊は少しだけ驚いて、隣を見る。
栞は黒板を見ている。
でも、たぶん湊の様子に気づいていた。
湊はノートの端に返す。
『少し』
栞がそれを見て、少しだけペンを動かした。
『私も少し』
湊はその文字を見て、胸の奥が少し軽くなった。
私も少し。
それだけで十分だった。
自分だけが動揺している訳ではない。
栞も少し気にしている。
でも、それでも名前で呼んでくれる。
その事実が嬉しかった。
二時間目の休み時間。
藤堂たちは文化祭の係分担で盛り上がっていた。
「俺、呼び込みやるわ」
藤堂が自信満々に言う。
「決まってないのに?」
湊が返す。
「向いてるだろ」
「それは否定できない」
倉田が言う。
「俺、景品管理がいい。座ってられそう」
「楽そうなとこ選ぶな」
三橋は少し考えて言った。
「会計補助とか、記録係ならやってもいい」
「三橋、真面目すぎる」
藤堂が笑う。
でも、三橋のような人がいてくれるのは本当に助かる。
湊は係分担表にメモをした。
呼び込み、藤堂候補。
景品、倉田候補。
会計補助、三橋候補。
書きながら、少し楽しくなる。
クラスの人たちが、少しずつ文化祭の中で役割を持ち始めている。
それをまとめる立場に自分がいる。
中学の頃の湊なら、たぶん想像できなかった。
昼休み。
少し事件があった。
事件というほど大げさではない。
でも、湊にとっては少し心臓に悪かった。
弁当を食べている時、藤堂がまた文化祭の話から急に話題をずらした。
「そういえばさ、名前呼びって誰から始めたの?」
湊は飲んでいたお茶でむせそうになった。
「急に何」
「気になるじゃん」
倉田も少し笑う。
「たしかに」
三橋は止めるでもなく、少しだけ様子を見ている。
湊はどう答えるか迷った。
自分からだった。
帰り道、無意識に“栞”と呼んでしまった。
そのあと栞が“湊”と返した。
そんなこと、昼休みの弁当中に言える訳がない。
「……流れ」
「流れで名前呼びになるか?」
藤堂がにやける。
「なることもあるだろ」
「青春だな」
「それ言えばいいと思ってるだろ」
その時、少し離れた女子グループの方から声がした。
「何の話?」
佐伯だった。
藤堂が振り返る。
「朝比奈と雨宮さんの名前呼びの話」
湊は心の中で終わったと思った。
女子の数人がこちらを見る。
栞もその中にいた。
弁当を食べる手を止めて、少しだけこちらを見ている。
佐伯が笑って言った。
「あ、それ私も気になってた」
「気にしなくていい」
湊は思わず言う。
佐伯は楽しそうに笑った。
「だって急にじゃん。昨日まで苗字だったのに」
「最近だよ」
栞が静かに言った。
教室の空気が少しだけ止まる。
湊は栞を見る。
栞は弁当箱のふたを閉めながら、普通の顔で言った。
「呼び方変えただけ」
それだけ。
本当にそれだけ。
でも、その言い方は不思議と強かった。
からかわれる隙を消すほど冷たい訳ではない。
でも、必要以上に恥ずかしがる訳でもない。
ただ、事実として言った。
呼び方変えただけ。
藤堂が一瞬黙って、それから笑った。
「雨宮さん、やっぱ強いな」
佐伯も「たしかに」と笑う。
それで空気は軽くなった。
湊は、栞にまた助けられたと思った。
午後の授業は、少しだけぼんやりしていた。
昼休みのことが頭に残っている。
栞は、周りに言われてもあまり崩れなかった。
いや、正確には分からない。
平気そうに見えるだけかもしれない。
でも、少なくとも湊よりはずっと落ち着いていた。
放課後。
ホームルームで、山崎が文化祭の係分担を来週中に決めると言った。
「準備委員の二人は、希望取りの紙を作っといてくれると助かる」
湊と栞は顔を見合わせた。
また仕事が増えた。
でも、嫌ではなかった。
ホームルームが終わり、教室が動き出す。
湊は栞に聞いた。
「今日、少し残れる?」
「うん」
「希望取りの紙、作るか」
「手書き?」
「たぶん。パソコン室使うほどじゃないし」
