第17話 月曜日の距離
月曜日の朝。
朝比奈湊は、いつもより早く教室に着いた。
理由は、自分でも分かっていた。
土曜日のことが、まだ頭の中に残っていたからだ。
ファミレス。
ドリンクバー。
文化祭のプリント。
本屋。
帰りの電車。
そして、雨宮が言った言葉。
「LINE、既読つくの待つ時、ちょっと緊張するよね」
あの一言が、日曜日の間ずっと湊の中に残っていた。
自分だけではなかった。
雨宮も、返信を待つ時間に少し緊張していた。
それが嬉しいのか、恥ずかしいのか、湊にはうまく分からなかった。
ただ、月曜日に雨宮と顔を合わせることを、少しだけ意識している自分はいた。
教室はまだ人が少なかった。
窓際の席に一人、知らない男子が座ってスマホを見ている。
前の方では女子が二人、眠そうに話している。
藤堂たちはまだ来ていない。
雨宮もいない。
湊は自分の席に座り、鞄を机にかけた。
隣の席を見る。
空いている。
たったそれだけなのに、少し落ち着かない。
土曜日は学校の外で会った。
私服で会った。
向かい合って座った。
それなのに今日からまた、ただの隣の席に戻る。
それが少し不思議だった。
湊は鞄から文化祭のプリントを出した。
土曜日にまとめた案が書かれている。
縁日。
謎解き展示。
フォトスポット。
雨宮の字と、自分の字が同じ紙の上に並んでいる。
それを見ると、土曜日のファミレスの光景が自然に蘇った。
混ぜすぎたドリンクバー。
雨宮の呆れた顔。
普通の話が好き、と言った声。
湊は思わずプリントを閉じた。
朝から考えすぎだ。
自分でもそう思う。
その時、教室のドアが開いた。
雨宮栞が入ってきた。
制服姿。
いつもの鞄。
いつもの少し眠そうな表情。
私服の雨宮を見たあとだからか、制服姿が少しだけ新鮮に見えた。
雨宮は湊に気づくと、小さく目を細めた。
「おはよう」
「おはよう」
普通の挨拶。
それだけでよかった。
なのに湊は少しだけ返事が遅れた気がした。
雨宮は席に座り、鞄を置く。
「早いね」
「ちょっと」
「珍しい」
「最近、珍しいって言われすぎてる」
「じゃあ普通?」
「普通」
「便利」
雨宮は少しだけ笑った。
その笑い方を見て、湊は少し安心した。
いつも通りだ。
土曜日のことがあったからといって、急に何かが変わる訳ではない。
でも、何も変わっていない訳でもない気がした。
その微妙な感じが、今の二人にはちょうどよかった。
少しして、藤堂たちが来た。
「おはよー」
藤堂の声で教室の空気が一段明るくなる。
倉田は眠そうに後ろからついてきて、三橋はいつも通り落ち着いている。
「朝比奈、土曜何してた?」
藤堂が鞄を置くなり聞いてきた。
湊は一瞬だけ固まった。
土曜。
ファミレス。
雨宮。
文化祭の相談。
その全部が頭をよぎる。
「文化祭の案、考えてた」
嘘ではない。
藤堂は目を丸くした。
「真面目か」
「委員だから」
「休日に?」
「まあ」
「一人で?」
その一言に、湊は少しだけ詰まった。
雨宮が隣で教科書を出している気配がする。
湊はなるべく普通に答えた。
「雨宮と」
藤堂の表情が一瞬だけ動いた。
倉田もこちらを見た。
三橋は静かにノートを開きながらも、少し耳を傾けているように見える。
湊は心臓が少し速くなった。
言わなくてもよかったかもしれない。
でも、隠すようなことでもない。
文化祭の相談だ。
ちゃんと理由がある。
藤堂は数秒黙ったあと、にやっと笑った。
「おお、委員してる」
「それだけだよ」
湊が先に言う。
藤堂は笑った。
「分かってるって。文化祭委員だもんな」
倉田が軽く言う。
「真面目だな、二人とも」
雨宮が隣から静かに言った。
「ちゃんとやってるだけ」
「雨宮さんが言うと本当にちゃんとしてる感ある」
藤堂が言う。
「朝比奈が言うと?」
湊が聞くと、藤堂は即答した。
「ちょっと無理してる感」
「ひどい」
教室に小さく笑いが起きる。
湊は少しだけ安心した。
からかわれるかと思った。
でも、思っていたほどではなかった。
ちゃんと理由があると、周囲もそこまで深く踏み込まない。
あるいは、湊が気にしすぎていただけなのかもしれない。
朝のホームルームが始まった。
山崎が教室に入ってきて、出席を取り、連絡事項を話す。
「今週のホームルームで、文化祭のクラス企画について話し合います。準備委員の二人はよろしく」
その瞬間、クラスの何人かが湊と雨宮の方を見た。
湊は少しだけ背筋を伸ばした。
雨宮も隣で小さく頷いている。
もう完全に、文化祭準備委員として見られている。
そのことに少し緊張する。
でも、前ほど嫌ではなかった。
一時間目は数学だった。
