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『普通の恋が、したかった。』  作者: vastum


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第13話 前に立つ

木曜日の朝、朝比奈湊は家を出る前に三回確認した。


財布。


スマホ。


文化祭のプリント。


最後の確認だけ、少し高校生っぽいと思った。


中学の頃なら、プリントなんて前日の夜には鞄の奥でぐしゃぐしゃになっていた。


提出日を忘れて慌てることもあった。


でも今は違う。


文化祭準備委員。


その肩書きがあるだけで、プリント一枚の重みが少し変わる。


湊は鞄のファスナーを閉め、家を出た。


朝の空気は少し暖かかった。


四月も後半に近づき、春の匂いがだんだん薄れていく。


駅まで歩きながら、湊は昨日の放課後を思い出していた。


雨宮と二人で教室に残って、文化祭案を考えた時間。


縁日。


謎解き展示。


フォトスポット。


プリントに書かれた三つの案。


まだ決まった訳ではない。


来週、クラスで意見を集める。


でもその前に、今日のホームルームで軽く説明だけしておこうと、昨日二人で決めた。


問題は、その“説明”だった。


前に立つ。


クラス全員の前で話す。


たった数分。


でも湊にとっては、それだけでかなり緊張する。


中学でも発表はあった。


けれど、基本的に目立たないように生きてきた。


わざわざ自分から前に出ることなんて、ほとんどなかった。


それを今日、自分からやる。


しかも雨宮と二人で。


電車に乗り、いつもの場所へ立つ。


少しすると、雨宮が乗ってきた。


湊を見つけると、小さく手を上げる。


「おはよう」


「おはよう」


「持った?」


「プリント?」


「うん」


「三回確認した」


雨宮は少しだけ笑った。


「ちゃんとしてる」


「文化祭委員だから」


「急に真面目」


「雨宮に言われたくない」


雨宮は手に持っていたファイルを少し上げた。


「私はちゃんとしてる」


「それは知ってる」


「朝比奈も最近ちょっとちゃんとしてる」


「ちょっとか」


「前より」


湊は笑った。


電車が揺れる。


朝の車内には、同じ制服の高校生がたくさんいた。


その中で、文化祭のプリントを気にしている自分が少し不思議だった。


「今日」


雨宮が小さく言った。


「うん」


「ホームルーム、どうする?」


やっぱりそこだった。


湊は少しだけ顔をしかめる。


「それな」


「緊張する?」


「かなり」


「私も」


「二人とも緊張してるの終わってる」


「でも、一人じゃないからまだまし」


その言葉に、湊は少し安心した。


最近、雨宮はたまにそういうことを自然に言う。


一人じゃない。


二人で。


それだけで、湊の中の緊張が少し薄れる。


学校へ向かう道。


今日は風が少し強かった。


女子のスカートが揺れ、男子が制服の袖を押さえている。


湊と雨宮は並んで歩いた。


「何言うか決める?」


湊が聞く。


「簡単でいいと思う」


「例えば?」


雨宮は少し考える。


「文化祭準備委員になりました。来週、クラス企画決めるので考えておいてください」


「短い」


「短い方がいい」


「俺、変な間できそう」


「できたら私が喋る」


「助かる」


「逆もする」


湊は少し笑った。


「なんか共同作業っぽいな」


「文化祭委員だから」


「便利だな、その言葉」


「今だけ使える」


教室に入ると、いつも通りの朝だった。


藤堂が前の席でスマホを見ている。


倉田は眠そうに机に突っ伏している。


三橋はもう教科書を開いていた。


「おはよー」


藤堂が手を上げる。


「おはよう」


湊が返すと、藤堂はニヤッとした。


「文化祭委員」


「その呼び方やめろ」


「今日クラスに説明するんだろ?」


「まあ、一応」


「頑張れよ。応援してる」


