第21話 気づいたあと
月曜日の朝。
朝比奈湊は、いつもより少しだけ早く目を覚ました。
目覚ましが鳴る前だった。
最近、こういうことが増えている。
高校に入ったばかりの頃は、緊張のせいだと思っていた。
新しい教室。
新しいクラス。
新しい人間関係。
毎日どこか落ち着かなくて、朝になると勝手に目が覚める。
けれど今は少し違う。
緊張というより、期待に近かった。
今日も学校がある。
そのことを、少しだけ楽しみにしている自分がいる。
湊はベッドの上でしばらく天井を見つめた。
そして、先週の金曜日の帰り道を思い出す。
名前で呼ばれたこと。
栞が「今の、ちょっと特別だから」と言ったこと。
そして自分が、たぶんもうかなり栞のことを好きだと思ってしまったこと。
その自覚は、思ったより厄介だった。
一度気づいてしまうと、戻れない。
今まで普通に見ていたものが、全部少し違って見える。
隣の席。
朝の挨拶。
ノートの端の小さな文字。
帰り道。
電車での沈黙。
その全部に、妙に意味があるような気がしてしまう。
湊は枕に顔を押しつけた。
「めんどくさ……」
自分が、だ。
好きかもしれない。
そう思った瞬間から、急に不自然になる。
何を話せばいいのか分からない。
目が合うだけで少し焦る。
名前を呼ばれるだけで心臓が跳ねる。
昨日の日曜日も、何度かスマホを見た。
栞から連絡が来ている訳ではない。
自分から送る用事もない。
それなのに、何となくトーク画面を開いてしまう。
最後のやり取りは土曜の夜だった。
文化祭の景品案について、短く話しただけ。
『駄菓子なら安そう』
『でも溶けるやつはやめた方がいい』
『チョコは危ないか』
『湊が食べそう』
『俺景品食べない』
『本当?』
そんな、どうでもいいやり取り。
でも、その画面を見るだけで少し落ち着かなかった。
湊は起き上がり、制服に着替えた。
鏡を見る。
いつもの自分だ。
普通の男子高校生。
特別格好良くもない。
明るい人気者でもない。
なのに今、自分の中だけ大げさに揺れている。
それが少し恥ずかしかった。
家を出る。
駅までの道は、少し曇っていた。
天気予報では、夕方から雨らしい。
五月が近づくにつれて、春の空気は少しずつ湿ってきている。
湊は鞄の中を確認した。
折りたたみ傘。
入っている。
こういう確認をするようになったのも、栞の影響かもしれない。
忘れ物をいじられたくない、というのもある。
でもそれ以上に、ちゃんとしたいと思うようになった。
駅に着き、電車へ乗る。
いつもの場所。
次の駅で、栞が乗ってくる。
そのことを考えただけで、少し背筋が伸びた。
そして実際、次の駅で栞は乗ってきた。
制服姿。
少し眠そうな目。
手にはいつもの鞄。
湊を見つけると、小さく手を上げた。
「おはよう、湊」
朝から名前。
湊は一瞬だけ反応が遅れた。
「おはよう、栞」
言えた。
少しだけ自然に。
栞はそれを聞いて、ほんの少し笑った。
「慣れてきた?」
「少し」
「私も」
それだけの会話。
でも、湊の胸にはちゃんと残る。
好きだと自覚したあとだと、何でもない言葉が全部強い。
栞は窓の外を見ながら言った。
「今日、雨降るらしいよ」
「傘持ってきた」
「成長」
「もうそれ言われ慣れた」
「でも、えらい」
えらい。
その言葉に、湊は少しだけ顔が熱くなった。
子ども扱いみたいだ。
でも嫌じゃない。
むしろ、かなり嬉しい。
「栞は?」
「持ってる」
「さすが」
「普通」
「出た」
二人で少し笑う。
朝の電車。
いつもの会話。
