第十四話 腹に一物の旅立ち
黒い森へ向かう馬車は、四頭の白馬に曳かれた華美なものだった。
車内には優雅さを保とうと必死だが掌に汗をかいているルシアン殿下と、インスピレーションを捕らえようと興奮を隠せないアリス嬢。
俺とセインは、それぞれ馬に跨り、後方の護衛に就いていた。
「ヴァルツ騎士。その馬の扱い……騎士というより、いつでも逃げ出せる準備をしている盗賊のようですね」
セインは毛並みの良い黒馬に跨り、絵画から抜け出してきたような優雅な姿勢を保っていた。
冷徹な横顔を夜露のような黒髪が掠めるが、吐き出される言葉は猛毒そのものだ。
「辺境じゃ、見た目の美しさより生き残ることの方が重要でね。……それよりセインさん、そんな窮屈そうな執事服を着ていて、いざという時に股布が裂けたりしませんか?」
「……ふん、野蛮な。殿下の審美眼には失望せざるを得ませんね。このような美意識の欠片もない随従を選ぶとは」
こいつは城門を出てからというもの、口を開けば毒が溢れ出す。
一言一言が、正確に「剣を抜きたくなる一線」を叩いてきやがる。
アリス嬢の言う「寡黙」という言葉の定義は、世間一般とは著しく乖離しているらしい。
「その『寡黙』な口を閉じないと、お前の馬が突然泥溝に放り出さないか保証できないぞ」
「ふふ、退屈な脅しですね。ですが、貴方らしい。……ヴァルツ騎士」
その時、馬車の窓が勢いよく開いた。
金髪のルシアンが顔を出し、焦燥と不満を露わにする。
「セイン! カイルとばかり喋るな! 俺の騎士なんだぞ!」
ルシアンは黒髪の執事に怒鳴り、次に俺を見て、少し拗ねたような声を出す。
「カイル! 君もだ! こいつの言うことなんて聞くな、性格悪いんだから。もっと俺を見てろよ、今日は新しいマントをおろしたんだぞ……」
「殿下、中にお戻りください。外は危険です」
「嫌だ! 君がこいつに誘惑されないって約束するまでは戻らない!」
馬車の中からアリス嬢の鈴を転がすような笑い声が聞こえてきた。
「あらあら、殿下。これがいわゆる『主従間の独占欲』というやつかしら? 実に素晴らしいわ。……セイン、あまりヴァルツ騎士をいじめないであげて。貴方が『強靭な好敵手』に興味があるのは分かっているけれど」
セインの目尻がぴくりと動いた。
彼は答えず、ただ手綱を握る力を強め、俺との距離を僅かに開けた。
俺が感じるセインの敵意は、単なる性格の不一致ではない。
「同類の捕食者」を見つけた時の値踏みだ。
その優雅な毒舌は、一種の防衛本能に近い。
そしてルシアン。
彼はその危険に全く気づいていない。
ただ純粋に、信頼する「カイル」が、自分より主人公らしい顔をした「セイン」に挑発されていることに、居ても立ってもいられないようだ。
街道を外れ、森の深部へと続く荒れた林道に入ると、空気は一変した。
両脇の木々は歪に巨大化し、繁茂した枝葉が陽光を完全に遮っている。
土の匂いに混じる、植物の腐敗したような、それでいて甘ったるい香り。
黒い森特有の魔力の残滓だ。
「ヴァルツ騎士。そのように硬直した手綱捌きでは、三十分もしないうちに手首が逝ってしまいますよ。……貴方の薄っぺらな給料のように、脆く」
セインは黒馬の上で、路面の凹凸など存在しないかのように平然としていた。
「ご心配なく。俺の手首より、セインさんのその口を心配した方がいい。魔物に襲われた時、毒舌で説得でもするつもりか?」
「ふふ。魔物に最低限の審美眼があれば、貴方のその安物の防具を見ただけで、食欲を無くして貴方から襲うでしょうね」
その時。
前方から偵察していた第一皇子直属の先遣騎士が、突如として馬を止めた。
――ピィィッ!!
鋭く短い笛の音が、森の静寂を切り裂く。「敵襲」の合図だ。
「……ちっ。どうやら魔物たちも貴方のセンスに耐えかねて、掃除に出てきたようです」
セインの嘲るような表情が、一瞬で凍りついた。
彼が腰の隠しポケットに手を伸ばした瞬間、その場から「優雅な執事」の気配が消失し、代わりに鞘から抜かれた利刃のような殺気が立ち昇った。
馬車の中でルシアンも異変を察知した。
窓を跳ね上げ、真っ青な顔を出す。
「カ、カイル! 何が起きたんだ? ゲームの『エンカウント』か? こんな場所で出るはずじゃ……」
「殿下、下がれ!」
俺は短く怒鳴り、右手を剣の柄にかけた。
「アリス嬢、殿下をお願いします!」
「ヴァルツ騎士、ご心配なく」
馬車の中から、アリス嬢の驚くほど冷静な声が聞こえてくる。
紙を捲るカサカサという音さえ混じっていた。
「この『運命の初戦』、楽しみにさせていただくわ」
前方から、木々をなぎ倒す鈍い衝撃音と、戦馬の悲鳴が聞こえてきた。
「フォレスト・スパイダーだ」
揺れる樹冠を見て、俺は獲物を特定した。
黒い森の外縁で最も厄介な捕食者。
地上ではなく、高所からダイブしてくる連中だ。
「三匹……いや、四匹」
セインが低く数え上げる。
彼の指の間には、いつの間にか幽光を放つ三本の鋼針が挟まれていた。
彼は俺をちらりと見やり、危険な弧を口元に描く。
「ヴァルツ騎士。その薪割り用のなまくらで殻付きの獣に挑むつもりなら、今すぐ祈り始めることをお勧めしますよ」
「自分の方こそ、足元を掬われるなよ」
俺は馬の腹を蹴り、弾かれたように馬車の後方へと跳躍した。
ほぼ同時に、俺がいた場所を、腐臭を放つ黒い影が掠めていく。
蜘蛛の剛毛に覆われた鋭い脚だ。
――ギィィンッ!
硬質な金属音が響く。
セインが振り返りもせずに放った鋼針が、馬車の天蓋を狙った別の蜘蛛の複眼を正確に貫いていた。
「おや、意外と動けるようですね」
セインは優雅に下馬すると、黒い執事服を翻して空中で冷たい弧を描いた。
古い剣を抜いた俺を見つめ、毒舌は健在だ。
「……ですが、その姿勢、やはり美しくない」
戦闘は、この瞬間に爆発した。




