04 若葉
ほどなくして、楊俊は南陽の太守に推された。任が変われば道も変わるが、人の顔に先に目を留める癖は変わらぬ。
ある夕、吏舎の門前で、一人の男が手をもてあまして立ち尽くしていた。荷も札も持たず、往来の邪魔になるまいと身を寄せているが、困っている様子が伺えた。楊俊が目を留めて近づくと、男が訴える。役夫の割り当てへ入れられたが、戸籍の名が一字違うために、何を言っても取り合われぬのだという。
楊俊はすぐに吏を呼んだ。簿を持たせ、門柱の陰で開かせる。男の言い分を終わりまで聞き、吏にも確かめさせた。誤りはすぐに見つかり、楊俊は指先でその字を示す。
「ここだな。直しておきなさい。本人の前で済ませるように」
吏は顔を赤らめたが、素直に己の誤りを認めた。男は何度も頭を下げたが、楊俊は手を軽く振って言う。
「手違いで労をかけたな。務めに励みなさい」
男が去ると、門前の空気が落ち着く。吏の目つきも変わり、次に来る者には声を柔らかくして応じた。楊俊はそれを見て、吏舎の中へ歩を戻す。
翌朝、楊俊は吏舎の庭を歩いた。廊の隅の使われていない一室に楊俊が目を留める。
「ここを空けておきなさい。子らの坐にしよう」
「子らの坐、でございますか」
「学舎にするのだ。字を習う場を作れば、困りごとの芽は減るぞ」
そうして廊の隅の室は磨かれ、やがて几と筆とが運ばれた。教える役は筆の確かな吏に任せ、刻は浅く、農の手を奪わぬようにする。門の外でためらっていた少年が母の影に隠れて立つのを見つけると、楊俊はその母に声を掛けた。
「預かろう。帰りが遅くなるようであれば、こちらで見ておく」
母が喜んで礼を言うと、子は几の前に坐った。迎え入れる子らも笑顔である。書を読む声が途中で途切れ、教える吏が口を開きかけたところへ楊俊が近づく。
「急がせぬよう。もうしばらく、見守ってやりなさい」
子らが読み直すと、楊俊はうなずいた。そのうなずきが子の背をまっすぐにする。別の子が墨をこぼして慌てると、楊俊は布を差し出す。
「これこれ、袖で拭くな。母が嘆くぞ」
言われた子は、照れたように笑った。
陽が傾くと、学舎の戸口にはまた別の子が立ち、吏も自分の筆を少し誇らしげに持ち直す。帰り道で会った民が嬉しそうに言った。
「楊太守様、うちの子が家で札を読み、書を口ずさむようになったんです」
「それは良い。たんと褒めてやりなさい」
楊俊は笑みを返して答える。
廊の油灯が灯るたび、学舎の中から幼い読み声が洩れた。郡は優しい声に馴染んでいく。人が人を押さぬうちに道が通り、吏も民も、同じ夕風を受けて家へ戻る。その穏やかさを、楊俊は何よりの誉れと思った。
夕べの風が庭を渡り、楊俊は灯の消えた廊を抜けて吏舎へ戻った。几の上に書簡が一巻置かれている。封泥の印には、荀公高とあった。まだ若い官の友だ。
封泥を割り書簡を開くと、行の間に迷いが見える。
『赴任の日浅く、政に軽重をつけかねます。老吏をいさめる折、言が強くなり、民の前で顔をつぶすまいとすれば、事が曖昧になるのです。』
楊俊は返書の巻を取り、しばし思考を巡らせた。文の始と終の間に置くべき言葉を、一つずつ心中で撫でていく。若い者は自ら道を見つけた時こそ長く歩けるものである。
書吏が一人、札の束を抱えたまま足を止めた。楊俊は顔を上げて言う。
「今夜はここまでにして、お前は先に帰りなさい」
書吏がうなずき、札を架に戻して室を出ていく。楊俊は筆を執り、最初の一字を置いた。次の字は、すぐには続けず、相手の顔を思い、言の角を丸めた。子を見守るのと同じ眼差しが、筆先にも宿る。
筆を休めると、南陽へ赴いてから届いた幾巻かの便りを思い浮かべた。任の軽重に怯える者に、民の声に押されて道を見失いかける者。いずれの文にも自らを省みる様子があった。
次第に外の喧騒が薄れてゆく。楊俊は筆を手にしたまま、闇に耳を澄ませた。
× × ×
幾月かが過ぎ、南陽の政は地に馴染んだ。学舎の子らが使う几の角は光り、訴えは札の前で言葉に戻り、吏の声は自然と和らいでいた。楊俊は日の始めに庭を巡り、日の終わりに几を拭う。去来の人の顔を覚え、名を呼べば、みなが笑った。
ある日、吏舎に楊俊を征南軍師に任ずる旨が書かれた書簡が届いた。南陽で積んだ札と声とのあいだに区切りが置かれる。楊俊は封書を確かめ、印綬を帯に直した。人の世は、こうして手から手へと温もりが渡ってゆく。
そうして魏が国を掲げると、楊俊を中尉の位に進める詔が下った。道は変わっても歩みは同じである。日脚は地を広く照らし、人の道は続く。
※中尉……首都の巡回・警備を担う官職。現代で用いられている軍隊の階級とは意味が異なる。




