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『普通の恋が、したかった。』  作者: vastum


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第2話 隣の席

翌朝、朝比奈湊はいつもより少し早く目を覚ました。


目覚ましが鳴る五分前だった。


中学の頃なら、あと五分寝られると思って布団に潜り直していた。けれどその日は、なぜか目が冴えていた。


高校生活二日目。


たったそれだけなのに、昨日とは違う緊張があった。


入学式の日は、まだ何もかもが特別だった。校門の看板も、体育館の椅子も、教室のざわめきも、全部が初日という言葉で片づけられた。


でも、今日からは違う。


今日から本当に日常になる。


毎朝この制服を着て、電車に乗って、教室へ行く。昨日会ったばかりのクラスメイトたちと同じ空間で過ごす。


その中で、自分がどういう立ち位置になるのか。


それは、今日から少しずつ決まっていく気がした。


湊は洗面所で顔を洗い、鏡を見た。


特に変わったところはない。


少し寝癖がある普通の男子高校生。


中学の頃と比べて制服は変わったが、中身まで急に変わる訳ではなかった。


それでも、昨日よりはましだと思いたかった。


提出物は忘れていない。


昨夜、鞄の中を三回確認した。


保健調査票。


通学証明書の控え。


保護者記入欄のある紙。


学校生活の手引き。


雨宮に言われたから、という訳ではない。


そう思いたかったが、たぶん少しはある。


朝食を食べていると、母が湊の鞄を見た。


「提出物、大丈夫?」


「大丈夫」


「昨日も言ってたけど、ほんとに?」


「三回見た」


「珍しい」


「珍しいって何」


「いや、偉いなと思って」


母は笑った。


湊は少しだけ気まずくなり、味噌汁を飲んだ。


家を出ると、春の空気は昨日より少し暖かかった。


駅までの道は、まだ見慣れた景色だ。


でも、その先にある高校はもう昨日とは違う。


知らない場所ではなく、これから通う場所になっている。


電車に乗ると、昨日と同じように同じ制服の生徒が何人もいた。湊はドアの近くに立ち、スマホを取り出した。


何も通知はない。


当然だ。


まだクラスLINEもないし、友達と呼べる相手もいない。昨日少し話した雨宮栞とも、連絡先を交換した訳ではない。


湊はスマホをしまった。


窓に映る自分の顔を見る。


少し眠そうだった。


駅に着き、改札を抜ける。


学校へ向かう道の途中、昨日よりも生徒同士の距離が少し近くなっている気がした。


「昨日やばかったよな、校長の話」


「今日何すんの?」


「自己紹介あるらしいよ」


「マジで? 最悪」


その言葉を聞いて、湊は内心で固まった。


自己紹介。


昨日のホームルームでそんな話をされた気もするが、細かい予定を聞き流していた。


自己紹介は苦手だ。


名前。


出身中学。


趣味。


入りたい部活。


よろしくお願いします。


それだけでいいはずなのに、教室の全員に見られるあの数秒が妙に重い。


面白いことを言える奴はそこで笑いを取る。


明るい奴はそこで一気に覚えられる。


湊のような人間は、無難に済ませて、無難に忘れられる。


それが分かっているから、嫌だった。


教室に入ると、すでに何人か来ていた。


昨日より空気が少しだけ柔らかい。


まだ全員が探り合っているが、ところどころに会話が生まれている。


前の席の男子二人は、昨日の帰りに一緒に駅まで行ったらしく、すでに少し馴染んでいた。


窓際の女子三人は、机を寄せてスマホを見せ合っている。


人間関係は、思っているより早く形になる。


湊は自分の席に座った。


隣の席はまだ空いていた。


雨宮は来ていない。


湊は鞄から提出物を出し、机の中に入れた。忘れていない。


それだけで少し安心する。


しばらくして、廊下から足音が近づいてきた。


雨宮栞が教室に入ってきた。


昨日と同じように、特に急ぐ様子もなく、周囲に大きく挨拶する訳でもなく、自分の席まで歩いてくる。


髪は昨日と同じくらいの長さで、制服もきちんとしている。


特段可愛いという訳ではないが、普通の女子、という感じだ。


ただ、朝の教室の中で、妙に落ち着いて見えた。


「おはよう」


