第三十一話 式の前夜と剣を研ぐ理由
婚約式まで二日。
夕食の後、ルシアンは俺を連れて城壁の上へ出た。
理由は「星が見たい」だったが、実際は落ち着かないから外に出たかっただけだろう。
風が強く、金髪が乱れるのも構わず、彼は城壁の縁に肘をついて夜の王都を眺めていた。
俺はその二歩後ろに立ち、城壁の下を行き交う夜警の動きを確認していた。
しばらく沈黙が続いた後、ルシアンが口を開いた。
「なあ、カイル。一つ聞いていいか」
「はい」
「元々のゲームで……アリスがシルヴェスターを選んだルートだと、この婚約式はどうなるんだ」
俺は少し考えてから答えた。
「俺が知るわけないでしょう。殿下の方が詳しいはずです」
「そうだな」
ルシアンは遠くの灯りを目で追いながら、記憶を辿るように話し始めた。
「シルヴェスタールートだと……式の当日、刺客が現れる。式場の灯火台に細工をして、煙で視界を奪って、その混乱の中で動く手口だ」
「誰が標的になります」
「本来は兄上だよ。聖女を手に入れようとする兄上シルヴェスターを妨害したい勢力が、式の場を狙う。でも兄上は『完璧なる聖光の守護者』だからな。聖属性魔法がカンストしてる上に、パーティーが整ってれば、あの程度のエンカウントは難易度低めの戦闘イベントだ」
俺はその話の前半だけを取り出して、頭の中で整理した。
灯火台への細工。煙による視界の遮断。混乱に乗じた暗殺。
……シルヴェスタールートの式と、今回の式。
標的が変わっているだけで、手口は同じだ。
「殿下」
「ん?」
「その『シルヴェスタールートの式』ですが、刺客は何人でしたか」
「確か……三人だったかな。難易度低めだから、装備さえ整ってれば楽に捌けるって攻略サイトに書いてあった」
「そのうち何人が、式場の外にいましたか」
「外?」
ルシアンは眉を寄せた。
「……ゲームの演出だと、全員室内にいたと思う。なんで?」
「セインから報告がありました」
俺は静かに続けた。
「今回、式場の外の裏口と馬車通りにも、それぞれ一人ずつ見慣れない影があるそうです」
ルシアンが城壁の縁から身を起こした。
「……それは、元のシナリオにはない動きだぞ」
「はい」
「逃げ道を塞ぐつもりか」
「あるいは、式場の中が制圧された時の保険か」
二人の間に、夜風が吹き抜けた。
ルシアンは腕を組み、眉間に皺を寄せた。
「……カイル、正直に答えてくれ。今回、俺たちは詰んでるか」
「いいえ」
「即答だな」
「詰んでいたら、すでに対処を考えていません」
俺は城壁の下を見下ろしながら、今夜確認したことを頭の中で並べた。
セインが外の影を把握している。アリスが式場内の動きを監視する。俺が祭壇の近くに立つ。裏口の経路は昨日のうちに確認した。
「元のシナリオより人数が多いのは問題ですが、こちらも元のシナリオにはない人員があります」
「俺たちのことか」
「俺と、セインと、アリス嬢と」
ルシアンはしばらく黙った。
それから、ふっと短く笑った。
「……君がいるなら、詰まないな」
根拠のない言葉だ。
だが、その声には本物の安堵があった。
俺は答えなかった。
ただ、一つだけ引っかかっていることを、口には出さなかった。
ゲームの手口と同じで、人数だけが多い。
それは自然な「強化」ではない。
まるで——元の台本を「知っている誰か」が、それを修正して当てはめたような。
その「誰か」が誰なのか。
シルヴェスターの差し金なのか、それとも別の「手」なのか。
今夜、その問いに答えは出ない。
「カイル、寒くなってきた」
ルシアンが上衣の前を掻き合わせた。
「戻りましょう」
「そうする。……あ、待って」
彼は踵を返しかけて、止まった。
俺に向き直り、少し言いにくそうに口を開く。
「今夜……剣、研いでくれるか。俺、それを聞きながら眠れると思う」
「……砥石の音で眠れるんですか」
「うるさくないくらいの、静かな音がいいんだ。君が近くで作業してるって分かると、落ち着く」
俺は何も言わなかった。
「駄目か」
「……分かりました」
ルシアンは少し照れたように前を向き、さっさと歩き始めた。
俺はその後ろをついて歩きながら、懐に入れていた砥石の重みを確認した。
明日の準備のために、今夜研ぐつもりだった。
それがあの馬鹿の子守唄になるとは思っていなかったが——まあ、悪くはない。
寝室に戻り、俺が窓辺で剣を研ぎ始めると、ルシアンはすぐにベッドに入った。
砥石が刃を滑る、静かな音。
十分もしないうちに、寝息が聞こえてきた。
俺は手を止めず、刃の角度を確認した。
式まで、あと二日。
胸の底に残る違和感は、まだそこにあった。
だが今夜は、それを持ち越す。
目の前のバカが眠れているのなら、それでいい。




