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追放令嬢の辺境スローライフ〜精霊に愛された手料理で大地を豊かにしたら、無愛想な次期辺境伯の胃袋を掴んで激しく溺愛中!〜  作者: 黒崎隼人


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第10話「砂埃と王都からの使者」

 朝霧がまだ森の木々に絡みついている時間帯、リリアーナは厨房で小麦粉を練っていた。

 指先に絡みつく柔らかな生地の感触は、冷えた朝の空気にわずかな温もりを与えてくれる。

 両手のひらで包み込むようにして体重をかけ、なめらかな球体に整えていく。

 かまどの中でぱちぱちとはぜる薪の音が、静かな空間に心地よいリズムを刻んでいた。

 横では大鍋がふつふつと音を立て、裏庭で採れたばかりの根菜と豆のスープが湯気を上げている。

 素朴だが力強い土の香りと、香草の爽やかな匂いが混ざり合い、厨房を満たしていた。

 リリアーナは手を拭い、小窓から外を覗き込む。

 灰色の雲が薄れ、雲の切れ間から差し込む朝日が、黄金色に実った麦の穂をきらきらと照らし出していた。

 かつての荒涼とした風景は嘘のように消え去り、今や見渡す限りの豊かな緑と実りが広がっている。

 ルークが彼女の肩にふわりと舞い降り、微かに温かい光を放ちながら頬にすり寄ってきた。

 穏やかで、何の脅威もない日常。

 この温かな時間が、いつまでも続くのだと彼女は信じていた。

 しかし、その静寂は不意に破られた。

 遠くから、いくつもの馬の蹄が固い土を蹴り上げる鈍い音が響いてきたのだ。

 地響きのように重く、規則的なその音は、明らかにいつもの領地の見回りとは違う。

 リリアーナは胸の奥に冷たいものが落ちるのを感じ、無意識にエプロンの裾をきつく握りしめた。

 馬のいななきと、鎧の金属板が擦れ合う鋭い音が、屋敷の正面にある広場から聞こえてくる。

 外の様子を見るために、彼女はゆっくりと厨房の裏口を開け、屋敷の正面へと通じる石畳の通路を進んだ。

 冷たい風が吹き抜け、彼女の亜麻色の髪を激しく揺らす。

 広場に出ると、そこには見慣れない集団が整列していた。

 白を基調とし、金糸で豪華な刺繍が施された外套を羽織る騎士たち。

 彼らの中心には、立派な黒馬にまたがり、高慢な視線で屋敷を見下ろす男の姿があった。

 胸元には、王都の紋章である双頭の鷲が銀色に輝いている。

 王都からの使者だった。

 その紋章を見た瞬間、リリアーナの視界がぐらりと揺れた。

 冷たい汗が背筋を伝い、心臓が早鐘のように鳴り始める。

 息を吸おうとしても、喉が固く閉ざされて空気が入ってこない。

 王都の人間が、なぜこの最果ての辺境にやって来たのか。

 理由は一つしか考えられなかった。


「出迎えもないとは、辺境の蛮族は礼儀すら知らぬと見える」


 馬上から響く使者の声は、金属を擦り合わせたように冷たく、感情の起伏が全く感じられなかった。

 男は周囲の豊かな畑や、色鮮やかに咲き誇る花々を一瞥したが、その瞳には驚きも喜びも浮かばない。

 ただ、忌々しいものでも見るかのように眉間にしわを寄せていた。

 屋敷の重い扉が内側から開かれ、ガウェインとアレクセイが姿を現した。

 二人とも普段の軽装のままであり、客人に対するへりくだった態度は一切見せない。

 ガウェインは腕を組み、鋭い視線で使者たちを睨み据えた。


「何の用だ。王都からわざわざ砂埃を被りに来たわけではあるまい」


 ガウェインの低く重い声が、広場の空気を震わせる。

 使者は鼻で笑い、懐から封蝋の施された羊皮紙を取り出した。

 蝋には、王太子の証である剣と薔薇の刻印が押されている。


「王太子エドワード殿下からの勅命である。リリアーナ・エヴァンス嬢を、即刻王都へ連れ帰るようにとのことだ」


 その言葉は、冷たい刃となってリリアーナの胸に深々と突き刺さった。

 連れ帰る。

 あの、冷たく暗い、誰も自分を愛してくれなかった場所へ。

 エドワードの氷のような視線と、シルビアの歪んだ笑顔が脳裏にフラッシュバックする。


『何もできない無能なお前は、次期王妃にはふさわしくない』


 かつて突きつけられた言葉が、耳の奥で何度も反響した。

 膝から力が抜け、リリアーナはその場にへたり込みそうになる。

 視界が暗く歪み、周囲の音が水中にいるようにくぐもって聞こえ始めた。


「……断る」


 静寂を切り裂いたのは、アレクセイの声だった。

 彼はゆっくりと階段を下り、使者たちの前に立ちはだかる。

 その背中は岩山のように大きく、決して揺るがない。

 アレクセイの体から発せられる凄まじい威圧感に、使者の乗る黒馬が怯えていななき、数歩後ずさった。


「断るだと? 王太子の勅命に逆らう気か。辺境伯風情が、思い上がるな」


 使者の顔が怒りで赤黒く染まり、馬の首を強引に引き寄せる。


「リリアーナは、このヴォルツ家の家族だ。誰の命令であろうと、引き渡すつもりはない」


 アレクセイの声は低く抑えられていたが、そこには沸点に達する寸前の溶岩のような怒りが渦巻いていた。

 彼の大きな手が、腰に提げた剣の柄を静かに握りしめる。

 指の関節が白く浮き上がり、手の甲には青い血管が蛇のように浮かび上がっていた。

 その緊迫した空気に、王都の騎士たちも一斉に剣の柄に手をかける。

 金属が擦れ合う音が、冷たい朝の空気に鋭く響き渡った。

 リリアーナは建物の影から、震える両手で口元を覆い隠していた。

 自分のせいで、アレクセイたちが王都に反逆した罪に問われてしまう。

 この温かく平和な場所を、自分の存在が壊してしまう。

 恐ろしさと罪悪感がどろどろに混ざり合い、胃の腑を握りつぶされるような痛みに襲われる。

 ルークが彼女の周囲を激しく飛び回り、不安を和らげようと光の粉を散らしているが、リリアーナの震えは止まらなかった。

 風が吹き抜け、足元の砂埃を巻き上げる。

 黄金色の麦の波がざわめき、まるでこの土地全体が王都の侵入者に対する怒りを表明しているかのようだった。

 ガウェインも一歩前に出ると、足元の石畳がかすかにひび割れるような錯覚を覚えるほどの重圧を放った。


「息子が言った通りだ。リリアーナ嬢は我が領地の恩人であり、大切な家族。手荒な真似をするというのなら、我々にも考えがある」


 辺境伯家の断固たる拒絶。

 それは、最果ての地で魔獣と戦い抜いてきた者たちだけが持つ、死を恐れない覚悟の現れだった。

 使者はギリリと奥歯を噛み鳴らし、憎悪に満ちた目でガウェインとアレクセイを睨みつけた。

 朝の澄んだ空気は完全に失われ、血の匂いを含んだ剣呑な緊張感が広場を支配していた。

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