先に言ったのは湊だった。


言ってから少し驚いた。


自分から女子に挨拶するなんて、中学の頃はほとんどなかった気がする。


雨宮は少しだけ目を丸くしたあと、普通に返した。


「おはよう」


それだけ。


でも、その一言で湊の中の緊張が少し薄くなった。


雨宮は席に座り、鞄からファイルを出した。


湊はなんとなくそれを見てしまう。


「提出物」


雨宮が言った。


「え?」


「忘れなかった?」


「ああ。忘れてない」


湊は机の中から封筒を少し見せた。


雨宮は小さく頷いた。


「成長したね」


「昨日からその扱いなの?」


「うん」


「早くない?」


「初日からだから」


湊は笑った。


雨宮もほんの少しだけ笑った。


その時、前の席の男子が振り返った。


「え、もう仲良いの?」


声が思ったより大きかった。


湊は一瞬、体が固まった。


雨宮も少しだけ瞬きをした。


振り返った男子は、短く整えた髪で、明るそうな顔をしていた。昨日から何人かに声をかけていた、クラスで早めに中心に近づきそうなタイプだ。


「いや、隣だから」


湊はなるべく普通に返した。


「へえ。いいな、隣女子で」


男子は笑う。


悪意はない。


たぶん、ただ話題にしただけだ。


けれど、湊は自分の返答を考えすぎてしまう。


変に否定すると意識しているみたいになる。


かといって、肯定すると軽すぎる。


「まあ、席近いと話すよな」


無難な答えだった。


男子は「だよな」と笑って、また前を向いた。


それだけだった。


でも湊は少し疲れた。


こういう小さな会話で、自分はいつも頭を使いすぎる。


雨宮の方を見ると、彼女は特に気にした様子もなく筆箱を出していた。


「気にしないんだ」


湊が小声で言うと、雨宮は少し横を向いた。


「何を?」


「今の」


「ああ。別に」


「強いな」


「普通じゃない?」


「普通かな」


「たぶん」


雨宮はそう言って、前を向いた。


湊はそれ以上言わなかった。


でも、少しだけ思った。


雨宮は、周囲の空気に流されないのかもしれない。


少なくとも湊よりは。


担任の山崎が入ってくると、教室のざわめきが少し収まった。


「はい、おはようございます。二日目ですね。昨日ちゃんと帰れましたか」


何人かが笑った。


山崎は出席を取り、提出物を回収し、今日の予定を黒板に書いた。


一時間目、ホームルーム。


二時間目、学年集会。


三時間目、校内案内。


四時間目、自己紹介と係決め。


昼で終了。


自己紹介。


湊は黒板の文字を見て、やっぱりあるのかと思った。


雨宮も黒板を見ていた。


「自己紹介、嫌だな」


湊が小さく言うと、雨宮は少しだけ頷いた。


「分かる」


「雨宮も?」


「好きな人いるのかな、あれ」


「いるだろ。たまに」


「すごいね」


「すごい」


二人でそんな会話をしていると、山崎が教卓を叩いた。


「じゃあ、まず提出物。後ろから前に回して」


教室中で紙が動き始めた。


湊は封筒を出して、前の席の男子に渡す。


前の男子は振り返りながら言った。


「朝比奈だっけ?」


「うん」


「俺、藤堂。藤堂蓮」


「よろしく」


「よろしく。部活決めた?」


「まだ。藤堂は?」


「バスケやるつもり。中学もやってたし」


「ああ、似合う」


「マジ? ありがと」


藤堂蓮。


名前も顔も、覚えやすい。


こういう奴が最初に友達を増やすんだろうなと思った。


でも嫌な感じはしない。


むしろ、話しやすい。


湊は少し安心した。


前の席にこういう男子がいるのは悪くない。


ただ、そこに自然に入れるかは別問題だった。


一時間目のホームルームでは、学校生活の説明が続いた。


スマホの扱い。


遅刻。


購買。


図書室。


保健室。


職員室への入り方。


中学と同じようで、少しずつ違う。


湊はノートに必要そうなことだけを書いた。


隣を見ると、雨宮は説明を聞きながら、配布プリントの端に小さくメモを書いていた。


字が綺麗だった。


丸すぎず、細すぎず、読みやすい字。


「字、綺麗だな」


湊が小さく言うと、雨宮は手を止めた。


「そう?」


「うん」


「普通だよ」


「雨宮の普通、多くない?」


「普通だから」


「まあ、そうか」


