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『普通の恋が、したかった。』  作者: vastum


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第19話 名前で呼ぶ

文化祭の企画が縁日に決まってから、教室の空気が少し変わった。


まだ準備が本格的に始まった訳ではない。


段ボールもないし、装飾もない。


でも、休み時間や昼休みに「射的どうする?」とか「景品いるよな」とか、そんな言葉が自然に聞こえるようになった。


自分たちが決めたものが、ちゃんとクラスの中に残っている。


その感じが、朝比奈湊には少し嬉しかった。


木曜日の朝。


教室へ入ると、藤堂がすでに黒板の前に立っていた。


「朝比奈」


「ん?」


「見ろ」


黒板には雑な絵が描かれていた。


射的の的らしき丸と、輪投げらしき棒。


その横に大きく、


一組縁日


と書かれている。


「小学生?」


湊が言うと、藤堂は満足そうに頷いた。


「文化祭感あるだろ」


「字はちょっと楽しそう」


雨宮が隣から言った。


藤堂が笑う。


「雨宮さん分かってる」


「でも絵は下手」


「急に厳しい」


教室に小さく笑いが起きる。


湊も笑いながら席に座った。


最近、こういう朝が増えた。


教室に入るのが前より少し楽になっている。


中学の頃は、教室のドアを開ける前に毎回少し身構えていた。


今日は誰と話すんだろう。


浮かないだろうか。


変に思われないだろうか。


そんなことばかり考えていた。


でも今は、席に行けば藤堂たちがいて、隣には雨宮がいる。


それだけで少し安心できる。


「朝比奈」


雨宮が小さく呼ぶ。


「ん?」


「これ」


差し出されたのは、小さな紙だった。


見ると、文化祭の係分担案が書かれている。


射的。


輪投げ。


受付。


装飾。


景品管理。


「昨日ちょっと考えた」


「早いな」


「忘れそうだったから」


「真面目」


雨宮は少しだけ肩をすくめた。


「朝比奈も考えてたでしょ」


図星だった。


昨日の夜、湊もノートの端に少しだけメモしていた。


射的は男子が好きそう。


輪投げは小さい子でもできそう。


景品は駄菓子がいいかもしれない。


そんなことを、寝る前にぼんやり考えていた。


「まあ、少し」


「やっぱり」


雨宮は少し笑った。


一時間目が始まる前。


教室はまだ少し騒がしい。


その中で、湊はふと気づく。


最近、雨宮と話す時の距離が自然になっている。


最初の頃みたいに、“何を話せばいいか分からない沈黙”が少ない。


無言でもそこまで焦らない。


それはたぶん、お互いの“普通”が少し分かってきたからだ。


一時間目は英語だった。


小テストが返却される。


湊は平均くらい。


雨宮はかなり良かった。


「すご」


湊が言うと、雨宮は答案を少し隠した。


「普通」


「絶対普通じゃない」


「朝比奈も前より良くなってる」


「雨宮先生のおかげ」


「先生っぽいの嫌」


「まだ気にしてる」


雨宮は少しだけ笑った。


英語教師が前で発音を説明している。


窓から春の風が少し入る。


教室の後ろでは、藤堂が小さく欠伸をしていた。


そんな普通の授業中なのに、湊は少しだけ幸せだった。


隣で雨宮が普通に笑っている。


たったそれだけで、教室の空気が前より柔らかく感じる。


二時間目の休み時間。


女子たちが文化祭の話をしていた。


「装飾どうする?」


「提灯とか作りたい」


「和風っぽいのよくない?」


「射的あるしね」


その会話を聞きながら、湊は少し驚いた。


クラス全体がちゃんと縁日に向かっている。


自分たちが決めたものが、少しずつ形になっている。


「朝比奈」


藤堂が後ろから声をかける。


「景品って何がいい?」


「俺に聞くなよ」


「準備委員だろ」


「駄菓子とか?」


「あり」


倉田が口を挟む。


「あと変な景品ほしい」


「変な景品?」


「しょうもないやつ。当たりだけ」


「お前絶対そういうの好きだよな」


「文化祭だし」


三橋がノートを見ながら言う。


「予算も考えないとね」


「あ、現実」


藤堂が嫌そうな顔をする。


そのやり取りが、妙に楽しかった。


文化祭なんてまだ先だと思っていた。


でも、こうやって話している時間そのものが、もう文化祭の一部なのかもしれない。


昼休み。


湊はいつものように藤堂たちと弁当を食べていた。


途中で、藤堂がふと思い出したように言う。


「そういえばさ」


「ん?」


「朝比奈と雨宮さんって、最近ずっと一緒いるよな」


その瞬間、湊の箸が少し止まった。


倉田も「たしかに」と言う。


三橋は特に反応しないが、少しだけこちらを見た。


湊はなるべく普通に返す。


「文化祭委員だから」


もう何回使ったか分からない言葉。


でも、事実だ。


藤堂はにやっと笑う。


「便利だな、それ」


「お前が言い始めたんだろ」


「でも実際仲良いじゃん」


湊は少し言葉に詰まる。


仲良い。


その言葉を、他人から言われるのは少し照れる。


「……まあ、話すことは増えた」


「雨宮さん、朝比奈といる時けっこう笑うし」


倉田が何気なく言った。


湊は少し驚いた。


そんなふうに見えていたのか。


自分では分からなかった。


でも、言われてみれば、最近雨宮は前よりよく笑う。


小さくだけど。


静かだけど。


ちゃんと笑う。


そのことを思い出して、湊は少し嬉しくなった。


「朝比奈」


藤堂が急に真面目っぽい顔をする。


「何」


「青春してんな」


「うるさい」


即答した。


