第三十話 夜の厨房と言えないこと
婚約式まで七日。
王宮の廊下には白い花飾りが増え、侍女たちが忙しなく行き来していた。
その喧騒をよそに、俺は深夜の厨房にいた。
理由は単純だ。
ルシアンが「眠れない」と言い出し、「温かいものが飲みたい」と言い、「カイルが作ったやつじゃないと嫌だ」と言い張ったからだ。
「殿下、俺は騎士であって料理人ではありません」
「ホットミルクくらい作れるだろ」
「……それは、作れますが」
厨房の夜番の使用人が俺たちを見て目を丸くしたが、ルシアンが「二人の邪魔をするな」とわけの分からない理由で追い払ったので、今は二人きりだ。
俺は鍋に牛乳を注ぎ、火にかけた。
ルシアンは調理台の端に腰かけ、足をぶらぶらさせている。王子としての品位は欠片もないが、いつもよりずっとリラックスした顔だ。
「……眠れない理由を聞いても良いですか」
「婚約式のことを考えてたら眠れなくなった」
「シルヴェスター殿下の次の手が気になりますか」
「それもある」
「それも、ということは、他にも何かありますか」
ルシアンは足のぶらつきを止め、調理台の縁を指先でなぞった。
「……なあ、カイル。聞いていいか」
「はい」
「俺が安全になったら、君はどうするんだ」
俺は鍋の火を調節しながら、その問いを頭の中で転がした。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ。シナリオが終わって、兄上の脅威がなくなって……俺に護衛が必要なくなったら。君は辺境に帰るのか」
牛乳が鍋の底からゆっくりと温まり始める。
「それは……その時になってから考えます」
「今考えてくれ」
「今すぐ答えを出す必要はないでしょう」
「俺が聞きたいんだよ」
ルシアンの声は、いつもの駄々をこねる調子とは少し違った。
俺は木べらを持つ手を止め、鍋の中の牛乳をしばらく見つめた。
「……殿下が安全になっても、騎士の仕事がなくなるわけではありません」
「それは答えになってない」
「今出せる答えは、それだけです」
沈黙。
ルシアンは何か言いかけて、やめた。
それから、また足をぶらぶらさせ始めた。
「……そうか」
その声は、さっきより少しだけ低かった。
牛乳が温まり、俺は杯に注いだ。蜂蜜を少し落として、ルシアンに手渡す。
「やけどしないように」
「分かってる」
彼は両手で杯を包むように持ち、一口飲んだ。
白い湯気が顔にかかり、睫毛を少しだけ濡らす。
「……美味い」
「それは良かった」
俺は片付けを始めた。
「カイル」
「はい」
「君って……俺のことを、どう思ってるんだ」
手が、一瞬だけ止まった。
「護衛対象です」
「それは分かってる。そうじゃなくて」
「……面倒くさい主君です」
「それも分かってる」
「手のかかる、目が離せない、時々信じられないほど馬鹿なことをする——」
「それ以上言うな」
ルシアンは杯を持ったまま、俺を見ていた。
夜の厨房は薄暗く、かまどの残り火だけが二人を照らしている。
「……俺さ」
彼は視線を杯に落とした。
「ゲームをプレイしてた頃、この世界のルシアンのことが好きじゃなかったんだ。悪役で、嫌な奴で、断罪されて当然だと思ってた」
俺は片付けの手を動かしながら、続きを待った。
「でも実際にこの体で生きてみたら……ただ怖かっただけなんだよな、あいつ。誰も信じられなくて、どこにも逃げ場がなくて。だから全部壊す前に壊されようとして、嫌われ者を演じてた」
「……殿下」
「君に会うまで、ここで生き残れるとは思ってなかった」
俺は鍋を置いた。
振り返ると、ルシアンは俺を見ていた。
真剣な目だった。
いつもの「助けてくれ」でも「給料分働け」でもない、もっと別の、俺にはうまく名前をつけられない種類の目だ。
「だから……帰らないでくれ。理由とか、給料とか、そういうのじゃなくて」
言葉が続かなかった。
彼は照れ隠しに杯を口に押し当て、残りを一気に飲んだ。
俺は何も言わなかった。
答えを持っていなかったからだ。
正確には——答えは出ていたが、それをこの男に向かって口にするのが、どういうことを意味するのか。それが、まだ俺には整理できていなかった。
「……殿下」
「なんだ」
「次に眠れない夜は、自分で厨房に来てください」
「えっ」
「ホットミルクの作り方くらい、覚えられるでしょう」
ルシアンは呆然とし、それから唇を尖らせた。
「……冷たい奴」
「そうですか」
「そうだよ」
厨房を出る時、ルシアンは俺より半歩前を歩いた。
いつもは俺が前を歩く。
その半歩の意味を、俺は考えないことにした。
考え始めると、今夜は俺まで眠れなくなる気がした。




