第二十九話 婚約式の日程と静かな撤退戦
聖火の儀式から一週間。
王宮の廊下には、白と金の装飾布が張り始められていた。
婚約式の準備だ。
「日程が決まった」
ルシアンが私室に飛び込んできたのは、朝の訓練を終えたばかりの俺が剣を拭いている時だった。
顔色は悪いが、以前のような「足が震えて立てない」種類の恐怖ではない。
どこか、腹を括った人間の顔だった。
「十四日後。大礼拝堂で、全貴族の前で執り行うそうだ」
「……早いですね」
「兄上は急いでる。俺たちに準備する暇を与えたくないんだろう」
ルシアンはソファに腰を下ろし、脚を組んだ。
以前なら膝を抱えていたところを、今は背もたれに肘をかけている。
少しだけ、立ち方が変わった。
「アリスには話しましたか」
「まだだ。……でも、あいつのことだ。とっくに知ってるだろうな」
それはそうだろう。「マダム・ローズ」がこの城の情報網を持っていないはずがない。
「殿下、一つ確認させてください」
俺は剣を鞘に収め、彼の正面に立った。
「以前、婚約式の当日に全貴族の前で婚約破棄を宣言する、という計画を仰っていましたね」
「ああ、あの『完璧な悪役プラン』な」
ルシアンは苦笑した。
「……今となっては、あれはナシだ。当時の俺は頭が悪すぎた」
「では、どうするつもりですか」
「それを考えてるんだよ」
彼は天井を仰ぎ、指先で肘掛けを叩いた。
「派手に動けば兄上の思う壺だ。かといって黙って式を進めれば、アリスが俺に縛られる。……あいつに借りを作りすぎるのも、気持ち悪い」
「殿下がアリス嬢のことを気にするとは、珍しいですね」
「うるさい」
ルシアンは頬を赤くし、視線を逸らした。
「あいつが……ローズ夫人だと分かってから、なんか変なんだよ。あの女、俺のことを全部見てたわけだろ。恥ずかしいやら腹立つやら……でも、祭壇で助けてくれたのも事実だし」
複雑な感情が顔に全部出ている。
俺は余計なことを言わず、続きを待った。
「……とにかく、アリスと話す。今日中に」
「それが良いでしょう」
「カイルも来い」
「俺が同席すると、アリス嬢の筆が進みますよ」
「だから来い。あいつに記録されるなら、せめて証人をつけておきたい」
……理屈が分からなくもない。
午後、庭園の東屋。
アリスはすでにそこにいた。
茶の用意まで整えて、待ち構えていた。
「いらっしゃると思っておりましたわ」
扇を揺らす所作は優雅だが、その目は俺とルシアンを交互に見て、静かに光っている。
ルシアンは向かいの椅子に座り、しばらく無言でアリスを見つめた。
「アリス」
「はい」
「俺の婚約者になりたいか?」
「いいえ」
間髪入れない即答だった。
ルシアンは少し目を丸くし、それから乾いた笑いを漏らした。
「……だよな」
「殿下こそ、私を望んでおられますか?」
「望んでない」
「では、お互い様ですわね」
アリスは茶を一口飲み、扇を閉じた。
その動作は、これから本題に入るという合図のように見えた。
「殿下。私はこの婚約を、使えるうちは使います。ですが必要がなくなれば、自分から降ります。その時期を決めるのは私です」
「……つまり、お前が主導権を持つと言いたいのか」
「そうですわ」
ルシアンは俺を見た。
「どう思う」という目だ。
俺は茶を受け取り、一口飲んでから静かに言った。
「アリス嬢、一つだけ確認させてください」
「どうぞ」
「『必要がなくなる時』とは、どういう状況を指しますか」
アリスは俺を見た。
いつもの「観察」ではなく、少し違う種類の視線だった。
「……ルシアン殿下が、この王宮で安全に生きていける状況になった時」
静かな答えだった。
「それだけですか」
「それだけですわ」
俺は何も言わなかった。
信じるかどうかは、まだ保留でいい。
ただ、この答えは——嘘ではないと思った。
「分かった」
ルシアンが口を開いた。
「お前の主導権を認める。ただし一つだけ条件がある」
「聞きましょう」
「次の号に今日の会話を書くな」
アリスは一瞬、動きを止めた。
それから扇で口元を隠し、くすくすと笑い出した。
「……約束はできかねますわ」
「アリス!」
「ですが、『婚約者との密談』という体裁は守ります。核心的な部分は書きませんわ」
「核心以外は書くのか!」
「それが私の仕事ですもの」
ルシアンは頭を抱え、俺に助けを求めた。
俺は静かに三杯目の茶を注いだ。
今日の会話も、明日の号に載るのだろう。
それはもう、諦めるしかない。
東屋を出た後、ルシアンは石畳を歩きながら、ぽつりと言った。
「……アリスって、何者なんだろうな」
「さあ」
「カイルはどう思う」
「俺には分かりません」
「嘘くさい」
俺は答えなかった。
ルシアンは少しの間、俺の横顔を見ていた。
それから前を向き、独り言のように続けた。
「……でも、今日の感じだと。あいつは、俺に死んでほしくないとは思ってるみたいだった」
「そうですね」
「それで十分かな」
「今は、十分でしょう」
夕暮れが石畳を赤く染めていた。
十四日後の婚約式まで、時間はある。
ただし、シルヴェスターが次の手を打つまでの時間も——同じだけある。