何も変わっていない。
でも湊の中では、全部が少し変わっていた。
学校へ着き、教室へ入る。
月曜日の教室は少し眠い空気だった。
藤堂は机に突っ伏している。
倉田も似たような姿勢。
三橋だけがちゃんとノートを開いていた。
「おはよ」
湊が言うと、藤堂が顔だけ上げた。
「朝比奈、月曜から元気そうだな」
「そう見える?」
「見える」
倉田が眠そうに言う。
「最近、朝比奈ちょっと明るい」
湊は少しだけ詰まった。
「普通だろ」
「出た、普通」
藤堂が笑う。
「雨宮さんの口癖うつってる」
隣で栞が教科書を出しながら言った。
「感染力高いから」
「認めるんだ」
湊が言うと、栞は少し笑った。
藤堂が二人を見比べる。
「ほんと最近、自然に会話するよな」
その言葉に、湊は少しだけ身構えた。
でも藤堂はそれ以上深く言わず、すぐ文化祭の話に移った。
「そういえば射的の的、絵描いたから見ろ」
「また?」
「今度は上手い」
藤堂がノートを見せてくる。
そこには、なぜか妙にリアルなタコの絵が描かれていた。
「なんでタコ?」
湊が聞く。
「縁日っぽいだろ」
「たこ焼きじゃなくて?」
「的だから何でもいい」
栞が横から言う。
「顔はちょっと上手い」
「だろ!」
藤堂が嬉しそうにする。
湊は笑った。
こういう空気が、今はかなり好きだった。
教室の中にちゃんと自分の居場所がある。
その中心にいる訳ではない。
でも、端で見ているだけでもない。
ちゃんと混ざっている。
一時間目は数学だった。
湊はノートを取りながら、なるべく授業に集中しようとした。
けれど、隣に栞がいるだけで意識が少し持っていかれる。
ペンを走らせる音。
ページをめくる音。
小さく息を吐く気配。
前から聞こえる教師の説明より、そういう小さな音の方が耳に残る。
だめだ。
完全にだめだ。
好きだと自覚した途端、こんなに分かりやすくなるのか。
湊は自分に呆れながら、黒板へ視線を戻した。
授業の途中、栞が小さくノートの端を指差した。
分からないところ。
いつもの流れだ。
湊は自分のノートを少し寄せる。
「ここ、たぶんこう」
小声で説明する。
栞が少し身を寄せる。
近い。
前からこの距離だったはずなのに、今日は妙に近く感じる。
湊は説明の途中で少し言葉が詰まった。
「……で、ここを移して」
「うん」
「こうなる」
「分かった」
栞は小さく頷いた。
「ありがとう、湊」
名前とありがとうが一緒に来るのは、かなり強かった。
湊は平静を装って前を向く。
「どういたしまして」
声が少し固かった気がする。
栞が少しだけこちらを見る。
気づかれたかもしれない。
休み時間になると、藤堂がすぐに寄ってきた。
「朝比奈先生、俺にも」
「三橋先生に頼め」
「最近そればっか」
三橋が眼鏡を少し上げる。
「聞くなら教えるけど、ちゃんとやって」
「厳しい」
倉田が笑う。
そのやり取りの間、湊は少しだけ助かった気持ちになった。
誰かが話してくれると、自分の不自然さが薄まる。
二時間目の現代文。
今日の文章は、誰かに言えない感情についての短い随筆だった。
湊は内心でやめてくれと思った。
先生が言う。
「人は、自分の感情に名前をつけた瞬間、それを意識せざるを得なくなることがあります」
湊は固まった。
まさに今だ。
名前をつけた瞬間。
好きかもしれない、と思った瞬間。
全部が変わった。
隣の栞が、少しだけこちらを見た気がした。
いや、気のせいかもしれない。
湊は教科書に視線を落とした。
授業の最後、隣同士で感想を話す時間があった。
