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07 陽炎

 洛陽の宮城では喪の札がまだ外されぬうちに、曹操の遺した政務が山のように積まれていた。曹丕が帝位に就くと、詔は新しい印で封じられ、官の名も次々と改まる。誰が近く誰が遠いか、息づかいほどの差が日ごとに測られてゆく。


 その折、楊俊は再び南陽太守の任を受けた。旧く民を撫で、吏を束ねる手つきは変えず、郡の内をただ清く保つことを務めとした。名声を求めて声高に立つより、訴えを減らし、怨みを残さぬように一つずつ結び目を解く。楊俊の治は、派手さを嫌うがゆえにかえって人の目を引くところがあった。


 その楊俊を、いま禁中で推す者がいた。王象である。かつて奴僕として鞭に打たれ、声も上げられぬ身であったのを、楊俊が見過ごさず、学ぶ道を開いた。王象はただ才を磨き、いつしか曹丕に見出されて散騎常侍(さんきじょうじ)となり、帝の側に侍る列に入っていた。


 ある日、曹丕は気心の知れた臣下を召し、奥の一室で卓を囲ませた。室の外は人の出入りを絶ち、香の煙が立つ。司馬懿と荀緯(じゅんい)が控え、左右の者も息をひそめる。王象は一歩進み、言を開いた。


「主上。南陽太守の楊季才殿は、質まことに清く、才は抜きんでております。忠と厳とを併せ、仁をもって人を養い、誠をもって民を動かします。後進を導くことに長け、教えを施して倦むところがございません。貌は寛にして、心は直。愛を抱きながら断を失わず、任に就いて以来、行く先々で教化を立ててまいりました。いま南陽を守るに及び、恩徳は四方に及び、他州の者まで幼きを抱いて徳を乞うほどでございます。しかるに、その地は清静に過ぎ、才を尽くすべき所がございません。どうか召して置き、宮中にて力を試させ、国家をさらに盛んにすべきと存じます」


 曹丕は杯を手に取ったまま、束の間黙した。王象の言が尽きると、香の煙のたなびく下で司馬懿がうなずき、荀緯もまた、目を伏せて同じ形を取る。楊俊の人柄を思い返し、王象は言い足すものを探さず、ただ一礼して控える。


 しかし、そのなごみから一歩外れた所に曹丕の沈黙があった。杯の縁を指先でなぞり、面には笑みらしいものを置きながら目は動かぬ。やがて何かを思いついたように口の端を釣り上げた。


「そこまで推すか。ならば、朕の目で見よう。南陽へ行く」


 軽く投げられた言葉に、坐は一挙に冷え、各々の胸には温みとは別の硬さが残る。


 曹丕が宛へ向かうと決めると、禁中の人の動きは一息に変わった。随行の車馬が定められ、兵は矛を磨き、厨の者は乾肉と粟を量り、伝令は路の亭へ先触れを飛ばす。王象は同行を命じられ、司馬懿と荀緯もまた名を連ねる。洛陽の城門を出るころには、列は長く伸び、車輪の音が大地を駆けていった。


 路は平らで、亭ごとに火と湯が備えられている。行く先々で人は膝を折り顔を伏せた。新しい帝を迎える畏れが、村の炊煙よりも先に立つ。曹丕は車中で言葉を減らし、帷の隙から外を見ても、目は休まぬ。王象が傍に寄っても、薄く笑むばかりであった。司馬懿はその心を計り、荀緯は黙って行程の札を改め、遅れた車があればすぐに人を走らせる。


 夜は伝舎に入った。戸は早く閉じられ、衛士が交代する。曹丕の前には、各郡からの迎えの書簡と南陽の簿の抜き書きが置かれた。読み終えると、札を指で撫で、何事かを胸に刻むようにして席を立つ。王象はその背を見送り、楊俊の治があの目にどう映るかを思い測った。


