第二十六話 台本なき舞台の残響
寝所の中は、濃厚な薬草の香りと鉄錆のような血の匂いが混じり合っていた。
俺はベッドに横たわり、薬効が引き始めた五臓六腑の鈍い痛みを感じていた。
セインは影の中に座り、手慣れた様子で手術刀を拭っている。
その眼差しは、たった今仕事を終えたばかりの暗殺者のように冷淡だ。
「あの薬の効き目はどうだった?」
セインは顔を上げずに口を開いた。
「血はそれなりに吐くが、少なくとも君のそのお節介な命を繋ぎ止める役目だけは果たしたようだね」
「……ああ、助かった」
俺は枯れた声で応えた。
「それで、ルシアンは?」
「隣の書房で、我らが聖女様と、そして憤死寸前のシルヴェスター様とお話し中だよ」
セインの口角が皮肉げに吊り上がる。
「君がぶちまけたあの血溜まりのせいで、教会は今、拭いきれない汚名を被っている。聖火が『人を傷つけた』なんて、歴史上初めてのことだからね。ユリウス様は今頃、この『奇跡』を説明するために数万文字の報告書を書かされているはずだよ」
俺は目を閉じ、聖火が消える直前の一瞬を思い返した。
あの日、俺は確かに「違和感」を感じていた。
俺の血が火盆に散った時、聖火は審判を下すことも、介入を拒絶することもなかった。
あの数秒間、俺はまるで「虚無」に足を踏み入れたような感覚に陥ったのだ。
戦場で振り下ろした剣が、突然重さを失うような。
あるいは、当たり前にあるはずの引力が消失するような。
それは単なる魔法の失敗ではなく、もっと根源的で、毛のよだつような「混乱」だった。
数千年もの間、法則に従って動いていたあの祭壇が、あの瞬間、目の前の状況をどう処理すべきか「忘れてしまった」かのように。
廊下から急ぎ足が聞こえ、扉が勢いよく撥ね飛ばされた。
ルシアンがよろめきながら飛び込んでくる。
豪華な礼服には俺の血がこびりつき、金髪は乱れ、目元は真っ赤だ。
俺が目を開けているのを見た瞬間、彼は糸が切れたようにベッドの脇へ膝を突いた。
「カイル……君、生きてるんだな……」
震える手が、俺の肩に触れようとして、痛みを恐れるように止まった。
「この馬鹿! 演技だって言ったのに、なんであんなに血を吐くんだよ! 本当にあのまま、火の中に消えてしまうかと思ったじゃないか!」
「……これがプロですよ、殿下」
俺は身体を起こし、泣きじゃくる主君を見つめた。
「血でも吐かなければ、シルヴェスター殿下もユリウスも引き下がらなかったでしょう」
ルシアンは鼻をすすり、顔を拭った。
だがその瞳は、次第に凪のように静まり返っていく。
「カイル。さっき、広間で兄上に怒鳴り散らされたよ。これは全部俺が仕組んだ陰謀だって。ユリウス様も、俺の魂にはやはり欠陥があるんだって、あの目で睨んできた」
彼は俯き、無傷の自分の掌を見つめながら、恐ろしいほど冷静な口調で続けた。
「でもね。その瞬間、急に怖くなくなったんだ。俺は二人に言ってやったよ。『もし本当に神が俺に罪を問うなら、なぜ火は俺ではなく騎士を焼いたんだ?』『もし教会が聖火すら制御できないのなら、不潔なのは一体どっちなんだ?』ってね」
ルシアンが顔を上げた。
その紫色の瞳から、「台本」への恐怖が、一滴、また一滴と消えていくのが見えた。
「気づいたんだよ、カイル。あいつらが書いた台詞通りに喋るのをやめれば、あいつらだって慌てるし、間違える。……この世界は、台本通りに歩かなきゃいけない場所なんかじゃなかったんだ」
その顔を見て、俺は悟った。
何かが、決定的に変わったのだ。
あの聖火の儀式は「潔白」も「汚穢」も結論づけなかったが、世界の法則に細かな亀裂を残した。
「モブ」と「悪役」というこの奇妙な組み合わせを、運命ですらどう処理すべきか見失ったのだ。
「殿下」
「なんだい?」
「台本がなくなった以上、これからの俺たちは、少しばかり騒がしく動くことになりそうですよ」
ルシアンは一瞬呆然とし、そして自嘲気味ながらも力強い笑みを浮かべた。
「……いいさ、騒がしくやろう。どっちみち、大人しく死んでやるつもりなんて、毛頭ないからな」




