第20話 呼び方
金曜日の朝。
朝比奈湊は、家を出る前に鏡を見ていた。
制服。
寝癖。
ネクタイ。
いつも通り。
でも、どこか落ち着かない。
理由は分かっている。
昨日の帰り道。
「……栞」
無意識に出た名前。
そして。
「……湊」
雨宮――いや、栞が返してきた名前。
たったそれだけのことなのに、昨日の夜からずっと頭に残っている。
寝る前も思い出した。
風呂でも思い出した。
朝起きて最初に思い出した。
名前で呼ぶ。
それは思っていたより破壊力があった。
湊は鏡の前で小さく息を吐く。
今日、どう接すればいいんだ。
急によそよそしくなるのも変だ。
でも、いつも通りにするのも難しい。
考えれば考えるほど分からなくなる。
結局、答えは出ないまま家を出た。
駅までの道。
空気は少しひんやりしている。
四月の終わりに近づいているのに、朝はまだ少し冷たい。
湊はイヤホンもつけずに歩いていた。
考え事をしたかった。
いや、正確には考えすぎていた。
栞。
名前で呼んだ瞬間の顔。
少し驚いて、それから笑った顔。
そして、“湊”と返された時の感覚。
胸の奥が熱くなるような、落ち着かない感じ。
湊は電車に乗った。
いつもの位置。
数駅後、栞が乗ってくる。
……はず。
その“はず”を待っている自分に、少し笑ってしまう。
前は、一人で乗る電車なんてただの移動時間だった。
でも今は違う。
次の駅で誰が乗ってくるかを気にしている。
扉が開く。
制服姿の生徒たち。
その中に栞がいた。
湊を見つける。
一瞬だけ目が合う。
それだけで、昨日のことが一気に蘇った。
「おはよう」
栞が言う。
普通の声。
普通の表情。
でも湊は少しだけ返事が遅れた。
「……おはよう」
やばい。
ぎこちない。
自分でも分かる。
栞は少しだけ目を細めた。
「湊」
その瞬間、湊の心臓が跳ねた。
名前。
朝から。
普通に。
栞は少しだけ笑う。
「分かりやすい」
「いや、だって」
「慣れない?」
昨日と同じことを言われる。
湊は少しだけ視線を逸らした。
「そっちは平気なの」
「少し照れる」
「少しなんだ」
「でも、嫌じゃない」
その言葉が、朝の電車の中で妙に静かに残った。
嫌じゃない。
湊は何も返せなくなる。
栞は窓の外を見ながら、小さく息を吐いた。
「だから、慣れる」
その言い方が、どこか自然だった。
無理に変えようとしている感じじゃない。
ただ、“そうなっていく”ことを受け入れているみたいだった。
学校へ向かう道。
今日は少しだけ距離感が変だった。
近い。
でも意識しすぎて、逆に変な沈黙ができる。
湊は何度か話題を探した。
でも頭がうまく回らない。
「……文化祭の景品」
やっと出た言葉がそれだった。
栞は少し笑った。
「急に現実」
「いや、なんか話さないと」
「分かる」
栞は少し歩幅を合わせながら言う。
「でも、無理に普通にしなくてもいいんじゃない?」
「え?」
「昨日の後なんだから、少し変なの普通だと思う」
湊は少しだけ黙った。
その考え方は、栞らしいと思った。
無理に誤魔化さない。
変な時は、変だと認める。
「……栞って、そういうとこあるよな」
「どういうとこ?」
「ちゃんと整理してる感じ」
栞は少し考えた。
「湊は逆に考えすぎる」
「否定できない」
「顔に出るし」
「それも最近よく言われる」
栞は少し笑った。
その笑顔を見て、湊も少し落ち着いた。
教室へ入る。
朝の空気。
ざわめき。
クラスメイトたちの声。
いつもの景色。
なのに、隣の席へ座るだけで少し緊張する。
昨日までと同じ距離のはずなのに、名前で呼ぶようになっただけで空気が違う。
藤堂がすぐに気づいた。
「朝比奈」
「ん?」
「なんか今日変じゃね?」
湊の心臓が止まりかけた。
「変って?」
「そわそわしてる」
「してない」
「してる」
倉田も眠そうに頷く。
「ちょっと分かる」
三橋は教科書を開きながら言う。
「昨日ちゃんと寝た?」
「寝た」
「じゃあ気のせいか」
三橋はそれ以上深く聞かなかった。
助かった。
湊は内心で息を吐く。
隣を見る。
栞は普通に教科書を出していた。
でも、少しだけ口元が笑っている。
完全に気づいている。
「面白がってるだろ」
湊が小声で言うと、栞は小さく返した。
「少し」
「ひどい」
「湊、分かりやすいから」
また名前。
そのたびに、少しだけ胸がざわつく。
でも嫌ではなかった。
一時間目は古典だった。
先生の声は眠気を誘うタイプで、教室全体が少し静かだった。
湊はノートを取りながら、何度か隣を気にしてしまう。
栞は真面目に教科書を見ている。
でも、たまに目が合う。
そのたびに、昨日の帰り道を思い出してしまう。
授業中、栞がノートの端に小さく書いた。
『慣れた?』
湊は少し吹き出しそうになった。
ペンを持ち直して書く。
『まだ』
栞はそれを見て、小さく笑った。
『私も少し』
その文字を見て、湊は少し安心した。
自分だけじゃない。
その“同じ”が、最近本当に増えた。
休み時間。
藤堂たちは文化祭の景品の話で盛り上がっていた。
「駄菓子大量に欲しい」
「当たり作ろうぜ」
「ハズレも必要じゃね?」
