第12話「決別と精霊の怒り」
リリアーナが一歩前へ踏み出した瞬間、風が止んだ。
広場を包んでいた冷たい緊張感が、微かに形を変える。
エレナが驚いたように息を呑み、アレクセイが振り返って彼女を制しようと手を伸ばした。
しかし、リリアーナはアレクセイの大きな手を両手でそっと包み込み、ゆっくりと首を横に振った。
彼女の指先は氷のように冷たく震えていたが、その瞳にはかつてないほどの強い光が宿っている。
「リリアーナ、下がるんだ」
アレクセイの低い声には、彼女を危険な目に遭わせたくないという切実な響きがあった。
「いいえ。私が、話します」
リリアーナはアレクセイの手を離し、王都の使者たちと真っ向から向かい合った。
彼女の小柄な身体は、重厚な鎧を着込んだ騎士たちに比べれば、風に吹き飛ばされそうなほどか細い。
しかし、その背筋は真っ直ぐに伸び、視線は馬上の使者をはっきりと捉えていた。
「王都へは、戻りません」
澄んだ声が、静まり返った広場に響き渡る。
それは決して大きな声ではなかったが、そこには揺るぎない決意が込められていた。
「何を馬鹿なことを。お前の意志など関係ない。王太子の命令が絶対だ」
使者が顔を歪め、忌々しそうに吐き捨てる。
「関係あります」
リリアーナは一歩も引かず、言葉を重ねた。
「私は侯爵家を追放され、この土地へ来ました。ここでは、誰も私を無能だと罵りません。私の作った料理を美味しいと言って、笑ってくれます。冷たい石の床で震える夜もありません。ここは私の大切な場所です。私の、本当の家です」
胸の奥から湧き上がる言葉が、とめどなく口からあふれ出る。
言葉にするたびに、足元の土から、風に揺れる麦の穂から、そして背後に立つ家族の温もりから、無限の力が彼女の身体へと流れ込んでくるようだった。
「エドワード殿下にお伝えください。私はもう、王都の道具にはなりません。この辺境の地で、この方々と共に生きていきます」
完全に過去の呪縛を断ち切った、決別の宣言だった。
使者の顔が屈辱と怒りで赤く染まり、ついに理性をつなぎとめていた糸が切れた。
「ええい、小娘が図に乗りおって。力ずくで捕縛しろ。手足を折っても構わん」
使者の怒号とともに、王都の騎士たちが殺意をむき出しにして一斉に飛びかかってきた。
アレクセイが大剣を振り上げ、ガウェインが前に出ようとしたその瞬間。
リリアーナの周囲を飛んでいたルークが、急激にその大きさを膨張させた。
小さな光の玉だった精霊が、目を開けていられないほどの強烈な黄金色の光を放ち、広場全体を真昼のように照らし出す。
それと同時に、畑の土から、森の木々から、そして空の彼方から、無数の光の玉が滝のように降り注いできたのだ。
青、緑、赤、白。
あらゆる色彩の精霊たちが、リリアーナを守るように彼女の周囲に厚い光の壁を作り上げる。
「な、なんだこれは」
突如として現れた圧倒的な超常の現象に、王都の騎士たちの足が完全に止まった。
精霊たちは怒り狂っていた。
自分たちが心から愛し、その温かな力に寄り添ってきた少女を傷つけようとする愚か者たちへの、純粋な怒り。
ルークが上空へ舞い上がると、広場に突風が巻き起こった。
その風は刃のように鋭く、しかしリリアーナや辺境伯一家にはそよ風ほどの優しさしか向けない。
王都の騎士たちだけを正確に捉え、彼らの鎧をきしませ、持っていた剣を弾き飛ばしていく。
馬上の使者も突風に煽られ、悲鳴を上げながら地面に転げ落ちた。
「ひぃっ、化け物め」
使者は泥だらけになりながら後ずさり、這うようにして馬にしがみつこうとする。
騎士たちも未知の力への恐怖に顔を引きつらせ、武器を捨てて逃げ惑う。
彼らの目に映るリリアーナは、無数の精霊を従える神々しい存在そのものだった。
先ほどまでの傲慢な態度は跡形もなく消え去り、彼らは我先に馬へよじ登ると、来た時よりもはるかに早い速度で広場から逃げ出していった。
彼らが巻き上げた砂埃が風に流され、やがて馬蹄の音も遠くの空へと消えていく。
広場に再び静寂が戻った。
精霊たちも怒りを収め、元の小さな光の玉に戻ってリリアーナの周囲を優しく漂っている。
リリアーナは全身の力が抜け、ふらりとその場に座り込みそうになった。
極度の緊張が解け、視界がぐらりと揺れる。
しかし、冷たい石畳に身体が触れるより早く、太く力強い腕が彼女をしっかりと抱き止めた。
アレクセイだった。
彼は大剣を放り出し、両膝をついてリリアーナをきつく、壊れ物を扱うようにそっと抱きしめている。
「よく言った。よく、俺たちを選んでくれた」
耳元で囁くアレクセイの声は微かに震え、彼の顔がリリアーナの肩口に押し当てられていた。
彼の分厚い胸板から伝わる心音は、とても早く、熱かった。
リリアーナはゆっくりと腕を回し、アレクセイの広い背中にしがみつく。
「私、もうどこにも行きません。ずっと、ここにいたいです」
堰を切ったように涙が溢れ出し、彼女は声を出して泣いた。
それは恐怖の涙ではなく、本当の意味で自由と安息を手に入れた、魂からの解放の涙だった。
ガウェインとエレナも静かに近づき、二人の肩を優しく抱きしめる。
朝の澄んだ光が、寄り添い合う家族の姿を温かく照らし出していた。
過去の呪縛は完全に断ち切られ、リリアーナの心には、辺境の豊かな大地のように深く力強い命の根が張られていた。




