第22話 雨上がり
翌朝、雨は上がっていた。
道路の端にはまだ水たまりが残っていて、通学路のアスファルトはところどころ黒く濡れている。
朝比奈湊は駅へ向かいながら、昨日の帰り道を何度も思い出していた。
折りたたみ傘。
狭い距離。
肩が触れそうで触れない感覚。
雨が傘を叩く音。
そして、栞の言葉。
「今日の傘、覚えてると思う」
あれからずっと、その一言が頭の中に残っていた。
大げさに考えすぎだ。
そう何度も自分に言い聞かせた。
傘に入れてもらったから、覚えている。
ただそれだけかもしれない。
でも、栞はそんなことをわざわざ言うだろうか。
言うかもしれない。
栞はたまに、普通の出来事をちゃんと覚えていそうな言い方をする。
ドリンクバーの味。
放課後の教室。
名前で呼んだ瞬間。
そういう小さなことを、栞は静かに拾う。
だから昨日の傘も、その一つなのかもしれない。
それでも湊には、普通には受け取れなかった。
好きだと気づいてしまったあとだから。
駅に着き、ホームで電車を待つ。
昨日の雨のせいか、空気は少し湿っていた。
電車が来る。
乗り込む。
いつもの場所。
次の駅で、栞が乗ってくる。
湊は自分でも分かるくらい、少し姿勢を正した。
扉が開く。
人が乗ってくる。
その中に栞がいた。
黒髪。
制服。
いつもの鞄。
湊を見つけると、少しだけ目を細める。
「おはよう、湊」
「おはよう、栞」
名前で呼ぶのには、少しずつ慣れてきた。
けれど完全には慣れない。
たぶん、それでいい。
栞は湊の鞄を見た。
「今日は傘ある?」
「ある」
「昨日使ったから?」
「まあ」
「えらい」
「栞は?」
湊が聞くと、栞は少しだけ気まずそうに鞄を軽く叩いた。
「ある」
「成長したね」
「それ、私の言葉」
「昨日のお返し」
栞は少しだけむっとした顔をして、それから小さく笑った。
その表情だけで、湊の朝は少し軽くなる。
電車が揺れる。
いつもの車内。
いつもの時間。
でも、昨日の雨を共有しているせいか、二人の間には少しだけ違う空気があった。
「昨日」
栞が言った。
湊の心臓が少し跳ねる。
「うん」
「傘、小さかったね」
「あれは悪かった」
「悪くないよ」
栞は窓の外を見た。
「でも、半分濡れてた」
「栞が?」
「湊が」
「ああ」
確かに、昨日は栞を濡らさないように少し傘を寄せた。
そのせいで、自分の肩は少し濡れていた。
言われると思っていなかったから、湊は少しだけ照れた。
「別に、少しくらい」
「風邪引いたら困る」
「そんなに弱くない」
「普通?」
「普通」
栞は少し笑った。
その笑い方が、昨日より少し柔らかい気がした。
教室に入ると、いつもの朝が始まっていた。
藤堂は黒板の前で何か描いている。
倉田は机に突っ伏している。
三橋はノートを開いている。
教室の窓は少し開いていて、雨上がりの空気が入ってきていた。
「おはよ、朝比奈」
藤堂が振り返る。
「おはよう」
「雨宮さんもおはよ」
「おはよう」
藤堂は黒板を指した。
「見ろ。射的の的、進化した」
黒板には昨日よりさらに謎の絵が増えていた。
タコ。
イカ。
謎の宇宙人。
そして、なぜか大きな目玉。
湊はしばらく見てから言った。
「縁日というより、悪夢」
倉田が顔を上げる。
「それ景品じゃなくて的だろ?」
「撃ちたくなるだろ」
藤堂が胸を張る。
栞が黒板を見て、静かに言った。
「目玉はちょっと嫌」
「雨宮さんに拒否された」
藤堂が大げさに落ち込む。
教室に笑いが起きる。
湊も笑った。
雨上がりの朝。
湿った空気。
黒板の変な絵。
それだけで少し楽しい。
中学の頃の自分なら、この空気を遠くから見ていただけかもしれない。
でも今は、ちゃんと中にいる。
それが分かる。
一時間目は英語だった。
昨日の雨のせいか、教室全体が少し眠そうだった。
英語教師がペアワークを始めると言った時、何人かが小さくため息をついた。
隣同士で、昨日したことを英語で話す練習。
また休日や日常の話題だ。
湊は少し嫌な予感がした。
栞も同じことを思ったのか、こちらを見た。
「What did you do yesterday?」
栞が教科書通りに聞く。
湊は少し考えて、教科書の例文に沿って答える。
「I shared my umbrella.」
言ってから、自分で少し恥ずかしくなった。