週明けの数学はきつい。
藤堂は開始五分で眠そうにしていたし、倉田はすでにノートの端に落書きをしていた。
湊は何とか集中しようとした。
隣の雨宮は真面目にノートを取っている。
ただ、途中で小さくペンが止まった。
湊はそれに気づく。
雨宮のノートの端に、また小さな疑問符。
授業が終わったら聞かれるかもしれない。
そう思って、自分のノートを少し丁寧に書く。
この前から、自分のためだけではないノートになっている。
それが少し不思議だった。
休み時間。
予想通り、雨宮がノートを見せてきた。
「ここ」
「たぶん、ここで式変えてる」
「また飛んだ」
「理解が?」
「うん」
「最近よく消えるな」
「数学だけ」
湊は笑いながら説明した。
藤堂が後ろから言う。
「朝比奈先生、こっちも」
「三橋先生に頼め」
「三橋先生、厳しいんだよ」
三橋が顔を上げる。
「授業聞けばいい」
「厳しい」
倉田が笑う。
休み時間の教室は、少し騒がしい。
その中で、湊は雨宮に小さく説明を続ける。
雨宮は真剣に聞いている。
その距離が、前より少し自然になっている気がした。
近い。
でも近すぎない。
隣の席として、ちょうどいい距離。
それなのに湊の中では、土曜日のファミレスの向かいの席が重なっていた。
二時間目は現代文だった。
先生が、短い文章を読ませたあとに言った。
「日常の中で印象に残った場面について、五分で書いてください。大げさな出来事でなくて構いません」
湊はペンを持ったまま少し止まった。
印象に残った場面。
すぐに浮かんだのは、土曜日のファミレスだった。
ドリンクバーで雨宮が笑ったこと。
本屋で「普通の話が好き」と言ったこと。
帰りの電車で、既読の話をしたこと。
でも、それをそのまま書くのは恥ずかしすぎる。
湊は少し考えて、別のことにした。
放課後の教室で文化祭案を考えたこと。
窓の外から部活の音が聞こえて、教室に夕方の光が入っていたこと。
それなら書ける。
湊はノートに書き始めた。
特別な事件はなかった。
ただ、放課後の教室に残って、文化祭の案を考えただけ。
けれど、誰もいなくなった教室に自分たちの声だけが残っている感じがして、高校生活の中にちゃんと入れた気がした。
書いてから、少し恥ずかしくなった。
でも嘘ではなかった。
授業の終わり、隣同士で軽く共有することになった。
湊は雨宮を見る。
雨宮もこちらを見る。
「何書いた?」
湊が聞く。
雨宮はノートを少し隠すようにした。
「朝比奈から」
「ずるい」
「いいから」
湊は少し迷いながら、自分のノートを見せた。
雨宮はそれを静かに読んだ。
読み終えると、小さく言った。
「分かる」
「それだけ?」
「いいと思う」
「雑じゃない?」
「ちゃんと思ってる」
湊は少しだけ照れた。
「雨宮は?」
「見せない」
「え」
「ちょっと恥ずかしい」
その言葉に、湊は逆に気になってしまった。
雨宮が恥ずかしがる文章。
何を書いたのだろう。
でも、無理に聞くのは違う気がした。
「じゃあいいけど」
「気になる?」
「少し」
「じゃあ成功」
「何が?」
雨宮は少しだけ笑った。
昼休み。
藤堂たちは文化祭の話で盛り上がっていた。
「やっぱ縁日いいよな」
藤堂が言う。
「喫茶店は?」
湊が聞くと、藤堂は真剣な顔になった。
「やりたい。でも面倒そう」
「現実見えてきたな」
倉田が笑う。
三橋は弁当を食べながら言う。
「縁日なら、係分けしやすいと思う。射的、輪投げ、受付、装飾とか」
「三橋、委員より委員っぽい」
湊が言うと、三橋は少し笑った。
「考えるのは好きだから」
その言葉に、湊は少し安心した。
クラスの話し合いを全部自分たちで引っ張らなくてもいい。
意見を出してくれる人がいる。
それをまとめればいい。
そう思うと、少しだけ気が楽になった。
昼休みの後半、雨宮が湊の席に来た。
普段は隣同士だから“来る”というほどでもないが、今日は少しだけ体を向けて、文化祭のプリントを出した。
「朝比奈」
「ん?」
「今日の放課後、少しだけ確認する?」
「うん。いいよ」
「クラスで話す前に、流れ決めたい」
「前みたいに固まらないように?」
「うん」
「二人とも?」
「二人とも」
湊は笑った。
放課後にまた残る。
その予定が自然に決まることが、少し嬉しかった。
午後の授業は少し眠かった。
週明けの疲れと昼食後の眠気で、教室全体が少しぼんやりしている。
窓の外は晴れていて、部活前のグラウンドが静かだった。
湊は何度かノートの文字が歪みかけた。
隣を見ると、雨宮も少し眠そうだった。
目が合う。
雨宮が小さく口の形だけで言った。
「眠い」
湊は笑いそうになった。