湊は少し嫌な予感がした。
栞がこちらを見る。
「湊」
「うん」
「今日の文章、難しいね」
「……うん」
「感情に名前をつける、ってところ」
「分かるような、分からないような」
嘘だ。
分かりすぎている。
でも正直には言えない。
栞は少しだけ考える。
「名前つけると、変に意識しちゃうことあるよね」
湊の心臓がまた跳ねた。
「……ある、かも」
「呼び方もそうだったし」
「ああ」
そっちか。
湊は少しだけ安心した。
でも、安心しきれない。
栞は続ける。
「雨宮から栞になっただけなのに、最初は変だった」
「今は?」
「少し慣れた」
「そっか」
「湊は?」
「俺も、少し」
好き、という感情にはまだ慣れていない。
そう心の中で付け足す。
もちろん口には出さない。
栞は少し笑った。
「じゃあ、少し進んだ」
湊は小さく頷く。
「うん」
昼休み。
藤堂たちと弁当を食べる。
話題は文化祭の景品から、いつの間にか恋愛の話になっていた。
きっかけは倉田だった。
「縁日ってさ、カップル来そうだよな」
藤堂がすぐ食いつく。
「文化祭カップルイベントだからな」
「そうなの?」
湊が聞くと、藤堂は大げさに頷いた。
「そうだろ。文化祭で距離縮まるとか、告白するとか、あるあるじゃん」
三橋が冷静に言う。
「漫画ではね」
「現実でもあるだろ」
「どうだろう」
湊は弁当の唐揚げを見つめた。
文化祭。
告白。
距離が縮まる。
その全部が、急に自分の話みたいに聞こえてしまう。
いや、違う。
まだそんな段階ではない。
そもそも栞が自分をどう思っているのか分からない。
普通に話せる相手。
文化祭委員。
隣の席。
それ以上かどうかなんて、分からない。
藤堂が湊を見る。
「朝比奈はどうなの?」
「何が」
「好きな人とか」
唐突すぎた。
湊は一瞬、本当に止まった。
「いないの?」
藤堂が続ける。
倉田も面白がるように見る。
三橋は何も言わないが、少しだけ湊を見た。
湊は喉が乾くのを感じた。
「……今は、別に」
逃げた。
完全に逃げた。
でも、今はそれしか言えなかった。
藤堂は「ふーん」と言ったが、それ以上追及しなかった。
助かった。
けれど、隣の女子グループの方が少し気になる。
栞に聞こえただろうか。
聞こえたかもしれない。
聞こえていないかもしれない。
湊は怖くてそちらを見られなかった。
午後の授業はほとんど頭に入らなかった。
昼休みの一言が残っている。
好きな人とか。
今は、別に。
嘘ではない。
いや、嘘だ。
かなり嘘だ。
自分で言った言葉なのに、胸の中で少し引っかかる。
放課後。
ホームルームが終わると、教室が一気に動き出した。
藤堂は部活へ。
倉田は帰宅。
三橋は図書室。
湊は鞄を片づけながら、隣を見た。
栞も帰り支度をしていた。
いつもなら自然に一緒に帰る流れになる。
でも今日は、昼休みのことが気になって少し声をかけづらい。
「湊」
先に呼んだのは栞だった。
「ん?」
「帰る?」
「あ、うん」
たったそれだけで少し救われた。
二人で教室を出る。
廊下には放課後の音が広がっている。
吹奏楽部。
運動部の掛け声。
誰かの笑い声。
その中を、二人で歩く。
少し沈黙が長かった。
駅へ向かう道。
曇り空。
夕方から雨の予報だったが、まだ降っていない。
栞が言った。
「昼休み」
湊の心臓が跳ねる。
「うん」
「藤堂くん、急に聞いてたね」
やっぱり聞こえていた。
湊は少しだけ視線を泳がせる。
「ああ、好きな人の話?」
「うん」
「急だったな」
「湊、固まってた」