雨宮は少しだけ笑った。


山崎がこちらを見た気がして、湊は慌てて前を向いた。


授業中に喋るなんて、中学ではあまりしなかった。


それなのに、今は少しだけ楽しい。


湊は自分でも驚いていた。


二時間目の学年集会は体育館で行われた。


新入生全員が集まり、学年主任の話を聞く。


体育館の床は少し冷たく、空気は昨日よりも緩んでいた。


周囲の生徒たちは、先生の話を聞いているようで聞いていない。


湊も正直、ほとんど内容は頭に入ってこなかった。


高校生活の心構え。


自律。


責任。


挑戦。


そういう言葉が何度も出てくる。


挑戦。


湊はその言葉だけ、少し引っかかった。


自分にとっての挑戦とは何だろう。


部活に入ることか。


友達を作ることか。


自己紹介で少しだけ印象に残ることか。


どれも大したことではない。


でも、湊にとっては簡単でもなかった。


体育館から教室へ戻る途中、廊下で藤堂に声をかけられた。


「朝比奈、昼までで終わりだよな? 帰りどっち?」


「駅」


「俺も駅。何人かで帰らね?」


いきなりだった。


湊は一瞬、言葉に詰まる。


嬉しかった。


正直、かなり嬉しかった。


初めてクラスの男子に自然に誘われた。


でも同時に、少しだけ雨宮のことが頭に浮かんだ。


昨日は駅まで一緒に歩いた。


今日もそうなるかは分からない。


約束した訳でもない。


だから気にする必要はない。


「うん、いいよ」


湊は答えた。


藤堂は「おっけ」と軽く笑った。


その後ろで、雨宮が歩いていた。


会話を聞いていたのかは分からない。


湊はなぜか少しだけ気まずくなった。


気まずくなる理由なんてないのに。


三時間目の校内案内では、クラスごとに校舎を回った。


図書室。


視聴覚室。


理科室。


音楽室。


進路指導室。


体育館。


購買。


中学より少し広く、少し古く、でも妙に高校らしかった。


購買の前では、クラスの何人かが「パンうまそう」と騒いでいた。


藤堂が湊の隣に来る。


「購買使う?」


「たぶん。弁当ない日とか」


「メロンパン人気らしいよ」


「なんで知ってんの?」


「兄貴がここの卒業生」


「ああ、情報強いな」


「だろ」


藤堂はよく喋る。


でも、押しつけがましくない。


湊は普通に話せた。


中学の時にもこういう友達が一人いれば、少し違ったのかもしれない。


ふと振り返ると、雨宮は少し後ろで女子二人と話していた。


昨日は一人の印象だったが、彼女も彼女でちゃんと馴染もうとしているのだろう。


それを見て、湊はなぜか少し安心して、少しだけ遠く感じた。


四時間目。


ついに自己紹介の時間になった。


山崎が黒板に項目を書く。


名前。


出身中学。


趣味。


入りたい部活、または気になっていること。


一言。


「そんなに長くなくていいから。まだ初日みたいなもんだし、気楽に」


気楽にと言われて気楽になれる人間は、たぶん自己紹介で困らない。


出席番号順に始まった。


湊は朝比奈なので、かなり早い。


一番目の生徒が立つ。


緊張しながらも無難に話す。


二番目の女子は明るく笑って、好きなアイドルの話をした。


少し笑いが起きる。


三番目。


四番目。


近づいてくる。


湊の心臓が少しずつ速くなった。


何を言うかは決めている。


朝比奈湊です。


出身は西原中です。


趣味は音楽を聴くことと、たまにゲームです。


部活はまだ決めていません。


よろしくお願いします。


これでいい。


無難。


普通。


また普通。


でも、変に狙って滑るよりはいい。


「次、朝比奈」


山崎に呼ばれた。


湊は立ち上がった。


教室の視線が集まる。


たった三十数人。


それでも多い。


「朝比奈湊です。西原中出身です」


声は思ったより普通に出た。


「趣味は、音楽を聴くことと、ゲームを少しです。部活はまだ決めてません」


そこで一瞬、言葉が切れた。


よろしくお願いします。


そう言えば終わる。


でも、何かもう一つ言った方がいいのではないか。


高校では少し変わりたい。


その思いが、なぜか頭の中で引っかかった。


湊は少しだけ息を吸った。


「えっと、知ってる人がほとんどいないので、話しかけてもらえると助かります。よろしくお願いします」


