第二十二話 回廊の寒気と攻略外の本心
夜の静寂に包まれた寝所の回廊は、石畳が放つ冷気が肌を刺すほど静まり返っていた。
俺は背筋を伸ばし、扉の前で跪き続けている。
午後の騒動は、聖潔な仮面を維持しきれず青ざめたユリウスの顔と共に幕を閉じた。
アリス嬢は聖女らしい「気遣い」を見せ、激昂する司祭を優雅に宥めて連れ出していったが、俺の横を通り過ぎる際、扇で口元を隠して神秘的な微笑を向けてきた。
『ヴァルツ騎士、ごちそうさまでしたわ』
……その含みのある一言に、思わず鳥肌が立った。
俺はその揶揄を無視し、廊下に死寂が戻るまで、ただ彫像のように門を守り続けた。
背後の扉が音もなく開き、隙間から乱れた金髪が覗く。
「……おい、カイル。もう誰もいないよ。みんな行った。……立ちなよ」
ルシアンが声を潜め、申し訳なさそうに俺を見ている。
「殿下。午後に命じられたはずです。朝まで跪いていろ、と」
俺は前方を見据えたまま、淡々と答えた。
「軍令は絶対です。騎士の膝は、命を果たさぬうちは上がりません」
「そ、それはあいつらに見せるための演技だろ!」
ルシアンは門の隙間に蹲り、悔しそうに俺を見た。
「今、俺が命令する。立て! 早く!」
「芝居なら、最後までやり遂げるべきです。今立ち上がったところを誰かに見られたり、明朝、元気いっぱいの俺をユリウスが見れば、殿下の『悪役キャラ』が台無しになりますよ」
「君って……本当に、火が出るほど石頭だよね」
ルシアンは毒づいたが、すぐにクスクスと小さく笑った。
「……でも、仕方ないか。俺、君のそういう強情なところ、好きだよ」
胸の奥が微かに揺れた。
……こいつは、番犬のように予測可能で裏切らない「忠誠」が気に入っているのだろう。
死の脅威に晒されている人間にとって、石頭のボディーガードほど安心できるものはない。
「殿下。夜が更けました、お休みください」
ルシアンは部屋に戻らず、躊躇いながら俺のそばへ寄ってくると、左頬をじっと見つめてきた。
「……なあ。午後の平手打ち、痛かったか?」
声を落とし、視線を泳がせる。
「俺……ちょっと、力入りすぎちゃったかな」
「殿下、あんなもの蚊に刺されたようなものです」
「うるさい! 俺様はあの時、完全に役に入り込んでいたんだからな!」
彼はふんと鼻を鳴らし、懐から小さな薬瓶を取り出して俺に投げた。
「ほら。明日の朝まで頬が赤いままじゃ、見栄えが悪いだろ」
薬瓶を受け取ると、彼の体温が残っていた。
「芝居なら、その傷こそが真実味を増す材料になりますが」
「いいから使え! これは『主人の褒美』だ、使わないなんて許さないぞ」
彼はぷいと横を向いたが、敷居に座り込んだまま動こうとしない。
闇に消える回廊の先を見つめ、声が儚く震えた。
「カイル。部屋でずっと考えていたんだ。……ユリウス様の言う通りにしていたら、俺、また『断罪ルート』に落ちていたと思う。あの優しさは、本当に恐ろしいよ。思考を止めるのが心地よくなって、抵抗を諦めさせてしまう。まるで……意識があるまま、自分が消されていくのを見ているみたいだった」
彼は向き直り、真剣に俺を見つめた。
月光が整った鼻筋を照らし、彼を普段より脆く見せている。
「もし……もし、また俺が誰かに惑わされたり、『歪んで』しまいそうになったら。今日みたいに、なりふり構わず助けに来てくれるかい? 例え教団を敵に回しても、この世界の『シナリオ』を敵に回しても」
月明かりの下で不安に揺れる、その瞳。
彼はようやく「完璧な人形」の幻覚から醒め、死を恐れて右往左往する、いつもの馬鹿殿下に戻ったのだ。
「……それが俺の仕事です、殿下。給料が出ている限り、俺の剣が主を間違えることはありません」
……まあ、いい。こいつがようやく「妄想体質」を取り戻したのなら。
「ちぇっ、君ってやつは少しは気の利いたことが言えないのかい?」
ルシアンは呆れたように肩をすくめたが、すぐに何かを思いついたようにニヤリと笑った。
「あ、そうだ。カイル、君が言った『一番汚れた剣』……。あ、あの台詞、最高にA級クオリティだよ! どこの小説で覚えたんだ? ローズ夫人の最新連載か?」
「……自前です」
俺は気まずく目を逸らした。
彼はまだ、あの「ローズ夫人」の正体が自分の婚約者だとは知らない。
俺はアリスの『ごちそうさまでした』という言葉を思い出し、目の前で同人誌の話題に花を咲かせるこの脳天気な殿下に、真実は一生伏せておこうと決めた。刺激が強すぎる。
話題を変えるため、俺は適当に問いを投げた。
「……それで。あの司祭様も、そのゲームの『攻略対象』の一人なのですか?」
「ええっ!?」
ルシアンは驚きのあまり敷居から転げ落ちそうになり、目を見開いて俺を見た。
「な、なんで知ってるんだ!? まさか君も……」
「こういう変な物語では、顔のいい奴は大抵役割があるものでしょう」
無意識にツッコミを入れてしまった。
……俺も奴のロジックに染まってきている。堕落だ。
「あー……まあ、ユリウスも攻略キャラだよ。彼のルート名は『聖潔なる監禁』……」
ルシアンは少し頬を染め、すぐにぶんぶんと首を振った。
「でも! あいつは全然俺の好みじゃない! ああいう支配欲の塊は怖すぎるよ。だからゲームの時も、彼のルートだけは一度も通らなかったんだ」
……好みではない、か。
なぜか胸のつかえが取れ、冷たい石畳に跪く膝の痛みすら和らいだ気がした。
だが、指折り数えて脅威を確認するルシアンを見て、改めてこいつの危なっかしさを実感する。
攻略対象とやらは、どいつもこいつも、こいつの命を脅かす厄介な存在ばかりらしい。
「殿下、もう寝てください。明日はまた、あの司祭様の相手をしなければならないのですから」
「あ、そうだね……。カイル、おやすみ。本当に辛くなったら、こっそり寝てもいいよ。俺が見張っててあげるから」
扉が静かに閉まり、細い隙間だけが残された。
俺は門の外で、衣擦れの音と、次第に安定していく彼の呼吸を聞きながら、無意識に剣の柄に手をかけた。
……こいつが、その命を俺という「汚れた剣」に預けたというのなら。
第一王子の殺意だろうが、司祭の監禁だろうが、こいつが「騒がしく生きる」ことを邪魔するシナリオは、すべてまとめて叩き斬ってやる。
例えそれが、モブであるはずの俺を、この物語で最も悪名高き「イレギュラー」に変えるとしてもだ。