「顔に出てた?」
「少し」
栞はいつものように言う。
湊は苦笑するしかなかった。
「そういう話、苦手」
「分かる」
「栞も?」
「うん」
「聞かれたら?」
栞は少し考えた。
「今は、別にって言うと思う」
湊は少しだけ胸が沈んだ。
同じ答え。
自分と同じ。
でもそれは、栞に好きな人がいないという意味なのか。
それとも、湊と同じように隠すという意味なのか。
分からない。
分からないから、余計に気になる。
「そっか」
湊はそれだけ言った。
栞は少しだけ湊を見た。
「でも」
「うん」
「そういうの、誰かに急に聞かれるのは嫌」
「分かる」
「自分で気づくのも、けっこう大変なのに」
湊は足を止めそうになった。
自分で気づくのも。
その言葉は、少しだけ意味がありすぎた。
栞は前を向いたまま歩いている。
表情は普通だ。
でも、今の言葉だけは普通じゃなかった気がした。
「……栞も、何か気づいたの?」
湊は思わず聞きそうになった。
でも、声にはしなかった。
聞けない。
まだ怖い。
駅に着く少し前、雨が降り始めた。
細かい雨。
ぽつぽつと制服に当たる。
「降ってきた」
栞が言う。
「傘ある」
湊は鞄から折りたたみ傘を出した。
栞も出そうとして、少し動きを止めた。
「どうした?」
「……忘れた」
湊は一瞬、目を丸くした。
「栞が?」
「うん」
「珍しい」
「言わないで」
栞は少しだけ気まずそうだった。
湊は思わず笑いそうになったが、こらえた。
「成長したね、って言う側が忘れた」
「言わないで」
「じゃあ、駅まで入る?」
湊は傘を広げた。
二人で入るには少し小さい折りたたみ傘。
栞は一瞬迷ったあと、小さく頷いた。
「ありがとう」
二人で傘に入る。
距離が近い。
肩が触れそうになる。
雨の音が傘に当たる。
世界が少し狭くなる。
湊は心臓が速くなるのを感じた。
栞も少しだけ静かだった。
「湊」
「ん?」
「さっきの話」
「昼休み?」
「うん」
栞は雨の方を見ながら言った。
「今は別に、って便利だよね」
湊は少し黙った。
「……そうだな」
「言いたくないこと、隠せる」
その言葉に、湊は何も返せなかった。
雨が傘を叩く音だけが続く。
駅の屋根が見えてくる。
あと少しで、この距離は終わる。
湊は少しだけ、そのことを惜しいと思った。
駅に着き、傘を閉じる。
栞が制服の肩を少し払った。
「ありがとう。助かった」
「珍しく俺がちゃんとしてた」
「うん。成長した」
「やっぱ言うんだ」
栞は少し笑った。
電車に乗る。
雨のせいか、車内は少し混んでいた。
二人は並んで立つ。
傘に入っていた時よりは距離がある。
でも、さっきの近さがまだ体に残っている気がした。
栞の降りる駅が近づく。
「また明日」
栞が言う。
「うん。また明日」
栞は電車を降りる前に、少しだけ振り返った。
「湊」
「ん?」
「今日の傘、覚えてると思う」
それだけ言って、栞は降りた。
扉が閉まる。
電車が動き出す。
湊はしばらく動けなかった。
今日の傘。
覚えてると思う。
それはどういう意味なのか。
深い意味なんてないのかもしれない。
ただ、雨で傘に入れてもらったことを覚えている、というだけかもしれない。
でも湊は、もう普通には受け取れなかった。
好きだと気づいたあとだから。
栞の言葉一つ一つが、胸に残りすぎる。
湊は窓の外の雨を見た。
普通の月曜日。
普通の帰り道。
普通の雨。
でも、傘の下の近さだけは、普通ではなかった。
少なくとも湊にとっては。
そしてたぶん。
栞にとっても、少しだけ。