言ってから、顔が熱くなった。


変だったかもしれない。


必死すぎたかもしれない。


けれど、教室の空気は悪くなかった。


藤堂が小さく「よろしく」と言ってくれた。


何人かも軽く頷いた。


山崎も「はい、よろしく」と言った。


湊は座った。


心臓がまだ速い。


隣から小さな声がした。


「よかったと思う」


雨宮だった。


湊は横を向かずに、小さく返した。


「ほんと?」


「うん」


「ならよかった」


それだけで、妙に救われた。


自己紹介は続く。


藤堂は予想通り明るかった。


バスケ部に入る予定で、好きな食べ物はラーメン。おすすめの店があったら教えてください、と言って少し笑いを取った。


雨宮の番は、湊より少し後だった。


「雨宮栞です。南沢中出身です」


声は大きくないが、聞き取りやすかった。


「趣味は、本を読むことと、散歩です。部活はまだ決めてません」


そこで少し間が空く。


雨宮は教室を見回す訳でもなく、まっすぐ前を見て言った。


「忘れ物をしないように頑張ります。よろしくお願いします」


湊は思わず横を向きそうになった。


それ、自分のことか。


教室では少しだけ笑いが起きた。


山崎が「大事ですね」と言って、また少し笑いが広がる。


雨宮は何事もなかったように座った。


湊は小声で言った。


「それ、俺?」


雨宮は前を向いたまま答えた。


「さあ」


「絶対そうだろ」


「普通の目標」


「普通って便利だな」


雨宮は少しだけ笑った。


湊も笑いをこらえた。


自己紹介の時間が、少しだけ嫌なものではなくなった。


昼前にホームルームが終わると、教室はまた一気に騒がしくなった。


「帰りどこ?」


「駅行く人いる?」


「LINE交換しよ」


「部活見学いつから?」


湊は鞄を持った。


藤堂が前の席から振り返る。


「朝比奈、行ける?」


「ああ、うん」


藤堂の近くには、男子が二人いた。


一人は眼鏡をかけた落ち着いた雰囲気の男子で、もう一人は背が高くて少し眠そうな顔をしている。


「こいつ朝比奈。で、こっちが三橋と倉田」


藤堂が雑に紹介した。


「よろしく」


湊は言った。


三橋は「よろしく」と丁寧に返し、倉田は軽く手を上げた。


こういうのが友達作りなのかもしれない。


湊は少しだけ嬉しかった。


教室を出る前、隣を見る。


雨宮はまだ席に座っていた。


女子二人に声をかけられて、何か話している。


目が合った。


ほんの一瞬。


湊は軽く手を上げるでもなく、ただ小さく頷いた。


雨宮も少しだけ頷いた。


それだけ。


それだけなのに、湊はなぜか安心した。


駅までの道は、昨日とは違って賑やかだった。


藤堂はよく喋り、倉田はそれに適当に返し、三橋は時々冷静に突っ込む。


湊はその中で、笑ったり、相槌を打ったりした。


楽だった。


ずっと喋らなくてもいい。


でも、完全に黙っている訳でもない。


中学の時にあった普通の会話と似ているはずなのに、今日は少し違って感じた。


「朝比奈、ゲーム何やる?」


倉田に聞かれた。


湊が答えると、倉田が「あ、それ俺もやってる」と言った。


そこから少し話が続いた。


駅に着く頃には、クラスで話せる男子が三人増えたような気がした。


大きな変化ではない。


でも湊にとっては十分だった。


改札前で藤堂たちと別れた。


湊はホームへ向かう。


昨日と同じホーム。


同じ時間帯。


でも、隣に雨宮はいない。


それは当然だった。


今日は男子たちと帰ったのだから。


湊はホームの柱の近くに立ち、スマホを見た。


通知はない。


でも、少しだけ疲れて、少しだけ満たされていた。


高校二日目。


自己紹介で失敗しなかった。


藤堂たちと帰った。


雨宮とも少し話した。


提出物も忘れなかった。


悪くない。


かなり悪くない。


電車が来る。


湊は乗り込んで、ドアの近くに立った。


発車直前、ホームに駆け込んでくる生徒が見えた。


雨宮だった。


息を切らしている訳ではないが、少し早歩きだった。


雨宮は電車に乗り込み、湊から少し離れた場所に立った。


気づいていないのかもしれない。


湊は声をかけるか迷った。


今日はもう、藤堂たちと帰った。


今さら声をかけるのも変かもしれない。


でも、昨日は一緒に帰った。


