第二十八話 第一王子の静かな宣戦布告
シルヴェスターが動いたのは、聖火の儀式から五日後のことだった。
早朝の訓練場。
空気はまだ夜明けの冷気を帯び、砂利に霜が薄く張っていた。
俺が一人で剣の素振りをしていると、背後から完璧に制御された足音が近づいてきた。
振り返らなくてもわかる。
「精が出るな、ヴァルツ騎士」
シルヴェスターは白い練武服に身を包み、手には使い込まれた細身の剣。観賞用ではない、実戦で磨かれた刃だ。
「シルヴェスター殿下」
俺は礼をとったが、視線は奴の剣を離さなかった。
「一手、手合わせ願えるかな。……久しく、本気で動ける相手がいなかった」
「光栄ですが、俺の剣は護衛のためにあります。模擬戦は専門の教官に」
「断ったな」
シルヴェスターは笑んだ。
目だけは笑っていない。
「あの聖火の一件、ユリウスは今も『邪気の反噬』だったと言い張っているよ。……だが私は、あれが人為的なものだと確信している」
俺は答えなかった。
「ヴァルツ騎士。私はね、人を動かす方法を二つ知っている」
シルヴェスターは訓練場の石壁に背を預け、腕を組んだ。
「一つは、恐怖。もう一つは、利益だ。君は今まで、どちらにも動じなかった。……だから、今日は別の話をしよう」
「拝聴します」
「ルシアンのことだ」
一瞬だけ、俺の指先が剣の柄に触れた。
「あの子は優秀だ。本人は気づいていないが、黒い森の一件も、聖火の儀式も……あの子が自ら考え、動いた形跡がある。以前とは別人だよ」
シルヴェスターの声は、珍しく感情の色を帯びていた。
「だが、それが問題でもある。私が王太子として確立されるためには、ルシアンが無能でなければならない。……それが、この国の均衡だ」
「殿下がそう仰るなら、俺に言うことは何もありません」
俺は静かに答えた。
「殿下の意向に従うのが、騎士の務めです」
「ほう、今日は随分と素直だな」
「いいえ。俺には、殿下の仰っていることが理解できないだけです」
シルヴェスターの目が細まった。
「理解できない?」
「はい」
俺は正面から奴を見据えた。
「俺は辺境の三男で、王都の政治は専門外です。ですが、騎士の目で見て一つだけわかることがある。……賢い捕食者は、傷ついた獲物の動向よりも、狩場に現れた新しい狩人を気にするものです」
シルヴェスターは微動だにしなかった。
だが、その青の瞳の奥で、何かが素早く動いたのを俺は見た。
「……面白い比喩だ」
「比喩ではありません」
俺は告げた。
「あの儀式の聖火盆を細工したのがユリウスだとして、あの男を手配したのが誰かは、殿下は知っているはずだ。……そして今、その人物がユリウスという道具を失った後、次に何を使うのか、俺には分かりません。ですが、標的はルシアン殿下だけとは限らない」
沈黙が、砂利の上に落ちた。
シルヴェスターは俺から視線を外し、遠い城壁の向こうを見た。
「……ユリウスを手配した者、か」
「殿下が既にご存知であれば、蛇足でした」
「そうでもない」
彼は静かに言い、練武服の袖を整えた。
「ヴァルツ騎士。君は、ルシアンの何を守っているつもりだ? 命か、それとも――」
「全部です」
俺は遮った。
少し語気が強すぎた、と自覚しながら、取り消さなかった。
「命も、意思も、あのポンコツな笑い方も。全部が俺の護衛対象です」
シルヴェスターは長い沈黙の後、はっきりとした笑声を上げた。
剣を鞘に収め、踵を返す。
「随分と広い解釈の『護衛』だな。……だが、嫌いではない」
背中が遠ざかり、訓練場にまた静寂が戻る。
俺は息を吐き、剣を持つ手の震えに気づいた。
震えているのは、恐怖ではない。
「命も、意思も、あのポンコツな笑い方も」
……今しがた自分が言ったことを反芻して、俺は訓練場の石壁を思いきり殴った。
静かな朝の空気に、鈍い衝撃音が響く。
「……俺は何を言っているんだ」
指の関節が赤くなる。痛い。
だが問題はそこではない。
あの男に向かって、護衛の意味を「全部」と言い切った自分が、いつからこうなったのか、俺にはまったく説明がつかなかった。
「カイル? 朝練か?」
振り返ると、乱れた金髪のルシアンが訓練場の入り口に立っていた。
眠そうな目をこすり、片手に食いかけの菓子パンを持っている。
「兄上とすれ違ったぞ。なんか、機嫌よさそうだったけど……何話してたんだ?」
俺は何でもないように剣を持ち直した。
「大したことじゃありません。早朝の挨拶です」
「嘘くさいな」
ルシアンは疑わしげに目を細め、俺の右手を見た。
「……拳、赤くなってるじゃないか。本当に何もなかったのか?」
「素振りで石壁にぶつけました」
「……下手すぎだろ、いくら何でも」
俺は答えず、空を見た。
夜明けの光がようやく城壁を越え始めている。
「殿下。今日から、警戒を一段上げます」
「また兄上が何かやらかすのか?」
「恐らく。ただし今度は、ユリウスのような代理人は使わないはずです」
ルシアンは菓子パンを飲み込み、真剣な目になった。
「……直接来る、ってことか」
「或いは、今まで俺たちが気づいていなかった方向から来る」
ルシアンはしばらく黙った。
それからぼそりと、菓子パンを俺に押しつけた。
「食え。朝飯抜きで剣振ってたんだろ」
「俺には俺の分が……」
「食え、と言ってる。……俺が与えると言ったら与えるんだ。主君の命令だぞ」
その言い方があまりにも不器用で、俺は返す言葉を失った。
菓子パンを受け取り、口に入れる。甘い。
「……ありがとうございます」
「礼を言うな、気持ち悪い」
ルシアンはそっぽを向いた。耳が赤い。
俺は前を向き、遠くなるシルヴェスターの影を目で追った。
あの男が「直接動く」とはどういう意味か。
ユリウスを失い、聖火の儀式で教会との関係に傷が入った。
次の手は、より根源的な何かのはずだ。
そして、「ユリウスを手配した者」――俺があの場で言った言葉は半ばハッタリだったが、シルヴェスターの反応を見る限り、あの男には心当たりがある。
つまり、兄が弟を殺そうとする構造の背後に、さらに別の「手」がある。
「カイル、難しい顔してる」
「考えごとです」
「俺のことを考えてるのか?」
「……まあ、そうです」
ルシアンはどこか満足そうに、小さく笑った。
「じゃあ仕方ないな。考えてていいよ」
朝の光が二人の影を長く伸ばした。
「台本のない舞台」に立つ俺たちには、そろそろ次の幕が来る。
そしてその幕を開けるのが誰なのか――それだけは、まだ誰にも分からなかった。




