第二十七話 廃人の反撃とローズ夫人の正体
聖火の儀式から三日。
王宮の空気は、爆発する寸前の焰のように緊張していた。
俺は私室の窓辺で剣を磨いていた。
刃を布で拭うたびに、指先に聖火の余熱がよみがえる。あの夜の「虚無」の感触は、まだ骨の奥に貼り付いていた。
「カイル。起きてるか?」
扉の外からルシアンの声。ノックの節はいつもの奴だ。
「開いています」
ドアが開き、礼装ではなく緩い上衣姿のルシアンが入ってきた。
手にはあの『マダム・ローズ』の最新号と、包み紙に乱暴に巻かれた唐揚げの袋。
「……ユリウスの目を盗んで厨房に忍び込んできたのですか」
「違う。アリスが差し入れてくれたんだ。……君の分も」
彼は俺の傍らに腰を下ろし、唐揚げをひとつ俺に押しつけた。
指先に、まだ治りきらない先日の傷痕が残っている。
俺はそれを受け取り、黙って口に入れた。
「そのローズ夫人の最新号は?」
「ああ、今朝アリスが届けてくれたんだ。……最近、あいつと趣味が合うってわかって、割と気が楽になった。同人誌の話ができる相手が王宮にいるとは思わなかったよ」
ルシアンは上機嫌にページを捲り始めた。
俺は剣を磨きながら、その横顔を横目で見た。
アリスが「差し入れ」として最新号を届けてくる。本人が書いた本を、よりによって本人が。
……気づいていないのは、当人だけだ。
事の発端は地下安置所まで遡る。
あの夜、アリスは「シナリオの変異」という言葉を口にした。プレイヤーがゲームを語る時に使う種類の言葉だ。そして、あの場で感じた「掃除屋」の気配——完璧に制御された殺気の霧散。あれは、観察眼と実力を兼ね備えた者の仕業だった。
その後のアリスの動きを繋げれば、答えは自ずと出る。
この王宮で、俺たちの一挙一動を最も近くで観察し続けている人物。そして「マダム・ローズ」の筆致が、最新号になるにつれて、この宮廷の空気を精密に反映するようになっていったこと。
しかし、これをルシアンに言う必要はない、と俺は判断していた。
知ったところで、あの衝動的な馬鹿はすぐにアリスへ詰め寄りに行く。それは得策ではない。
「……カイル、ちょっと待ってくれ」
ルシアンがページをめくる手を止めた。
「この場面、なんかおかしい」
声のトーンが変わった。
「辺境育ちの騎士が、傲慢な王子に唐揚げを渡されて困ってる場面なんだが……」
ルシアンはゆっくりと顔を上げ、俺を見た。
次に、手元の唐揚げの袋を見た。
次に、俺の手にある唐揚げを見た。
「……」
「……」
「カイル」
「はい」
「この本、今朝届いたばかりだよな」
「そうですね」
「俺たちが唐揚げを食べてるのは……今だよな」
「そうですね」
ルシアンの瞳が、急速に見開かれていく。
「……ちょっと待ってくれ。もう一回読む」
彼は震える手でページを逆から辿り始めた。
五ページ。十ページ。
やがて表紙近くまで戻り、がくりと動きを止めた。
「……この回廊の場面。俺とカイルが揉めてるやつ」
「……この庭園の場面。カイルがセインと剣を交えて、俺が後ろで震えてたやつ」
「……この祭壇の場面……聖火の……」
ルシアンの顔色が、みるみると蒼白になった。
「あいつ……俺たちを材料にして書いてやがる……」
呟きは掠れていた。
それから一拍置いて、爆発した。
「あいつ、俺たちを材料にして書いてやがる!!」
「殿下、声が大きい」
「カイル! これ全部! 回廊の全部! 庭園の全部!! 書いてやがった!!」
彼は立ち上がりかけ、唐揚げを床に落とし、悲鳴を上げた。
俺は静かに唐揚げを拾い上げ、手巾で包んで卓上に置いた。
「……俺は前から知っていましたよ」
ルシアンが固まった。
「な……なんで言ってくれなかったんだ!!」
「確信が持てていなかったので。……ですが今回の最新号で、確定しました」
「確定して嬉しいか!?」
「いいえ。ただ、やっぱりそうだったかと思っただけです」
ルシアンは憤怒と恥辱と少しの複雑な感情が入り混じった顔で、俺を見た。
「……君は……君だって、あの本の中に出てくるんだぞ。格好よく書かれてるんだぞ。恥ずかしくないのか?」
「俺は読んでいませんから」
「読んでないって……っ」
彼は言葉に詰まり、赤くなった耳を手で覆った。
しばらく沈黙。それから、ルシアンは立ち上がった。
「……アリスに直接聞きに行く」
「やめてください」
「なんでだ! あいつは俺の感情生活を無断で——」
「殿下」
俺は静かに遮った。
「アリス嬢が自分から名乗り出ていない以上、認めない理由があるのでしょう。今そこへ踏み込んでも、向こうが素直に話すとは思えません。……それに」
俺は一拍置いた。
「今の殿下の顔では、外交どころか喧嘩にしかなりません」
「……っ」
「怒りが収まってから、本の話をしながら様子を見るのが最善です。急いで得るものは何もありません」
ルシアンは悔しそうに唇を噛み、ソファに叩きつけるように座り直した。
「……腹立つ」
「それはそうでしょう」
「君は腹立たないのか」
俺は答えなかった。
腹が立つかどうかより、気になることがある。
アリスがこの王宮の一挙一動を記録し続けているとして——それは単なる「趣味」なのか。
あるいは、何か別の目的のために、この物語の記録を残そうとしているのか。
「……なあ、カイル」
ルシアンが、今度は静かな声で言った。
「もしアリスが……俺みたいに、外から来た人間だとしたら。あいつは敵なのか、味方なのか」
「今は分かりません」
俺は正直に答えた。
「ただ、祭壇でユリウスの魔力を遮断したのは事実です。今のところ、殿下を害する行動は取っていない」
「様子を見ろ、ってことか」
「俺はそうします」
ルシアンは床に落ちた本を拾い上げ、表紙をじっと見つめた。
それから、ばつが悪そうに呟いた。
「……続きが気になるのは、どうすればいいんだ」
「……読まなければいいだけです」
「そんなの無理に決まってるだろ」
俺は何も言わなかった。
剣の柄を握り直し、窓の外の空を見る。
台本のない舞台で生きる俺たちを、誰かが書き続けている。
その「誰か」が何を見ているのか、何を記録しようとしているのか——まだ、分からない。
ただ一つだけ確かなのは、この王宮で台本を「知っている」人間が、俺たちだけではないということだ。
そして最も危険な観客は——まだ、その手を見せていない。