ノートの端に小さく書く。
『同じ』
雨宮はそれを見て、少しだけ笑った。
放課後。
ホームルームが終わると、藤堂たちは部活や帰宅でそれぞれ動き出した。
「朝比奈、残るの?」
藤堂が聞く。
「文化祭の確認」
「真面目だなー」
「委員だから」
「便利ワード」
藤堂は笑って教室を出ていった。
少しずつ教室から人が減っていく。
やがて残ったのは、湊と雨宮、それから少し離れた席でスマホを見ている女子が一人だけになった。
雨宮がプリントを広げる。
「ホームルームで話す流れ」
「まず、候補三つを出す」
「その後、他に案あるか聞く」
「最後に投票?」
「たぶん」
湊はペンで簡単にメモした。
雨宮はそれを見ながら言う。
「朝比奈、最初話す?」
「また俺?」
「最初だけ」
「じゃあ雨宮、候補説明して」
「分かった」
役割が決まっていく。
前に立つのはまだ少し怖い。
でも、前よりはましだった。
二人でやれば半分。
雨宮の言葉を思い出す。
「土曜に考えたこと、結構使えそうだな」
湊が言うと、雨宮は頷いた。
「うん」
「ファミレス行ってよかった」
何気なく言った。
言ってから少しだけ心臓が跳ねた。
雨宮はプリントを見たまま、少し間を置いた。
「うん。行ってよかった」
その返事が、思ったより静かで、湊は顔を上げた。
雨宮は普通の表情だった。
でも、ほんの少しだけ目元が柔らかかった。
放課後の教室に、夕方の光が入っている。
少し離れた席にいた女子もいつの間にか帰っていた。
二人だけになっていた。
湊はそのことに気づいて、少しだけ緊張した。
雨宮も気づいているのかは分からない。
ただ、プリントを整えながら言った。
「朝比奈」
「ん?」
「現代文のやつ」
「授業の?」
「私が書いたやつ」
湊は少し驚いた。
「見せてくれるの?」
「見せないけど」
「見せないんだ」
「一文だけ」
雨宮は少しだけ視線を落とした。
「休日のファミレスで、ドリンクバーの味が変だったことを書いた」
湊は一瞬黙って、それから笑ってしまった。
「そこ?」
「印象に残ったから」
「俺のせいじゃん」
「朝比奈が変な混ぜ方するから」
雨宮も少し笑った。
その笑い声は小さかったが、教室の静けさの中ではちゃんと聞こえた。
湊はその瞬間を、たぶん覚えているだろうと思った。
文化祭のプリントよりも。
ホームルームの準備よりも。
放課後の教室で、雨宮が自分の書いたことを一文だけ教えてくれたこと。
そういう小さな出来事の方が、きっと長く残る。
帰り道。
二人で駅へ向かう。
月曜日の夕方は少しだけ疲れている。
でも、湊の足取りは軽かった。
「今日の現代文」
湊が言う。
「うん」
「先生、普通のこと書けって言ってたけど、普通のことって結構難しいな」
雨宮は少し考えて頷く。
「でも、残るのは普通のことかも」
「ドリンクバーとか?」
「うん」
「俺の混ぜ方、そんなに印象的だった?」
「悪い意味で」
「ひどい」
二人で笑う。
駅に着く。
ホームで電車を待つ。
いつもの景色。
いつもの時間。
でも、今日は少しだけ違っていた。
学校の中でも、土曜日のことを普通に話せた。
隠している訳ではなく、でも全部を見せる訳でもなく。
二人の間だけで、少しずつ共有されている。
電車が来る。
二人で乗る。
今日は少し混んでいて、並んで立った。
肩が近い。
でも、以前ほど慌てなかった。
雨宮が小さく言う。
「朝比奈」
「ん?」
「今日、前より普通に話せたね」
「いつも普通じゃない?」
「土曜の後だから」
湊は少しだけ黙った。
雨宮も同じことを考えていたらしい。
「……うん」
湊は小さく頷いた。
「普通に戻れてよかった」
雨宮は少しだけ首を横に振った。
「戻ったというより、少し進んだ感じ」
その言葉に、湊は返事ができなかった。
少し進んだ。
たしかにそうかもしれない。
土曜日に会う前とは、何かが少し違う。
でも大きく変わった訳ではない。
ただ、前より少し話しやすい。
前より少し相手のことを考える。
前より少し、隣にいることが自然になっている。
雨宮の降りる駅が近づく。
「また明日」
雨宮が言う。
「うん。また明日」
雨宮は電車を降り、ホームで小さく手を上げた。
湊も手を上げる。
扉が閉まる。
電車が動き出す。
湊は窓の外を見ながら、雨宮の言葉を思い返していた。
少し進んだ感じ。
それは、関係に名前をつけるほどの変化ではない。
でも、確かに進んでいる。
普通の恋がしたかった。
そう思って高校に入った。
まだ恋と呼ぶには早い。
でも、普通の毎日の中で、誰かとの距離が少しずつ変わっていく。
それはきっと、湊がずっと欲しかったものにかなり近かった。




