03 薫風
曲梁の県を預かってから幾年かが過ぎていた。楊俊はいま鄴にあり、丞相府の掾属として、札の文言を改め、出納を確かめる務めに就いている。
払暁、楊俊が書簡を抱えて廊を歩いていると、角の先に二人の男が並んでいた。覚えがあるその面差しに、楊俊は歩を止める。二人とも、かつて兵伍にあった時分から、命が下れば先に立って動く者たちであった。名を審固と衞恂という。手に残る傷痕が昔を語るが、その顔つきは穏やかである。
審固が先に礼を正した。
「季才殿。ご無沙汰しておりました」
衞恂も続けて拱手する。
「このような処でお目にかかれるとは。あの折のこと、いまも胸にございます」
楊俊は足を止め、二人を見比べて穏やかに笑った。
「息災で何よりだ。あれからどうしていた。今はどの役にある」
審固が顔を上げる。
「郡のことを任されるまでになりました。とはいえ、まだまだ学ぶことばかりでございます」
衞恂も一歩半退き、同じ調子で言った。
「私は御史の下を走り、いまは県の務めも見ております。筆の重さは、槍の重さよりも堪えますな」
その言いぶりに、楊俊は笑ってうなずく。二人とも役を受ければ受けた分、己を合わせる質である。審固は人の声を拾い、衞恂は筋を守って争いを鎮める。そういうところに楊俊は目を留め、かつて推挙の札を添えたのであった。
二人はなお頭を下げる。
「季才殿が、我らを兵の列から引き上げてくださったお陰です」
「折にふれ、人の道を教えられました。あの時の言葉が、支えとなっております」
楊俊は手を軽く振り、声をいっそうやわらげた。
「私は少し目を留めただけだ。才も励みも、初めから二人のもの。今の姿が、そのまま答えだろう」
審固は口を開きかけて、また礼に戻る。衞恂の目がわずかに潤んだ。楊俊は二人に笑いかけ、軽く言い添える。
「さて、そろそろ行きなさい。務めに遅れると叱られるぞ」
「季才殿、どうかご自愛ください」
「また折があれば、酒でも」
二人は名残惜しげに拱手し、廊の先へと退いた。柱の影に衣の裾が消え、足音が遠のいていく。楊俊は胸に温さを残しつつ、成った士を見送った。そうして、抱えていた書簡を抱え直し、胸の温もりをそのままに歩を戻す。
その時、脇の柱陰から一人の男が姿を現した。気配を殺し、別れの言葉が尽きるのを待っていたらしい。
「季才殿」
呼びかける声に聞き覚えがある。楊俊が振り向くと、若さを残しながらも眼光炯々とした男が立っていた。司馬懿である。
「仲達か! ここにいたのか」
司馬懿は拱手し、口を開いた。
「先ほどのやり取りを、つい聞きてしまいました。あの二人はすでに士の器でございますな。季才殿が昔と変わらぬことも、よく分かりました」
楊俊は笑って首を振る。
「仲達こそ昔のままだな。人をよく見ている」
司馬懿はその言を受け、ひととき言葉を選ぶように視線を落とした。その間が却って司馬懿の真面目さを映す。
「……実は、先ほどの姿を見て、私も礼を申したくなったのです」
楊俊は黙って促した。司馬懿は顔を上げ、慎みを崩さぬまま、声の角を丸くする。
「季才殿。昔、あなたが私を並外れた人物だと言ってくださったこと、覚えておいででしょうか。あの言葉は、私にとって灯でございました」
楊俊は相手の面をまっすぐに見た。褒めに酔う気配のない目である。司馬懿は言葉を続ける。
「灯があれば、足もとを確かめて歩けます。私が今日まで折れずに来られたのは、あの一言が支えてくれたからなのです」
「私は事実を言ったまで。実際にそうではないか。そなたは、若い日にすでに言葉の先を見ていた」
楊俊は穏やかに言った。
司馬懿の口元がわずかに弛む。笑みは小さく、どこか照れ臭さを隠すように視線を横へ逃がした。
「やはり、季才殿にはかないませぬな。こちらが礼を言っても、すぐに返されてしまう」
楊俊は息をつき、笑いながら肩の力を抜く。
「礼を互いに重ねても話が終わらぬわな。各々、務めの中で力を尽くせばよかろう」
司馬懿もまた、僅かに笑ってうなずいた。言葉はそこで切られ、やがて司馬懿の姿は廊の影へと吸われる。
見送る楊俊の名を遠くで吏が呼んだ。楊俊は書簡を胸に寄せ、そちらに向けて歩みを戻す。
窓の格子からは庭がのぞき、大地は冬の固さをほどきはじめていた。敷石の縁に水の玉が光り、芽を含んだ枝が風に揺れていた。檐の下を抜ける風は、どこか甘い香りを連れてくる。
楊俊は、若い者が役を負い、士として立ってゆくのを見るのが昔から好きだった。一人ひとりの顔が、今でもしっかり思い出せる。
曲梁にいたころ、戸口で子を抱く母の後ろに黙って立っていた若者を見たことがある。都へ出る道をたずねに来た旅の者の中に腹の据わった者がいたこともある。そうした者らが後にどこかで役を得て、また別の者を支える。通りすがりに少し声をかけただけのようなものであったが、その声が巡っていくつもの道を明るくしているのなら、ありがたいことだと楊俊は思う。人は光を受ければ応える。そう信じてきたことが、折々に確かめられる。
廊の角から伝吏が現れ、楊俊を見つけると書簡を差し出して言う。
「季才殿、書簡にございます。王羲伯殿より」
楊俊は受け取り、封書の面を撫でた。遠くにいても、こうして便りが届く。書簡を開くと、唇の端に笑みが浮いた。良い報せが添えられているのだろうと、伝吏は黙って目を伏せる。楊俊は礼を返し、吏を退かせた。
書簡を巻いて袖に収める。言葉ひとつ、書の一巻で、人の心は温かくなる。その温もりがあれば、こちらもまた誰かに声をかけられる。押しつけず、飾らず、良いところを良いと言う。それで芽は伸びる。
花の蕾が淡くほどけ、枝先が小さく揺れた。人の営みは忙しくとも、春の息吹はどこからか入り込み生きとし生ける者の顔を上げさせる。




