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06 東風

 門の脇には新しい榜(ぼう)が立ち、その表には真新しく書き込まれた名が幾つも並んでいた。このところ、夜ごとに灯が動いては捕縛の札が回っている。


 曹操が長安にあり、未だ鄴へ戻らぬ中、荊州の戦が迫り、河の水が暴れたという報せまで続いて、鄴の人心は一層こわばった。守りが手薄だと人が口にする前に、魏諷(ぎふう)による乱の企てが露見し、共に名を連ねた者が引き立てられたのである。乱の芽を摘んだ長楽衛尉(ちょうらくえいい)の名も、魏諷を推挙した老臣の名も、人の間をひそかに渡った。名門の子の名が榜に混じると、見上げる眼はひとつ残らず曇り、誰もが自分の戸を確かめる。


 その混乱の最中でも、中尉府の吏舎は平穏を装っていた。楊俊は朝から札を受け、詮議の段取りを改め、門の番に言を渡す。


 庭の隅には縄で縛られた者が並び、地の上に膝をついていた。顔を上げれば名が消えると思っているのか、誰も声を立てぬ。彼らに吏が水を運ぶのを躊躇うと、楊俊は目で促した。碗が渡されると、縛られた者がわずかに首を下げる。見知った者の顔もあり、情に動かされそうになったが、楊俊は努めてそれを押さえ、表の顔には出さなかった。


 廊の端では若い書吏が、書簡を抱えたまま立ちすくんでいる。目の下が青く、袖の内で手が震えていた。彼にとっても見知った者が縛られているのであろう。楊俊はその傍らを過ぎるときに、歩を緩めて背をさすった。


 ややあって、連坐の処分を記した札が届く。楊俊は目を通し、胸中の靄を吐き出すように大きく息を漏らした。網は広く深く張られていた。事前に察し得なかった事情が幾つあろうと、中尉の職にある以上、知らなかったでは済まぬ。誰も責めぬのであれば、己の責を申し立てるほかはない。



  ×  ×  ×  



 夜明け前の行在所(あんざいしょ)は、慌ただしく動いていた。廊には札を受け渡す吏が並ぶ。几上は書簡で埋まっていた。乱は露見して鎮まったはずなのに、余波はまだ几の上で波立っている。


 楊俊は札を示して奥へ通された。待ちの間にも呼び出しが続き、侍者は戸の隙から声を潜めて用向きを告げる。ここでは一語が札となり、札が人の運命を縛る。室へ近づくにつれ、墨の香が濃くなった。


 曹丕は几に向かい筆を走らせていた。侍者が名を告げると目を上げる。


「……季才か。鄴の内は、いまどうだ」

「捕えた者の詮議は進み、札も順を得ておりますが、人の心はいまだ落ち着きませぬな。門の榜を見上げては、口を閉ざすような者が多うございます」


 曹丕はうなずいた。筆の先が一度跳ね、次の札へ移る。息をつく間もない刻だと、楊俊にも分かった。侍者が茶を運ぶが、誰も手を伸ばさぬ。


 楊俊は懐から一巻を取り出した。両手で差し出すと、曹丕の手が筆を離れてそれを受け取る。


「何だ」

「辞の表にございます」


 曹丕の動きが止まった。楊俊が乱後の務めを怠ったわけではない。むしろ中尉府の働きで、夜の騒ぎが昼の騒ぎに広がらずに済んだと周りは見ている。だからこそ、この一巻は意外であった。


 曹丕は書簡を荒々しく広げ、つぶさに目を走らせる。余計のない筆致であった。


 読み終えると、曹丕は書の角を揃えて几の端へ置く。眉間の皺が深く寄っている。乱の後始末に追われる刻に席を空けると言い出す。それが曹丕の癪に障った。


「このまま去るとは、随分高尚なことよ」


 侍者の息が止まる。楊俊は目を伏せたまま、言葉を返さぬ。否、返せぬ。その沈黙は己の責を理解していたがためである。


 曹丕は答えを待たず、筆を持ち直した。


「下がれ」


 楊俊は再び礼を尽くして退いた。廊へ出ると風が衣へ入り、冷えが骨身に沁みる。戸を出た先でも札の束が行き交い、名が呼ばれる。その中で楊俊は歩を乱さず、前を見た。鄴の町は声を潜めている。楊俊は門を抜け、誰にも背を向けずに去った。



  ×  ×  ×  



 乱後の沙汰がようやく定まったころ、鄴の道にも足音が戻り始めた。榜の前に立つ者は疎らになり、門の番も札を鳴らして通す。市の秤はふたたび同じ高さで止まったが、笑いは浅く、夜ごとに戸を早く閉じた癖が、挨拶の間にも残っている。


 中尉府の吏舎では、簿が整理されていた。楊俊は几に向かい、残っている決裁を片づける。


 午の刻を少し過ぎ、戸口に影が差した。伝令の吏が一巻の書簡を捧げる。官印の封であった。楊俊が受け取ると、伝令は声を抑えて告げる。


「中尉・楊俊を免じ、平原太守に補す。……との沙汰にございます」


 筆が一斉に止まった。室は騒然とし、視線が幾つも楊俊のほうへ寄っては外れた。楊俊は礼を返し、書を几の端に置く。


 近くで札を読んでいた若い書吏が、手元を誤って札の束を崩した。慌てて拾い集める指が震えている。楊俊は何も言わず、束を揃えて几へ戻した。若い書吏は唇を結び、やがて恐る恐る口を開く。


「季才殿。何故、でございましょうか」


 楊俊は顔を上げた。


「先の乱に関わった者の中には、見知った者も多かった。中尉の任を預かっておきながら、彼らの不軌の心(ふきのこころ)を見抜けなかったのは私の不徳によるものだ。ゆえに先日、私の責を断じて欲しいと子桓殿に願い出た」


 そう言い切ると、札の山を引き寄せた。詮議の要をまとめ、倉と鍵の所在も、余計を削って一枚の巻に収める。手の届く形にして残せば心は少し鎮まる。若い書吏は言葉を探したが、やがて目を伏せ、黙って筆を取り直した。


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