05 芽吹
丞相府の奥へ通されるにつれ、外の往来は遠のいていった。ここでは筆よりも、舌にこそ価値がある。
呼び出しはそれぞれ別に来た。何の用かは告げられず、刻限と集う場のみが示される。呼ばれた者らは案内に従い、普段の議よりも奥まった室に入る。噂は府の外を走り回っているが、この室に入った者は、噂で口を動かしてはならぬ。
曹操は坐して待ち、入ってくる者を一人ずつ見た。集められた者はみな、言葉の刃も薬も知る者ばかりである。互いの名は呼ばず、奥の堂を出たあとも口を固くするよう、先に釘が刺されていた。
曹操が口火を切る。
「このところ、よく耳に入ることがあるだろうが、諸君らはどう見ておる」
問いは名を挙げぬ。けれども坐の者はみな、それが後継の件であることを心得ていた。最初に口を開いた者は、曹丕の堅さを語る。
「子桓殿は言を飾らず、事を怠りませぬ。人を使うにも置き場を外しませぬ」
次いで、曹植の才を挙げる声が続く。
「子建殿の筆は風のごとく、問われれば即坐に答えます。学びも心も広い」
別の者は曹丕の忍耐を言い、また別の者は曹植の柔軟を言った。いずれも褒め言葉であり、互いを打つ矢にはならぬ。
曹操はうなずき、時に問うては各々の考えを引き出した。誰かが己の推す者を立てようとして声を強めかけると、曹操の目が向き、熱は自然と引いた。密議とはいえ、ここにあるのは国の責務である。
楊俊は末の方に坐していた。欠を探すより、長所の灯を拾い上げて場へ戻す。その温もりが、刺の出かかった言葉をやわらげることもある。かつて曹植と几を並べて文を論じて笑い合った日があるが、その記憶を楊俊は胸に仕舞い、今日の席では誰の肩も押さぬと定めていた。曹操の視線が、ふと楊俊に留まる。
曹操は目を向けたまま、しばし言を置いた。堂の者はその沈黙の内に促しを聞き取る。楊俊は膝の上で指を合わせ、ゆるく息を吸ってから口を開いた。
「曹公。子桓殿は、事を運ぶに外れず、諸事を束ねる手があります。人の才を惜しまず、用うべきを用いましょう。乱れた綱を正すには、あの堅さが頼りになります」
言い切っても角は立たぬ。楊俊は声を保ち、次いで視線をわずかに上げた。
「子建殿は、筆は早く、問いに対する応えも迷いませぬ。人の痛みに先に触れ、言葉をもって慰める。才は人を驚かせますが、驚かせるのみならず、人を寄せます」
曹操はうなずき、眉間の皺を少しほどく。楊俊はそこで結論を急がず、杯の置かれた几をちらと見て、笑みともつかぬ角度を口元に置いた。
「勿論、両方の徳は同じ形ではございません。子桓殿は律を立て、子建殿は情を立てる。どちらが上というより、国が何を求める刻にあるかでございましょう」
坐の端から、息を呑む音がする。穏やかな評の中に、選びを迫る刃が潜むと見たのである。楊俊は、迫るよりも宥めるように言葉を続けた。
「今は、誉れを競わせるより、互いの長所を損ねぬ道を思うべきかと。子桓殿の慎みは、子建殿の才を守り、子建殿の広さは、子桓殿の務めを軽くする。二つが並ぶなら、府も国も安くなります」
そのとき、曹丕に近い一人が身を起こす。
「子建殿の才は疑いませぬ。されど、任に当たれば任意に走り、自らを律せず、酒にも節がないと聞きます。人の上に立つには、恐ろしいことでは」
刺のある言葉が発せられた途端、緊張感が室を支配する。曹操は杯へ伸ばしかけた手を止め、目を眇めた。声には出さぬが、不快がにじむ。誰かが取り繕うように笑いかけたが、笑いは途中で消えた。
楊俊は相手を見据えず、わずかにうなずいて受ける。否定で押し返せば場は割れよう。刺を抜く代わりに、刺の先に付いた血を拭うように言った。
「節のことを申されるなら、子桓殿の慎みはまことに学ぶべきでございます。けれど、子建殿の酒は、己を軽くして人に近づくための術でもございましょう」
楊俊はそこで少し間を置き、堂の者それぞれの顔へ順に視線を配る。
「才ある者は、己を隠すほど周りが遠うなります。子建殿は隠さぬ。その無防備が、しばしば咎に見えるのでしょうが、裏を返せば、欺きが少ない。人の前で弱さを見せる者は、強がりより害を残しませぬ」
曹操の目が再び動き、卓の気がゆるくほぐれた。坐の者も息をほどき、肩がわずかに下がる。さりとて、先の一人は唇を結び、指先を袖の中で握ったまま顔色を変えぬ。その澱んだ目が、言葉の行き先を別に求めているようであった。
曹操が手を挙げると坐はほどけた。言葉は互いの胸に戻され、杯はそのまま几に置かれる。侍者が戸を開けても、風が入るのみで、誰も声を立てぬ。呼ばれた者たちは、来たときよりもなお慎み深く礼をし、廊へ散った。ひとつの問いが、府のどこにも書き残されぬまま、胸に残る。
楊俊も礼を尽くして退き、牒を抱えて歩を進めた。筆を執れば、またいつもの務めがある。人の才を量る言葉は、量り違えれば禍を呼ぶ。楊俊はただ、良いところの灯を消さぬようにと思った。誰かを押し立てるより、互いの矜持を傷つけぬように。廊の灯が肩へ落ちて墨の香が衣に戻ると、その思いが固まっていく。
背後で履の音がひとつ遅れた。先刻、曹植の欠を言い立てた者である。彼は人の輪に混じりながらも、楊俊の言葉が坐の空気を救ったことを救いとして受け取らなかった。欠を美徳へ置き換えられたのが、己の面子を奪われたように思えたのである。
その日のうちに、その者は別の門をくぐった。曹丕の居所である。灯の下に控える者へ声を潜め、取次を求めると、ほどなくして通された。曹丕は几に向かっていたが、楊俊の名が出ると、筆の先がわずかに止まる。
「今日、曹公が密かに諸臣を集められました」
「ほう」
「その席で、季才殿が申したのです。子建殿は徳ある人、欠もまた美と見なすべしと。しかも、子建殿とは旧く親しいと聞きます。あの口ぶりは、ただの評ではありますまい」
言いようは慎んでいるが、言葉は曲がっている。曹丕は相槌を打たず、目を上げて相手を見た。相手はその沈黙を都合よく受け取り、さらに一歩踏み込む。
「私が子建殿の酒癖を申したところ、季才殿は人の前で私を諭すように、かえって子建殿を讃えました。坐の者もみな、あれに背を押された様子で」
曹丕は杯を取り、口をつけずに置いた。瞳が少し陰る。楊俊が誰にも与さず、ただ場を宥めたに過ぎぬことを、曹丕が悟らぬはずもない。されど、人の声は刃を持つ。密かに繰り返されれば、刃はいつか形を得る。
曹丕がつぶやいた。
「季才か……」
その者は笑みを隠すように頭を垂れた。




