第十三話 いわゆる「シナリオ」と危險な執事
出発の朝。
黒い森への恐怖から立ち直れないルシアン殿下をよそに、寝宮に同行予定の公爵令嬢アリスが姿を現した。
今日のアリスは軽快な外出ドレスを纏っていたが、背後の従者が抱えるのは重そうな包装された書物の束。
「殿下、出発前に親睦を深めたいと思いまして。私の秘蔵コレクションを、ご挨拶代わりに持参いたしましたわ」
アリスは優雅に腰を下ろし、従者に命じて書物を差し出させた。
「秘蔵……? こ、これは?」
戦々恐々だったルシアンが表紙を見た途端、瞳を皿のように見開き、震える手でページを捲った。
「こ、これは……俺が愛してやまない『マダム・ローズ』の作品じゃないか!」
ルシアンは魂の友に出会ったかのように、先ほどの恐怖を霧散させた。
「ここの描写なんて……まるで未来を予知しているような緊迫感があって……!」
「やはり『同好の士』でしたのね」
アリスは扇で口元を隠し、満面の笑みを浮かべた。
「私もこの作家の描く『台本』は実に見事だと思っておりますの。次にどのような演じ方がなされるのか、興味が尽きませんわ」
俺は大衆小説を囲んで異様な熱気で語り合う二人を眺めながら、呆れるしかなかった。
ルシアンは世界を「ゲーム」と言い、アリスは「台本」と呼ぶ。
……まさか、この令嬢も殿下の言う「転生者」なのか?
会話はますます常軌を逸していく。「宿命の計らい」「魂の絆」……。
アリスは助言を与える前輩のように振る舞うが、殿下を見る目は心配というより「素材」を観察しているようだ。
時折、俺へも視線が這うように向けられる。
だが、二人の阿呆な会話より気に食わないのは、アリスの背後に立つ従者だ。
極めて整った容姿の青年。漆黒の短髪に透き通る白い肌。芸術品のような顔立ちだが、細長い切れ長の瞳には人を寄せ付けない冷徹さが宿る。
姿勢を崩さず、表情も出さない。
王宮の美男美女の中でも、この執事の美しさは「作為的」で、不吉な気配すら漂わせていた。
肌に刺さる不快感。抑え込まれた気配、周囲を密かに舐める視線……。
直感が告げる。こいつはただの執事ではない。あの夜の地下安置所で感じた氷のような殺気と同じものが、彼から滲み出ている。
「ヴァルツ騎士、私の執事に興味がおありかしら?」
アリスが何気なく口を開いた。
「セインといいますの。最近登用したばかりですが、今回の黒い森にも同行させますわ。寡黙ですが腕は確かですので、お二人の助けになればよろしいのですけれど」
セインと呼ばれた男が顔を上げた。
深い色の瞳が俺の視線と冷淡にぶつかり、すぐに伏せられた。
従者としての卑屈さなど微塵もなく、むしろ獲物の強度を推し量る色があった。
「……これほど優秀な従者がお側におられるのであれば、お嬢様も心強いことでしょう」
俺は平坦に応じたが、内心では最大限の警戒を敷いた。
「ええ、そうですわ」
アリスは再びルシアンに向き直り、興奮気味に本の一節を指差した。
「殿下、ご覧になって。ここの、主人公たちが森に入って最初に訪れる試練の場面……」
「そうそう! 覚えてるぞ、ここは確か……!」
小説に狂う殿下。実力を隠し持つ執事。優雅な皮を被った底の知れない令嬢。
どうやら黒い森の旅は、想像以上に混沌としたものになりそうだ。
「殿下。その『台本』の検討が終わりましたら、荷物の点検に移りますよ」
俺は耐えきれず、不毛な会話を遮った。
「ああ、カイル! 催促するなよ、この『禁断の園』は本当に名作なんだから……」
抗議を無視して、俺は殿下をソファから強引に引き剥がした。
小説に何が書かれていようが、俺の任務は一つだけだ。
トラブルが起きる前に、この馬鹿を無事に連れ帰る。それだけだ。




