第二十四話 唯一の不確定要素(イレギュラー)
大祭壇へ向かう馬車の中、空気は凝固したように重苦しかった。
ルシアンは過剰な純白の礼装に身を包み、両手で膝を強く掴んでいた。
顔色は紙のように白く、馬車が砂利道を踏み越える振動に合わせ、身体も微かに震えている。
俺は向かい側に座り、窓の外に迫る後山の祭壇を眺めていた。
脳裏には、この数日間で感じた違和感が浮かんでは消える。
「殿下」
「うわあぁっ! つ、着いたのか!?」
ルシアンは跳ねるように驚き、俺だと分かると胸を押さえて荒い息を吐いた。
「カイル、驚かさないでくれ……。俺の心臓は今、クレープより薄くて脆いんだ」
「まだです。ですが、一つ伺いたいことが」
俺は真剣な眼差しを向けた。
「殿下は常にアリス様を『主人公』、シルヴェスター殿下やユリウス、セインを『攻略対象』と呼んでいます。もし殿下の言う通り、本来のルシアンが狩猟祭で脱落していたなら――今日のこの儀式、本来は誰がここに立っていたはずなのですか?」
ルシアンは呆然とし、すぐに答えた。
「それは……兄上だよ。第一継承者だし、彼の婚約は国家の重要事項だ……」
「では、元の台本でアリス様が彼を選ばなかったとしても、この儀式は行われたのですか?」
「……ああ」
ルシアンは眉を寄せ、記憶を辿る。
「これはどのルートでも起こる大イベントだ。アリス様は聖女として、この洗礼を執り行う。……今、この瞬間のようにな」
「ならば、問題です」
俺は淡々と分析した。
「もしアリス様がシルヴェスター殿下を『選んでいない』のに、この儀式が必要だとするなら……。本来、彼は誰と婚約し、誰をこの場で葬るつもりだったのですか?」
ルシアンの表情が緊張から驚愕へ変わる。
彼は明らかに、この視点から考えたことがなかった。
俺は狼狽える彼を見て、これ以上の追及は無意味だと悟った。
世界の底流にあるロジックをすべて理解する必要はない。
ただ一つ言えるのは、「本来死ぬはずの邪魔者」が生き残り、「手に入るはずの獲物」が逃げた。
……それは、いかなる捕食者をも狂わせるに十分な理由だということだ。
「分からないなら、考えなくていい。元の結末がどうあれ、手を出してくるなら俺が片付ける」
俺は剣の柄を握り、馬車が止まるのを感じて外へ踏み出した。
迎えてきた山風には、鼻を突く硫磺の臭いが混じっている。
俺は呆然としているルシアンに手を差し出し、耳元で低く囁いた。
「行きましょう、殿下。……かき回されたあの連中の芝居が、どんな幕引きを用意しているのか、見物です」
灰黒色の古びた岩が積み上げられた、氷のような輪郭の祭壇。
十二本の巨柱がそれを取り囲んでいる。
立ち込める霧が、柱に刻まれた神聖文字を蠢く虫のように見せていた。
祭壇の下には王室近衛騎士が並び、高所の観覧席には、シルヴェスターが豪華な椅子に座って金杯を弄んでいる。
そして祭壇の中央。
ユリウスは最も豪奢な金色の法衣を纏い、その反対側にはアリス嬢が立っていた。
聖女としての彼女は、魔石を嵌め込んだ杖を手にし、見知らぬ誰かのように厳粛な表情を浮かべている。
背後にはセインが控えていた。
完璧な従者の姿勢。
だが俺と目が合った瞬間、彼は手背を指先で叩いた。――昨夜交わした合図だ。「何かあれば、俺がアリスを確保する」という。
俺たちは祭壇へ登った。
アリスの横を通り過ぎる際、いつものような戯れや暗示があるかと期待したが、彼女は火盆を凝視したまま微動だにしない。
その精緻な横顔は、恐ろしいほどの神聖さを放っていた。
今の彼女は同人誌を書く少女ではなく、権力の頂点に立つ聖女だ。
……彼女自身もまた、この火がすべてを焼き尽くす「衝撃のラストシーン」を望んでいるのではないか。
そんな疑念がよぎる。
「殿下、こちらへ」
ユリウスが恭しく一礼した。
火盆に近づくにつれ、そこから発せられる魔力の波動が異常に狂暴であることに気づく。
これは洗礼などではない。強引に圧縮された「爆薬」そのものだ。
ユリウスが歩み寄り、俺の剣に目を留めた。
「ヴァルツ騎士、ここは聖なる祭壇です。守護騎士は境界まで下がり、武器を置きなさい。聖火は殺気を帯びた鋼を許しません」
「俺の規律は一つだけだ」
俺は奴を冷たく射抜いた。
「殿下のいる場所が、俺のいる場所だ」
「面白い」
高所からシルヴェスターの冷笑が響いた。
「ユリウス殿。これほど忠義に厚い騎士だ、特別に彼も洗礼に立ち合わせようではないか。それも一種の『忠誠の試練』だ」
ユリウスの瞳に計算高い光が宿る。
「シルヴェスター殿下がそう仰るのであれば……。ルシアン殿下、もし貴方の魂が清らかでなければ、この聖火は守護騎士共々、貴方を呑み込むでしょうね」
ルシアンが顔を上げた。
彼はアリスを見たが、彼女は彫像のように黙したままだ。
「カイル」
ルシアンが俺の名を低く呼び――そして、最高に悪辣な「悪役王子」の笑みを浮かべた。
「司祭様がああ仰るんだ。ついてこい。俺様がどれほど『純潔』にこの火を渡りきるか、特等席で見せてやる」
ユリウスの詠唱と共に、聖力が火盆へ注ぎ込まれる。
アリスも杖を掲げ、冷然とその強大なエネルギーを誘導し始めた。
「――ゴォォォォォッ!!」
祭壇中央の聖火が爆裂し、純白の炎が天を衝いた。
その眩い光の中で、俺はユリウスの狂信者のような目と、シルヴェスターの金杯の中で揺れる血のような赤を見た。
誰もが、俺たちが灰になるのを待っている。
俺は剣の柄を握り込み、ルシアンの半歩前に立ちはだかった。
鋼すら溶かす高温の渦へ、俺は迷わず足を踏み出した。