「全部当たりだとありがたみないしな」
その会話を聞きながら、湊は少し笑った。
クラスがちゃんと文化祭へ向かっている。
しかも、楽しそうに。
「湊」
隣から声がする。
湊は反射的に振り向いた。
そして、一瞬遅れて気づく。
名前で呼ばれた。
教室で。
普通に。
湊の顔が少し熱くなる。
栞はその反応を見て、少しだけ目を細めた。
「慣れてない」
「急に教室で呼ぶな」
「だめ?」
「だめじゃないけど」
言葉が詰まる。
藤堂がこちらを見る。
やばい。
でも藤堂は特に気にしていないようだった。
「景品、光る剣とかほしくね?」
そんな話をしている。
助かった。
湊は小さく息を吐いた。
栞が小声で言う。
「今、ちょっと焦った」
「そりゃ焦る」
「ごめん」
「……いや」
嫌じゃない。
むしろ少し嬉しい。
でも、それをそのまま言うのはまだ恥ずかしかった。
昼休み。
湊は弁当を食べながら、ぼんやり窓の外を見ていた。
春の空。
グラウンド。
体育をしているクラス。
普通の昼休み。
なのに、自分の中だけ少し変わっている。
「湊」
まただ。
今度は完全に自然だった。
湊も反射で振り向く。
栞が小さく言う。
「お茶取って」
「あ、うん」
机の上のお茶を渡す。
栞が「ありがとう」と言う。
それだけ。
本当にそれだけなのに、湊は少し変な気持ちになる。
名前で呼ばれる。
たったそれだけで、距離が近く感じる。
中学の頃は、そんなこと考えたこともなかった。
誰かに名前を呼ばれるだけで嬉しいなんて。
午後の授業。
今日は珍しく、湊の集中力が少し落ちていた。
原因は明確だ。
隣。
栞。
名前。
考えないようにしても、意識してしまう。
「朝比奈」
現代文教師に当てられ、湊は慌てて立ち上がった。
「え、あ、はい」
教室が少し笑う。
「ちゃんと聞いてたか?」
「聞いてました」
「じゃあ、この一文の心情説明」
湊は教科書を見る。
やばい。
全然頭に入っていない。
すると隣から、小さな声。
「不安と期待」
栞だった。
本当に小さい声。
でも湊には聞こえた。
「……不安と期待が混ざってる感じだと思います」
先生が頷く。
「そうだな」
助かった。
湊は座りながら小さく息を吐いた。
栞が前を向いたまま言う。
「ぼーっとしてた」
「……助かった」
「集中してください」
「先生みたい」
「嫌」
湊は少し笑った。
放課後。
今日は委員会もなく、特に残る理由もなかった。
それなのに、湊はなんとなく帰る準備をゆっくりしていた。
栞も少しだけ遅い。
どちらからともなく、一緒に帰る流れになる。
教室を出る。
夕方の廊下。
窓から入る光。
部活の音。
全部いつも通りなのに、今日は少しだけ空気が違う。
「……湊」
栞が呼ぶ。
もうかなり自然だった。
湊も少し慣れてきている。
「ん?」
「今日、何回呼んだと思う?」
「知らない」
「六回くらい」
「数えてたの?」
「なんとなく」
湊は少し笑った。
「栞は?」
「何」
「呼ばれるの、慣れた?」
栞は少し考えた。
それから、小さく頷く。
「うん」
「早いな」
「でも、たまに変な感じする」
「分かる」
「教室で急に呼ばれるとびっくりする」
「それ俺も」
二人で少し笑う。
駅までの道。
夕方の風。
制服の袖が揺れる。
最近、この帰り道が一日の中で一番好きかもしれない、と湊は思った。
教室より静かで。
でも、一人じゃない。
栞と話す時間。
その時間が、少しずつ特別になっている。
「湊」
「ん?」
「今日、現代文ぼーっとしすぎ」
「名前呼ばれすぎて頭おかしくなってた」
言ってから、湊は少し固まった。
何言ってるんだ。
でも栞は少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「それ、ちょっと嬉しい」
その言葉に、湊は完全に黙った。
栞は前を向いたまま歩いている。
でも、耳が少し赤い。
湊はそれを見て、自分の顔も熱くなるのを感じた。
駅が近づく。
ホームへ上がる階段。
いつもの景色。
でも今日は、少しだけ世界が違って見えた。
名前を呼ぶ。
呼ばれる。
その小さな変化だけで、二人の距離は確かに近づいている。
電車が来る。
二人で乗る。
今日は座席が空いていた。
少し間を空けて座る。
窓の外には夕焼け。
オレンジ色の光が車内へ入る。
栞が小さく言った。
「今日さ」
「うん」
「なんか、ちょっと楽しかった」
「何が?」
「呼び方」
湊は少し笑った。
「俺も」
栞は窓の外を見ながら、小さく頷いた。
「慣れたくない気もする」
「え?」
「今の、ちょっと特別だから」
その言葉は、夕方の車内に静かに落ちた。
湊は何も返せなかった。
でも、その気持ちは分かる。
名前で呼ぶ。
ただそれだけ。
なのに今は、まだ少しだけ特別だ。
きっといつか慣れる。
自然になる。
でも、この“慣れていない感じ”も、今しかない。
普通の高校生活。
普通の帰り道。
普通の会話。
その中で、二人だけの小さな変化が、少しずつ積み重なっていく。
湊は窓の外を見ながら思った。
たぶん、自分はもうかなり栞のことが好きだった。