栞は一瞬だけ瞬きをして、それから小さく笑った。
「With who?」
その質問は例文にない。
湊は少しだけ栞を見る。
「With you.」
声は小さかった。
でも栞には聞こえた。
栞は教科書で口元を少し隠す。
「Good」
「先生かよ」
「先生っぽいの嫌だった」
「じゃあ言うな」
二人で小さく笑った。
英語教師が近くを通ったので、慌てて真面目な顔に戻る。
でも、湊の心臓は少し速かった。
昨日の傘が、教科書の英語になった。
たったそれだけなのに、また一つ記憶に残りそうだった。
休み時間。
藤堂がすぐに寄ってくる。
「朝比奈、昨日雨大丈夫だった?」
「ああ、傘あったし」
「俺、部活終わりにめっちゃ濡れた」
「傘は?」
「持ってなかった」
倉田が眠そうに言う。
「小学生かよ」
「朝は降ってなかっただろ」
三橋が冷静に返す。
「天気予報見よう」
藤堂は「正論やめろ」と言って笑った。
その会話の途中、藤堂がふと湊と栞を見た。
「そういえば、二人同じ方向だよな。昨日も一緒に帰った?」
湊は一瞬だけ固まった。
栞も少しだけ手を止めた。
でも、今回は隠すようなことではない。
「駅までな」
湊は普通に答えた。
「雨宮さん、傘あった?」
藤堂が聞く。
栞は少しだけ目を伏せて言った。
「忘れた」
「雨宮さんが?」
藤堂が本気で驚いた顔をした。
倉田まで顔を上げる。
「珍しい」
湊は思わず笑いそうになる。
栞は少しだけ不満そうに言った。
「みんなに言われる」
「だって雨宮さん、忘れ物しなさそうじゃん」
「する時はする」
湊が小さく言う。
「成長したね」
栞がこちらを睨む。
「湊」
名前で呼ばれた。
教室で。
藤堂たちの前で。
湊は一瞬止まった。
藤堂も止まった。
倉田も少し目を開けた。
三橋だけが静かに二人を見ていた。
教室の空気が、ほんの一瞬だけ変わる。
栞も気づいたらしく、少しだけ口を閉じた。
湊はどう返すべきか迷った。
でも、ここで焦ると余計に変になる。
「……ごめん」
湊はなるべく普通に返した。
藤堂がにやっとする。
「え、今、名前で呼んだ?」
来た。
湊は心の中で頭を抱えた。
でも栞は意外と落ち着いていた。
「呼んだ」
藤堂が目を丸くする。
「え、いつから?」
「最近」
倉田がぼそっと言う。
「青春じゃん」
「違う」
湊は反射で返した。
藤堂が笑う。
「いや、違わなくない?」
「文化祭委員だから」
「それで名前呼びになる?」
湊は詰まった。
便利ワードが効かない。
栞が横から静かに言う。
「呼びやすいから」
藤堂は少しだけ驚いた顔をしたあと、笑った。
「雨宮さん強いな」
倉田も笑う。
三橋は少しだけ口元を緩めた。
「まあ、本人たちがいいならいいんじゃない」
その言葉で、空気が少し軽くなった。
藤堂はまだ何か言いたそうだったが、英語教師が教室へ戻ってきたので話はそこで終わった。
湊は席に座りながら、かなり心臓が速くなっていた。
名前呼びが、周囲に知られた。
別に悪いことではない。
でも、完全に意識される。
栞は隣で前を向いている。
その横顔はいつも通りに見える。
けれど、耳が少しだけ赤かった。
湊はそれを見て、少し安心した。
自分だけじゃない。
二時間目の数学は、正直ほとんど集中できなかった。
名前呼びの件が頭に残っている。
藤堂たちに知られた。
たぶん、すぐクラス全体に広がるようなことではない。
でも、少しずつ見られ方が変わるかもしれない。
朝比奈と雨宮、仲良いよね。
名前で呼んでるよね。
そう言われる可能性がある。
湊は少し不安になった。
からかわれるのが怖い。
でも、それ以上に。
それによって栞が距離を取ることが怖かった。
もし周囲に言われて、栞が気まずくなったら。
名前呼びをやめようと言われたら。
そう考えると、胸が少し重くなる。
休み時間になっても、湊は少し黙っていた。
栞が小さく呼ぶ。
「湊」
「ん?」
「気にしてる?」
完全に見抜かれている。
湊は少し笑ってごまかそうとしたが、無理だった。
「まあ、少し」
「藤堂くんたちのこと?」
「うん」
栞は少しだけ考えた。
「私は嫌じゃないよ」
湊はすぐに顔を上げた。
「え?」
「名前で呼ぶの」
栞はノートの角を指でなぞりながら言った。
「だから、周りに少し言われても、嫌ではない」