「他人事」


「完全に他人事」


倉田が机に顔をつけたまま言った。


「朝比奈、絶対噛む」


「やめろ、不安になる」


「雨宮さんいるから大丈夫じゃね?」


その言葉に、湊は少しだけ隣を見る。


雨宮は普通に鞄を机へかけていた。


でも、小さく「たぶん」と言った。


その声が聞こえて、湊は少し笑ってしまう。


ホームルーム前。


教室の空気はまだ緩い。


雑談。


スマホ。


昨日のテレビ。


部活。


いろんな声が混ざっている。


湊はその中で、何度か頭の中で言葉を繰り返していた。


文化祭準備委員になりました。


来週、企画決めます。


案を考えておいてください。


たったそれだけ。


でも、いざ前に立つと思うと喉が乾く。


「朝比奈」


雨宮が小さく呼ぶ。


「ん?」


「顔、ちょっと固い」


「緊張してる」


「分かる」


「雨宮は平気そう」


「平気そうなだけ」


土曜日にも聞いた言葉。


最近、その言葉を聞くと少し安心する。


山崎が教室へ入ってきた。


「はーい、席つけー」


ざわめきが少し静かになる。


出席確認。


連絡事項。


いつもの流れ。


そして最後に、山崎が言った。


「あ、そうだ。文化祭準備委員、決まったんだったな。朝比奈、雨宮、何かあるか?」


来た。


湊の心臓が少し跳ねる。


隣を見ると、雨宮もほんの少しだけ姿勢を正していた。


湊は立ち上がる。


足が少し変な感じだ。


教室の視線が集まる。


たぶん全員が見ている訳ではない。


でも、見られている気がする。


「えっと」


声が少し掠れた。


終わった。


そう思った瞬間、隣で雨宮が立ち上がった。


「文化祭準備委員になりました」


雨宮が自然に続ける。


落ち着いた声だった。


湊は少しだけ助けられる。


「来週、クラス企画を決めるので」


湊が続ける。


「やりたい案とか、考えておいてください」


「以上です」


雨宮が綺麗に締めた。


教室が少し静かになったあと、藤堂が拍手した。


「文化祭委員っぽい!」


何人かが笑う。


湊は座りながら、ようやく息を吐いた。


終わった。


たった数十秒なのに、かなり疲れた。


雨宮が小さく言う。


「朝比奈、ちゃんと言えた」


「雨宮が助けたからだろ」


「共同作業」


「便利ワード」


でも、少し嬉しかった。


一人なら絶対もっと変になっていた。


二人だったから、何とかできた。


それは本当だった。


一時間目の現代文が始まる頃には、湊の緊張も少し落ち着いていた。


教科書を開きながら、さっきのことを思い返す。


別に大したことはしていない。


短く話しただけ。


でも、ちゃんとクラスの前で立った。


それは湊の中では、少しだけ大きなことだった。


授業中、雨宮がノートの端に小さく何か書いているのが見えた。


ちらっと覗くと、


『ちゃんと委員だった』


と書いてある。


湊は思わず吹き出しそうになった。


雨宮はこちらを見ず、小さく口元だけ笑っている。


湊はノートの端に、


『そっちも』


とだけ書いて返した。


なんだこれ、と思う。


小学生みたいだ。


でも少し楽しい。


二時間目の休み時間。


藤堂がすぐに来た。


「朝比奈」


「ん?」


「意外とちゃんとしてた」


「意外とって何だ」


「もっとガチガチかと思った」


倉田が笑う。


「最初ちょっと固かったけどな」


「見られてたのかよ」


「そりゃ見るだろ。急に前立ったし」


三橋も頷く。


「でも普通によかったと思う」


普通によかった。


その言葉に、湊は少し安心した。


特別うまくなくていい。


変じゃなければいい。


高校生活の多くは、たぶんその積み重ねだ。


昼休み。


今日は珍しく、雨宮が先に話しかけてきた。


「朝比奈」


「ん?」


「朝、思ったより平気だった」


「終わった後ならそう思える」


「始まる前は?」


「逃げたかった」


「分かる」


二人で笑う。


藤堂が弁当を食べながら言った。


