02 若草
并州へ移って幾月かが過ぎ、楊俊の暮らしはようやく地に落ち着き、明日の心配で背を丸めずに済むようになっていた。
急ぎの用のない日は、従を一人連れて街はずれを歩き、牧と市の境を見て回るのが日課となっている。土壁の家並みが途切れると、刈草の匂いが濃くなった。視線の先で柵の内に羊が身を寄せ、若い奴僕が杖を持って立っている。
突然、その背を通りかかった主人らしき男が縄で打った。若者は声をこらえ、膝を折るまいと大地を踏んだ。衣が裂け、血が滲む。背には古い痕が重なり、衣越しに盛り上がっていた。羊は目を丸くして群れ、鈴が落ち着かぬ調子で鳴る。通りがかりの者は見てはならぬものを見たと、目を伏せて足を早めた。目をやる者がいても、口は固く閉じたままである。
楊俊が歩みを止めると、従僕は怯えた声で問う。
「揉め事にございましょうか?」
楊俊は首を振り、さらに一歩柵へと寄った。足もとには、書がひとつ落ちている。踏まれて角が割れ、札の間に砂が噛んでいた。若者はそれを見て、どこか一点を守っている。打たれる痛みの中で、なお離せぬものがある目つきであった。
主人の男が楊俊に気づき、縄を下ろしもせずに言う。
「おや、季才様。これは孤児でして、幼いころに引き取ってやったのです。にもかかわらず、務めの手を休めてまで書を読もうとしましてな。奴僕が文字を覚えれても碌なことにはなりませぬから、悪癖を折っておるのです」
楊俊は若者の目をじっと見て、一言問うた。
「その札は、何を記したものだね」
若者の唇がかすかに動いたが、言葉は喉で止まった。縄が再び上がろうとするのを見て、楊俊は従僕に水と布を荷から出させる。布は若者の血を受け、水は若者の唇を濡らした。主人の男は面白くなさそうに、縄を握り直している。
楊俊は再び若者に言葉を掛けた。
「名は」
「……王象と申します。字は羲伯」
若者がかすれた声で答える。
楊俊はうなずき、割れた書を拾い上げた。
「これを読んでいたのか」
叱責を恐れてか、王象は首を下げたまま俯いている。
「伯夷叔斉は、なぜ人は飢えても節を捨てぬと記した」
王象の喉が鳴った。言葉を探す間に、縄を握る手がまた強くなる。王象は身を固くして言った。
「節を捨てれば、人の目が先に飢え、明日を喰らうからです」
賢しらに飾らず、己の暮らしで鍛えた言葉である。
楊俊は主人へと向き直った。
「この者を私に譲ってはくれまいか」
主人は眉をひそめ、縄を肩へ掛け直す。
「まあ、よいでしょう。欲しければ、相応の値で」
楊俊は懐から銭を取りだすと、主人の目が銭へと吸われ、手にした縄が地へと落ちた。
× × ×
邸に戻ると、楊俊は王象を卓の前に坐らせて湯を飲ませる。それから裂けた背の傷を洗い、たっぷりと薬を塗った。
傍に控えていた端女が、碗に糊を盛る。
「羲伯よ。ここでは好きなだけ書を読むと良い」
王象はぼんやりと糊を眺めながら、己の身に起きた何もかもが夢であるのではないかと疑っていた。
「……せっかく拾って下さっても、俺は何のお役にも立てませぬ」
「そのようなこと、気にかける必要はない。まずは身を養いなさい」
楊俊は微笑んだ。
夜、寝台の上で目を閉じると、王象の耳に縄の音が蘇った。戸が開けば追い出されるのではないかと身を構え、足音がすると躰が強ばる。しかし楊俊は湯を置き、灯を落とし、戸を確かめただけで去って行った。明ければ糧があり、几には書ばかりか文房四宝まで用意されている。
やがて傷が癒えると、王象は楊俊の邸の務めを任された。水を汲んでは薪を割る。人の顔色を伺う王象の癖は抜けず、はじめは札に一行書くごとに背を縮めたが、咎められぬと知ると、次第に落ち着いていった。書をひとつ読み終えると新しい書が渡され、墨と札の欠けが出ればそれもすぐに補われる。
そうしたある日、楊俊は折に触れて外へ出て、従僕に材を運ばせるようになった。王象には別の用を与え、庭の端へ近づけぬようにして、である。楊俊が忙しく動くほど、王象は表情を固くした。
ある夕、楊俊が王象を街外れへ呼び、畦の傍の真新しい小さな屋の前に立たせた。しばらくして戻ってきた楊俊は、若い女を伴っている。女は礼をして、王象に微笑みかけた。楊俊は二人を同じ卓に坐らせ、湯を注ぐ。
「ここがお前の新しい家だ」
楊俊が告げると、王象は驚きに目を見開いた。碗を持つ手に力が入ると、女はそっと指を添える。叩かれることに慣れた躰が、柔らかな熱を受けていた。言葉を飾れば嘘になる気がして、王象はただ頭を下げる。女もまた、同じように頭を下げる。
日を改め、楊俊は酒を用意して近しい者を二、三呼んだ。杯が回ると、王象は女の横に立って、彼女と共に暮らすと告げた。女は袖で口元を押さえると、頬を染めて小さくうなずく。
楊俊は二人の門出を祝福すると、帰り際にひと言添えた。
「困れば戻れ。戻らぬ日があれば、それをよしとする」
王象が顔を上げると、楊俊はもう庭へと退いていた。
王家に笑い声が馴染んだころ、楊俊の名は曹操の軍府にも聞こえるようになり、ほどなくして、楊俊は曲梁長として召されることとなった。