湊は言葉を探した。
でもすぐには見つからなかった。
嬉しかった。
かなり。
けれど、そのまま嬉しいと言うのはまだ恥ずかしい。
「……そっか」
結局、それだけになった。
栞は小さく笑う。
「湊、こういう時、返事短い」
「言葉が出ないんだよ」
「じゃあいい」
「いいんだ」
「顔に出てるから」
湊は思わず顔を手で覆いたくなった。
昼休み。
藤堂たちはやっぱり少しだけその話題を引きずっていた。
「湊って呼ばれるの、どんな気分?」
藤堂がにやにやしながら聞く。
「うるさい」
「照れてる」
「照れてない」
「めっちゃ照れてる」
倉田が笑う。
三橋が助け舟を出すように言った。
「そろそろ文化祭の話に戻したら」
「三橋、お前優しいな」
湊が言うと、三橋は少しだけ笑った。
「朝比奈が分かりやすすぎるから」
「結局そこか」
藤堂は弁当を食べながら言った。
「でもいいじゃん。仲良いのは悪いことじゃないし」
その言葉に、湊は少し驚いた。
藤堂は軽い。
よくからかう。
でも、悪意はない。
「そうだな」
湊は小さく答えた。
仲良いのは悪いことじゃない。
当たり前のことなのに、その言葉で少し救われた。
午後の授業が終わる頃、空はまた少し曇っていた。
昨日ほどではないが、夕方には降るかもしれない。
ホームルームで山崎が文化祭の今後の予定を話した。
「来週から係分担を決めていきます。準備委員は今日中じゃなくていいから、ざっくり案まとめておいて」
湊と栞は顔を見合わせた。
「今日、少し残る?」
湊が小声で聞く。
栞は頷いた。
「うん」
放課後。
教室には何人か残っていた。
藤堂は部活。
倉田は帰宅。
三橋は図書室。
湊と栞は自分たちの席で係分担の紙を広げる。
「射的係、輪投げ係、装飾、受付、景品」
栞が読み上げる。
「あと会計とか?」
「予算管理?」
「それは先生も関わると思う」
「三橋に向いてそう」
「本人に聞こう」
二人で話していると、廊下の方から藤堂の声が聞こえた。
「湊ー、部活行ってくるわ!」
わざと名前で呼んできた。
湊は顔を上げる。
「うるさい!」
藤堂は笑いながら走っていった。
教室に残っていた数人が少し笑う。
湊はため息をついた。
「しばらくいじられるな」
栞が言う。
「だろうな」
「嫌?」
湊は少しだけ考えた。
嫌か。
恥ずかしい。
面倒。
落ち着かない。
でも、名前で呼ぶこと自体は嫌ではない。
むしろやめたくない。
「……嫌じゃない」
湊が言うと、栞は少しだけ笑った。
「私も」
その一言で、今日の不安はだいぶ軽くなった。
帰り道。
雨はまだ降っていなかった。
でも空は重い。
二人は駅へ向かって歩く。
今日は昨日ほど近くない。
でも、名前呼びを周囲に知られたせいか、前より少し開き直ったような気分もあった。
「湊」
栞が呼ぶ。
「何」
「今日、結構動揺してた」
「してた」
「認めるんだ」
「もう隠せないし」
栞は少し笑った。
「でも、ちゃんと普通に戻った」
「戻った?」
「うん。少し進んだ普通」
その言い方が栞らしくて、湊は笑った。
「何それ」
「今の私たちにちょうどいい感じ」
駅に着く少し前、雨がぽつりと落ちた。
昨日よりは弱い雨。
湊は鞄から折りたたみ傘を出した。
栞も今日はちゃんと自分の傘を出した。
「成長したね」
湊が言うと、栞は傘を広げながら睨む。
「うるさい」
二人で別々の傘を差す。
昨日より距離は遠い。
でも、なぜか昨日より寂しくはなかった。
ホームに着く頃には、雨は少しだけ強くなっていた。
電車が来る。
二人で乗る。
車内には濡れた傘の匂いがあった。
栞の降りる駅が近づく。
「また明日、湊」
「また明日、栞」
もう、名前で呼ぶ。
そのことを隠さない。
少し恥ずかしい。
でも、嫌ではない。
栞は電車を降り、ホームで小さく手を上げる。
湊も返す。
扉が閉まる。
電車が動き出す。
窓の外は雨で少し滲んでいた。
湊はその景色を見ながら思った。
昨日の傘の下ほど近くはない。
でも、今日の方が少し進んだ気がする。
周囲に知られても、名前で呼ぶことをやめなかった。
それだけ。
それだけなのに、湊にとってはかなり大きかった。
普通の恋がしたかった。
その“普通”は、思っていたよりずっと恥ずかしくて、落ち着かなくて、でも嬉しいものだった。