「文化祭さ、もう決めようぜ」


「早い」


湊が言う。


「まだ四月だぞ」


「でも楽しみじゃん」


「お前ほんと行事好きだな」


「高校生っぽいだろ?」


藤堂は満面の笑みだった。


倉田が言う。


「俺、縁日いいと思うけどな」


湊は少し驚いた。


「なんで?」


「役割多そうだし、クラス全員でできそう」


三橋も頷く。


「準備も分担しやすそうだよね」


藤堂は少し考えてから言った。


「じゃあ喫茶店と縁日で対決だな」


「まだ対決してない」


でも、こうやって自然に文化祭の話題が出ることが少し嬉しかった。


自分たちが動いたことで、クラスの中に文化祭の空気が少しだけ生まれている。


その感じが、湊には新鮮だった。


放課後。


今日は委員会はない。


でも、湊と雨宮は自然と一緒に帰る流れになっていた。


教室を出て、階段を降りる。


夕方の廊下には、部活へ向かう生徒の声が響いている。


「今日」


雨宮が言った。


「うん」


「ちゃんと前立てたね」


湊は少し笑った。


「雨宮がいたからな」


「私も朝比奈いたから」


「また同じか」


「最近多い」


湊はその言葉を聞いて、少しだけ胸が温かくなった。


最近多い。


それはたぶん、お互いが少しずつ相手に慣れてきたということだ。


駅までの道。


春の夕方。


風は少し弱かった。


「文化祭、ちゃんと楽しめるかな」


湊がぽつりと言う。


雨宮は少し考えてから答えた。


「たぶん、準備してる時点でもう少し楽しい」


「え?」


「今日とか」


湊は少し黙った。


今日。


朝のホームルーム。


放課後の話。


文化祭の会話。


そういう時間のことを言っているのだろうか。


「文化祭って当日だけじゃないし」


雨宮が続ける。


「決めたり、残ったり、そういうのも含めてだと思う」


その言葉は、妙に納得できた。


昨日、二人で教室に残って企画を考えた時間。


今日、前に立つ前の緊張。


終わった後の安心。


たぶん、そういうものが後から思い出になる。


「雨宮って、たまにすごいそれっぽいこと言う」


「それっぽい?」


「青春作品のヒロインみたいな」


言ってから、湊は少し後悔した。


何言ってるんだ。


でも雨宮は少しだけ目を丸くしたあと、小さく笑った。


「朝比奈、それ恥ずかしいよ」


「言った後に思った」


「でも」


雨宮は少しだけ前を向いたまま言う。


「嫌じゃない」


湊は何も返せなかった。


駅に着く。


ホームで電車を待つ。


夕方のホームは、朝より少し静かだ。


部活帰りの生徒が疲れた顔で座っている。


スマホを見ている人。


友達と話している人。


その中で、湊と雨宮は並んで立っていた。


「今日さ」


湊が言う。


「うん」


「前に立つの、ちょっとだけ楽しかったかも」


雨宮は少しだけ笑った。


「分かる」


「緊張はしたけど」


「終わった後、ちょっと安心した」


「それも分かる」


また同じだ。


最近、本当に多い。


でも、その“同じ”が湊には心地よかった。


電車が来る。


二人で乗る。


今日は座席が空いていた。


少し距離を空けて座る。


窓の外には夕焼けが流れていた。


「朝比奈」


雨宮が小さく呼ぶ。


「ん?」


「今日、ありがとう」


湊は少し驚いた。


「何が?」


「一緒に前立ってくれて」


その言葉に、湊は少しだけ言葉を失った。


そんなふうに言われると思っていなかった。


「……俺も助かった」


それだけ返す。


雨宮は小さく頷いた。


「ならよかった」


電車が揺れる。


夕焼けが窓に映る。


普通の帰り道。


普通の高校生。


普通の会話。


でも湊は、今日のことをきっとちゃんと覚えていると思った。


前に立ったこと。


隣に雨宮がいたこと。


そして、“ありがとう”と言われたことを。

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