教室に笑いが起きる。


でも、完全には否定できなかった。


午後の授業。


現代文の途中、先生が出席を取る場面があった。


いつも通り、名前が呼ばれて返事をしていく。


「朝比奈」


「はい」


「雨宮」


「はい」


その瞬間、湊はふと気づいた。


自分はまだ一度も、雨宮のことを下の名前で呼んでいない。


“雨宮”。


ずっと苗字だ。


それが普通だった。


高校生の男女なんて、そんなものだと思っていた。


でも最近、クラスには名前で呼び合っている人たちも少しずつ増えている。


藤堂なんて、もう女子を名前で呼んでいる。


湊にはまだ少しハードルが高かった。


授業中、ぼんやりそんなことを考えてしまう。


名前。


栞。


口に出したことはない。


なんとなく、照れくさい。


放課後。


今日は委員会はない。


でも、文化祭の係分担案を少し整理したいということで、また少しだけ残ることになった。


最近、本当に放課後に残ることが増えた。


教室に夕方の光が入る。


部活の声が遠くから聞こえる。


その空気が、湊はかなり好きになっていた。


「景品どうする?」


雨宮がプリントを見ながら言う。


「駄菓子は定番だよな」


「あと、小さい雑貨とか?」


「予算足りるかな」


「そこなんだよね」


二人で話していると、途中で女子二人が近づいてきた。


「ねえ、装飾やりたいんだけど」


クラスの女子だった。


たしか佐伯と宮田。


そこまで話したことはない。


でも最近、文化祭の話題では自然に会話が増えていた。


「和風っぽくしたいんだけど、どう?」


佐伯がスマホを見せてくる。


提灯や木札っぽい装飾の写真。


「いいと思う」


雨宮が言う。


「縁日っぽい」


湊も頷いた。


「雰囲気出そう」


「だよね!」


宮田が嬉しそうに言う。


「あと、BGMとかも欲しくない?」


「夏祭りっぽいやつ?」


「そうそう!」


会話が自然に広がる。


湊は少し不思議だった。


中学の頃、女子とこういうふうに普通に話すことはほとんどなかった。


緊張して、変に意識して、すぐ会話が終わっていた。


でも今は、“文化祭”という共通の話題がある。


それが、自然に人との距離を縮めてくれていた。


女子二人が帰ったあと、雨宮が小さく言った。


「朝比奈、普通に話してたね」


「え?」


「女子と」


湊は少しだけ照れた。


「文化祭だから」


「便利ワード」


「感染したから」


雨宮は少し笑った。


そのあと、プリントを整理している時だった。


雨宮がペンを落とした。


床に転がる。


湊は反射的に拾おうとして、同時に雨宮も手を伸ばした。


指先が少し触れる。


一瞬。


本当に一瞬だけ。


でも、その感覚が妙にはっきり残った。


「あ、ごめん」


湊がすぐ手を引く。


「ううん」


雨宮も少しだけ動きを止めていた。


それから、小さく「ありがとう」と言った。


教室が静かだったせいで、その声が妙に近く感じた。


湊は変に意識しないようにプリントへ視線を戻す。


でも、心臓は少し速かった。


指先が触れただけ。


それだけなのに。


「……朝比奈」


雨宮が小さく呼ぶ。


「ん?」


「今、ちょっと固まった」


「そっちも」


雨宮は少しだけ笑った。


「同じ」


またその言葉だった。


最近、本当に多い。


でも、その“同じ”が増えるたびに、湊は少しずつ安心していく。


帰り道。


今日は少し風が強かった。


制服の袖が揺れる。


駅までの道を歩きながら、二人は文化祭の話を続けていた。


「輪投げの輪って何で作るんだろ」


「新聞紙丸める?」


「軽すぎない?」


「じゃあホース?」


「本格的」


二人で笑う。


駅が近づく。


ホームへ向かう途中、湊はふと口を開いた。


「……栞」


言ってから、自分で止まった。


雨宮も足を止める。


空気が一瞬だけ静かになった。


湊の心臓が一気に跳ねる。


やばい。


無意識だった。


話の流れとかじゃない。


本当に、自然に出てしまった。


雨宮は少しだけ目を丸くしていた。


湊は慌てる。


「いや、ごめん、違っ……」


何が違うのか、自分でも分からない。


雨宮は数秒黙ってから、小さく笑った。


「今、びっくりした」


「ごめん」


「なんで謝るの」


「いや、急に」


湊は完全に混乱していた。


顔が熱い。


駅のホームで何やってるんだと思う。


でも、雨宮は怒っていなかった。


むしろ少しだけ楽しそうだった。


「……湊」


雨宮が小さく言った。


今度は湊が止まる番だった。


名前。


自分の名前。


雨宮の口から初めて聞いた。


たったそれだけなのに、心臓が変な音を立てる。


雨宮は少しだけ照れたように視線を逸らした。


「これでおあいこ」


電車がホームに入ってくる音がした。


周囲の音が急に戻ってくる。


でも、湊の頭はまだ少し真っ白だった。


電車に乗る。


今日は座れなかった。


並んで立つ。


でも、いつもの距離が少し違う気がする。


名前で呼んだ。


呼ばれた。


それだけ。


本当に、それだけなのに。


「……栞」


湊が小さく言う。


雨宮がこちらを見る。


「何」


「慣れない」


雨宮は少し笑った。


「私も」


その笑い方が、いつもより少しだけ柔らかかった。


電車が揺れる。


夕方の景色が流れていく。


普通の高校生。


普通の帰り道。


でも今日、二人の距離は確かに少し変わった。


苗字から名前へ。


たったそれだけ。


でも、それは思っていたよりずっと大きな一歩だった。

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