 数日ののち、宛の城壁が見えた。歓声はなく、ただ履と車輪の音が続く。南陽の吏が門前に列を作り、楊俊が先に立って礼を尽くした。突然の行幸(みゆき)であっても、迎えの次第は乱れず、道の掃き方から水の甕の据えまで手の抜けた所はない。楊俊はまず旅の疲れを労い、宿と馬の替えをの用意し、随行の者へも茶と食事を回させた。兵には湯の碗を渡し、馬には草を足し、傷む者が出れば医を呼ばせる。


 やがて曹丕は市へ出た。架は並び、秤は揃い、争う声も少ない。値は札で揃えられ、重さの違いは吏の前で改められる。布と穀の取引も、急がず、乱れず、声は抑えられていた。角の鍛冶は槌を落としても売り声を張らず、薬種の者は札を示して黙って量る。子を背負う女も、荷を負う男も、せわしなく走り回るようなことはせぬ。楊俊の治が、民に無用の欲を煽らぬようにしているのは明らかであった。


 王象はその中に、暮らしの安堵を見た。司馬懿は目元を和らげ、荀緯は簿を確かめてうなずく。されど曹丕の目は、人の穏やかさの上を滑ってなお足りぬものを探すように動いた。賑わいの薄さが怠りに見えるのか。曹丕は一言も発さず、歩みを早め、楊俊の案内の先へ先へと進んでいった。


 曹丕の歩みは、市の真ん中で止まった。楊俊が札を示して回らせた役が、言い分を聞き、礼をして下がる。その確かさが、曹丕の眉間の皺をほどくことはなかった。


 曹丕はひとつの布の架へ寄り、価の札を見た。売り手は頭を垂れ、買い手も声を高くせぬ。人の顔に浮くのは慎みである。静謐は美徳でもあったが、曹丕の目には、熱の抜けた灰の色に映る。昔、楊俊が曹植を擁護した折の言葉が、ねじれて耳へ残ってもいた。


 曹丕は周りを見渡し、突然声を鋭くした。


「これが市か! 民の暮らしが死んでいる!」


 衛士は肩を竦め、民は身を縮める。王象は一歩踏み出しかけ、司馬懿が手で止めた。荀緯は札を抱えたまま言葉を探して唇を結ぶ。楊俊は乱れぬ歩で前へ出て、礼をした。


「民が穏やかに暮らせることこそ、よしとしてまいりました。争いを減らし、重税を避け、飢える者をなくすように」


 曹丕の目が細められる。


「穏やかだと。朕は賑わいを見に来た。都の目を欺くために、声を封じたのではあるまいな」


 楊俊は首を横に振った。言い募らず、ただ事を外さぬ。


「欺く心はございません。秤を正し、盗みを減らし、民が明日の糧を得られるように致したまででございます」


 曹丕はその言葉の端を掴むように、指先を上げた。


「郡勢を鈍らせ、国の勢いを失わせた。斬に処す」


 そこに王象の推挙の声が合わさる。外見は寛にして内は直、仁を抱いて断を失わぬ、と。曹丕はその称え言葉の甘さを噛むように、口許の笑みを残した。自分が取り立てた者が、古い恩に引かれて帝の前で人を押し立てる。その図が胸にある硬いものを動かした。


 左右の虎賁(こほん)に視線が飛ぶ。


「楊俊を捕えよ!」


 縄が鳴り、兵が進む。吏の中から声が上がりかけたが楊俊は手で制した。民の間にも動揺が走る。楊俊は縄を受けながら、顔を上げて近くの吏へ命じた。


「市の者を追い立ててはならぬ。店を閉じさせず、今日の務めをそのまま守りなさい」


 王象は顔色を青くして立ち尽くしている。鞭の音を受けていた昔の背がふと蘇った。いま縄を掛けられるのは、己を救い出したその人である。己の軽挙が禍を呼んだのだ。膝が前へ出るのを司馬懿が押し戻す。札を握り締めた荀緯の指先が白くなる。


 曹丕はためらいを見せぬまま、言い放った。


「罪は明らかだ。南陽は眠っている。太守が眠らせたのだ!」


 市場が一息に凍った。楊俊は乱れた者へ目を向けて礼を返す。兵が道を割り、府へ引いた。民は頭を垂れたまま、その声は喉で詰まる。


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