いや、約束していた訳ではない。


迷っていると、雨宮がこちらを見た。


目が合う。


雨宮は少しだけ眉を上げた。


見つけた、という感じだった。


湊は小さく手を上げた。


雨宮も小さく頷いた。


車内は混んでいて、近づけるほどではなかった。


だから会話はなかった。


ただ、同じ電車に乗っているだけ。


次の駅で人が少し降りた。


雨宮が少し近くなった。


「男子たちと帰ってたね」


雨宮が言った。


「うん。誘われた」


「よかったじゃん」


「まあ、うん」


「友達できそう?」


「まだ分からないけど、たぶん」


「そっか」


雨宮は普通に言った。


本当に普通に。


湊は少しだけ気になって聞いた。


「雨宮は? 女子と話してたよな」


「うん。少し」


「友達できそう?」


雨宮は少し考えた。


「たぶん」


「同じだ」


「同じだね」


そこで会話が切れた。


電車の音が車内に満ちる。


昨日より少しだけ、沈黙が自然だった。


「自己紹介」


雨宮が言った。


「ん?」


「話しかけてもらえると助かります、ってやつ」


「ああ」


湊は少し恥ずかしくなった。


「変だった?」


「変じゃないよ」


「ならいいけど」


「朝比奈らしいと思った」


「二日目で俺らしさ分かる?」


「少しだけ」


「どんな?」


雨宮はすぐには答えなかった。


窓の外を見て、少しだけ考える。


「普通にしたい人」


湊は黙った。


普通にしたい人。


その言葉が、妙に胸の中に残った。


「悪口?」


「違う」


「ならいいけど」


「普通って、難しいし」


雨宮はそう言った。


湊は横顔を見る。


雨宮栞は、やっぱり特別目立つ女子ではなかった。


でも、たまに変なところを真っ直ぐ見る。


湊が自分でもうまく言葉にできない部分を、何気なく言ってくる。


「雨宮も普通にしたい人?」


湊が聞くと、雨宮は少しだけ笑った。


「たぶんね」


電車が次の駅に着いた。


雨宮が降りる駅だった。


「じゃあ」


「うん。また明日」


湊がそう言うと、雨宮は一瞬だけこちらを見た。


それから、普通に頷いた。


「また明日」


扉が閉まる。


雨宮の姿がホームに残る。


電車が動き出す。


湊は窓の外に流れていく駅を見ながら、少しだけ息を吐いた。


また明日。


たったそれだけの言葉だった。


でも、その言葉が自然に出たことが、湊には少し嬉しかった。


高校生活二日目。


まだ何も始まっていない。


クラスの空気も、人間関係も、自分の立ち位置も、何も決まっていない。


それでも昨日より少しだけ、教室に戻る理由が増えた気がした。


藤堂たちと話すこと。


自己紹介で少し覚えてもらったこと。


そして、隣の席に雨宮栞がいること。


普通の高校生活。


湊が欲しかったものは、たぶんこういう小さなものの積み重ねだった。


家に帰ると、母に「どうだった?」と聞かれた。


湊は靴を脱ぎながら少し考えた。


楽しかった、と言うほどではない。


最高だった、と言うほどでもない。


でも、悪くなかった。


昨日よりも、少しだけ前に進んだ気がした。


だから湊は答えた。


「普通に、よかった」


母はそれを聞いて笑った。


「そっか」


湊は自分の部屋に入り、鞄を置いた。


明日の時間割を確認する。


まだ本格的な授業は始まらない。


係決めと、部活動紹介と、クラス写真。


また新しいことがある。


面倒だと思う気持ちもある。


でも、昨日までとは少し違う。


湊は机の上に提出物の控えを置き、スマホを見た。


通知はない。


それでも、なぜか少しだけ画面を見る時間が長くなった。


クラスLINEができたら、雨宮とも繋がるのだろうか。


そう思ってから、自分で少し驚いた。


別に深い意味はない。


隣の席だから。


話す機会があるから。


提出物のことでいじられたから。


ただ、それだけ。


湊はスマホを伏せた。


窓の外はまだ明るい。


春の夕方だった。


中学の頃と同じようで、少し違う夕方。


明日が少しだけ嫌ではない。


その感覚が、二日続いている。


湊はそれを、悪くないと思った。

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