第二十三話 嵐の前の茶会と第一王子の親臨
昨日の「平手打ちと土下座」の芝居は、絶大な効果を発揮したようだ。
噂は翼を得たかのように一晩で王宮中を駆け巡った。
翌日の午後。王宮庭園の隠れた一角に、惜しみなく陽光が降り注いでいた。
本来なら穏やかな休息の時間のはずだが、その光景はどこか異様だ。
セインは傍らで、流れるような動作で紅茶を淹れている。
その完璧な所作は名門の高級執事そのもので、誰も彼が凄腕の暗殺者だとは思うまい。
アリス嬢は画板に向かい、ペン先を猛烈な勢いで走らせている。
何やら「禁忌の残影」とやらを書き留めようとしているらしい。
そしてルシアンは、吊り椅子に深く腰掛け、アリスが持参した最新の同人誌を複雑な表情で読み耽っていた。
時折、後ろめたそうに俺を盗み見てくる。
今日はユリウスの姿がない。
ようやく静かになったと思った矢先、庭園の小道から重く、規則正しい足音が響いてきた。
「――おやおや、取り込み中だったかな?」
シルヴェスター殿下の、圧力を孕んだ声。
ルシアンの手から本が飛びそうになる。
第一王子が直々に、手下を引き連れて現れた。
彼は周囲を見渡し、眉を僅かに跳ね上げた。
「ほう、ユリウス司祭がいないとは。教会とユリウス殿は、ルシアンを『熱烈に支持』しており、我が愛弟を王に推戴しようという風聞まで耳にしているが……。今の様を見るに、噂とは些か食い違うようだね?」
言葉の端々に、隠しきれない殺気が滲んでいる。
ルシアンは顔を真っ白にし、吊り椅子の中で縮こまって俺に助けを求めた。
「やはり来たか」と俺は内心で毒づく。
シルヴェスターが自ら動くということは、もう余裕がなくなっている証拠だ。
「シルヴェスター殿下、深読みが過ぎますわ」
アリスがペンを置き、淑女らしい、だが悪戯っぽい笑みを向けた。
「ユリウス様は昨日、ルシアン殿下にひどく気圧されまして。今は神殿で心を落ち着かせておいででしょう」
シルヴェスターは鼻で笑い、ルシアンを「欠陥品」でも見るかのような冷たい目で見下ろした。
「ならば、王家の厳格さを示すために一つ告げておこう。伝統に則り、婚約式の前に聖壇にて『聖火』の洗礼を受けてもらう。魂の純潔を証明するためにね。期日は二日後だ。ルシアン、アリス嬢、準備をしておきたまえ」
「聖火の洗礼?」
アリスが眉をひそめる。
「通常は王族のみが預かる儀式では?」
「本来はね」
シルヴェスターが口角を吊り上げる。
「だが君は当代の聖女だ。教会側も、君がユリウス司祭と共に今回の火の試練を執り行うことを望んでいる」
「それは光栄ですこと」
セインが毒を孕んだ無関心さで茶杯を置いた。
「ただ、その火が焼き払うのが不潔なものなのか、それとも『邪魔なもの』なのか、気になるところですが」
シルヴェスターの顔が瞬時に険しくなり、視線が刃となってセインを刺した。
「……暗部と通じていた雑魚が。アリス嬢の温情がなければ、貴様がここに立つ資格などないのだぞ」
彼は視線をルシアンへ戻し、重い警告を叩きつけた。
「二日後、大祭壇で待っている。……無駄な小細工は考えないことだ。さもなくば、聖火は欺瞞者を灰にするだろう」
シルヴェスターが去った後も、冷たい殺気の余韻が消えなかった。
ルシアンは吊り椅子にぐったりと沈み込み、同人誌が芝生に滑り落ちた。
「カイル……兄上は気づいてる。俺を、殺すつもりだ……」
「殺すつもり、ではありませんよ」
俺は本を拾い上げて彼に渡した。
「もう、刀を研ぎ終えたところでしょう」
アリスはノートに激しくインクの線を引いた。
「二日……」
彼女は鋭い眼差しで俺を見た。
「ヴァルツ騎士、特別な『道具』の準備が必要そうですわね。……私も、お気に入りの連載が打ち切りになるのは、お断りですもの」
自室に戻ると、ルシアンは靴も脱がずにソファに倒れ込み、天井を空虚に見つめた。
「カイル……あの儀式、思い出したよ」
彼の声は恐怖で籠もっている。
「元の『シナリオ』では、あの聖火の洗礼は巨大な罠だったんだ。何者かが聖火盆に細工をして、アリスが火に触れた瞬間に火傷を負わせる。彼女を不潔の烙印と共に聖女の座から引きずり下ろすための計画だ」
彼は飛び起き、狂ったように金髪を掻き乱した。
「でも今はもう、シナリオがめちゃくちゃなんだ! 本来なら俺はもう退場してるはずなのに、生きてる! ……兄上とユリウスは、この責任を全部俺に押し付けるつもりだ! 俺がアリスを逆恨みして罠を仕掛けたことにする。……結局、処刑エンドからは逃げられないんだろ!?」
不安に震えるその瞳。
かつての俺なら、こいつの被害妄想だと切り捨てていただろう。
だが、幾多の死線を越えてきた今、俺は認めざるを得ない。
この世界には、一つの落とし穴を避ければ、すぐさま次を用意する「見えざる手」があることを。
「殿下」
俺は彼の視線を遮るように前に立った。
「例えどんな運命があろうと、そいつは俺の許可を取っていません」
ルシアンは動きを止め、呆然と俺を見上げた。
「二日後の聖火に何が隠されていようと。あの儀式が貴方をどんな断罪へ引き込もうと……」
俺は彼の目を真っ直ぐに見据え、揺るぎない真理を告げる。
「言ったはずです。俺は貴方の剣だ。何が起きようと、俺が貴方を救い出す。貴方が運命から逃げられないというのなら、その運命ごと俺が叩き斬ってやりますよ」
ルシアンは目を見開き、潤んだ瞳を隠すように横を向いた。
「……またそういう、反則級のA級台詞を。君、これでモブ設定に戻れなかったら、絶対その台詞の出し方のせいだからな」
「お休みください、殿下。二日の間に、俺が策を練ります」
ようやく落ち着き、ベッドへ潜り込む主君を見送り、俺は窓の外を眺めた。
月光に照らされた神殿は、口を開けた巨大な獣のように冷たく聳え立っている。
「台本」に拘る奴らがいるなら、その舞台ごと、粉々にぶち壊してやるとしよう。