「じゃあ、簡単に」
二人でプリントの案を作る。
教室にはまだ何人か残っている。
藤堂は部活へ行く前に、湊の肩を軽く叩いた。
「さっきは悪かったな」
湊は少し驚いた。
「何が?」
「ちょっといじりすぎた」
藤堂がそんなふうに言うとは思わなかった。
「別に、大丈夫」
「雨宮さんも嫌じゃなさそうだったけど、まあ、ほどほどにする」
「……ありがと」
藤堂は笑った。
「でも青春はしてると思う」
「最後に余計」
「じゃ、部活行くわ」
藤堂は走っていった。
湊はその後ろ姿を見ながら、少しだけ笑った。
悪いやつじゃない。
本当に。
栞が隣で言う。
「藤堂くん、ちゃんとしてるね」
「うん。うるさいけど」
「うるさいけど」
二人で少し笑った。
教室に残った人数が少なくなる。
夕方の光が机の上に伸びる。
湊と栞は希望調査の紙を作った。
名前。
第一希望。
第二希望。
やりたくない係。
備考。
「やりたくない係も聞くんだ」
栞が言う。
「嫌なこと書ける方がいいかなって」
「いいと思う」
「無理に前出る係になったらきつい人もいるだろうし」
栞は少しだけ湊を見た。
「湊らしい」
「そう?」
「うん」
湊は少し照れた。
湊らしい。
そう言われると、悪い気はしなかった。
「栞なら?」
「何が?」
「どの係がいい?」
栞は少し考えた。
「装飾か景品管理」
「呼び込みは?」
「無理」
「即答」
「湊は?」
「受付か射的作りかな」
「呼び込みは?」
「無理」
栞は笑った。
「同じ」
「藤堂に任せよう」
「うん」
紙ができる頃には、教室はほとんど空になっていた。
昨日よりも少し静かな放課後。
湊はプリントを見ながら言った。
「今日、昼休み助かった」
栞がペンを置く。
「名前の話?」
「うん」
「私も少し焦った」
「そうなの?」
「うん。でも、湊がもっと焦ってたから」
「俺を見て落ち着いた?」
「少し」
「ひどいな」
栞は小さく笑った。
「でも、嫌じゃないって言ったでしょ」
「うん」
「だから大丈夫」
その“大丈夫”が、湊にはとても大きかった。
名前で呼ぶこと。
周囲に少し知られること。
からかわれること。
それら全部が、栞の“大丈夫”で少し軽くなる。
帰り道。
今日は雨は降っていなかった。
空は薄く曇っていたが、風は穏やかだった。
駅へ向かう道を、二人で歩く。
「噂になるかな」
湊がぽつりと言った。
栞は少し考えた。
「少しは」
「だよな」
「でも、すぐ文化祭の話に戻ると思う」
「そうかな」
「みんな自分のことで忙しいし」
それは確かにそうかもしれない。
湊が思うほど、周囲は自分たちのことを見ていない。
でも、少しは見る。
その“少し”が気になるのだ。
「湊」
栞が呼ぶ。
「ん?」
「私は、今の呼び方がいい」
湊は足を止めそうになった。
栞は前を向いたまま続ける。
「だから、少しくらい言われても、変えなくていい」
湊はすぐには返事ができなかった。
胸の奥がじわっと熱くなる。
「……俺も」
やっと言えた。
「俺も、今の方がいい」
栞は少しだけ笑った。
「なら大丈夫」
駅に着く。
ホームには夕方の人混み。
電車が来る。
二人で乗る。
今日は少し空いていて、並んで立った。
窓の外の景色が流れていく。
栞の降りる駅が近づく。
「また明日、湊」
「また明日、栞」
もう、周りを少しだけ気にしながらも、ちゃんと名前で呼べる。
栞はホームに降り、いつものように小さく手を上げた。
湊も返す。
扉が閉まる。
電車が動く。
湊は窓の外を見ながら思った。
噂というほどのものではない。
でも、少しずつ周囲に見られ始めている。
それは怖い。
けれど、栞が今の呼び方がいいと言ってくれた。
それだけで、湊は前より少しだけ強くなれた気がした。
普通の恋は、たぶんこういうものなのかもしれない。
恥ずかしくて。
怖くて。
でも、嬉しくて。
誰か一人の「大丈夫」で、思ったより前に進める。




