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01 清明

 山の尾根に、百余家が連なっていた。谷から上がる霧は身体を冷やし、踏まれた草は青い香を立てる。楊俊(ようしゅん)は列の中ほどでみなの足並みを見ながら、遅れる者があれば支え、折れそうになる者があれば声を掛けていた。その声音は春の陽のように暖かい。


 人の群れが峠に差しかかると、道端に折れた車の輪が捨てられているのが見えた。車の上の板に、老人がひとり横たわっている。息子であろうか、若い男が必至で持ち上げようとしていたが、力を入れても腕が震えるばかりであった。楊俊はそれに気づくと、さっと板の端に手を掛け、近くの者にも声を掛けた。すると隣の者が手を貸し、さらに後ろからも人が寄る。そうして重みが分かれると、若い男は食いしばっていた歯を緩めて息を吐く。


 その少し後ろでは、老女が石に腰掛け、足を揉んでいた。自然と水袋が回り、掌に受けた水が唇へと運ばれる。さらに麻布が差し出され、顔の汚れが拭われた。幼子が泣けば隣の女が背を貸し、母は両手で背に持った荷の紐を締め直す。楊俊はその輪の様子を穏やかな顔で見守っていた。


「季才様、ここで休みますか」


 若い者が並んで問い、楊俊は空を見た。雲は薄く、風は山腹を渡っている。


「もう一つ尾根を越えれば、沢がある。そこで止まろう」


 応えると列の中からぽつぽつと肯定の声が返った。流民の群れであれ、この群れの中に置き去りになるような者はいない。


 ふと目を移した道の外れに、刈られぬままの麦が倒れていた。京県のあたりでも、密県へ向かう道でも、同じ静寂が増えている。河内は四方に通じる。人も荷も集まるところへ、兵もまた集まる。楊俊はその先を思い、老いと幼きを支えて、居を移すと決めた。そう遠くないうちに、河内の道は兵の往来で塞がれるだろう。だから今、この一歩が要る。


 陽が傾くころになって、列は木陰に身を寄せた。輪の中央で、雑多な穀の粥(ヂョウ)が煮えている。碗は足りぬゆえ、先に子らへと回われる。楊俊は荷から丸い餅(ビン)を取り出し、割って子らの手に渡した。受け取った子は兄に分け、兄が隣へと分ける。山の寒気は厳しくとも、群れの中には人がつくる温もりがあった。


 楊俊は粥の鍋を見守りながら、人数を数える。欠けがないことを確かめると、ようやく自分も一口湯を含み、次の沢までの道を思った。


 列に加わった家のひとつに、夫を山道で失った女がいた。背の麻袋は軽く、抱いた子は熱で頬が赤い。女は順が来ても手を引っ込め、子の口を袖で拭うばかりであった。幼子が咳き込み、近くの老人が布を差し出したが、女は受け取りながらも視線を伏せた。楊俊は鍋の傍を離れ、女の前に膝を折る。


「うちはもうよいのです。みなの分を減らせません。何もお返し出来ませぬから」

「減って困るのは粟や麦より子であろう。今は遠慮を置きなさい」


 楊俊は碗を受け取り、女の手に渡した。女は礼を言って頭を下げる。楊俊はうなずくと火子の背を軽く撫で、咳が落ち着いたのを見て立ち上がる。


 暮らしは次第に落ち着いた。縄を撚(よ)る者もいれば、梁を組む者もいて、裂けた衣は女たちが縫い合わせる。水を汲む順は自然に決まり、足腰の弱い者の桶は、行きと帰りで持つ手が替わった。幼子らは石を並べ粒て笑い、笑いが起きれば大人たちの顔も和らぐ。楊俊は欠けた所に回った。病む者には薬草を探し、若い者が張り切り過ぎれば肩を叩いて休ませ、老いた者が手にした荷を半分持った。


 ある夕、若い男が楊俊の傍へ寄った。


「季才様。あなたのようなお方には、山の暮らしなど合わぬのではないですか」


 楊俊は薪を寄せ、灰をならして笑って答える。


「みなが息災である以上の幸はないだろう」


 男は頬を赤らめ、翌朝には誰よりも早く沢へ下り、水を多く運んだ。



  ×  ×  ×  



 日が巡るほど、外の混乱の断片が山へ入り込む。谷へ下りた者が戻り、声を抑えて言った。京の道で人が攫われ、奴僕とされるのを見たという。別の者は、市の片隅で宗族の名を聞いたと言った。やがて、旧知のうち六家の者が賊に連れ去られて消息を断ったことを知ると、楊俊は人々の顔を順に見渡して、六つの家の名を確かめる。


 焚火の赤が弱くなると、楊俊は薪を寄せ直した。山へ移ったのは、老いと幼きを守るためである。攫われた六家の者たちも、そのまま闇に残すわけにはいかぬ。楊俊は夜明けに家族の者を数人連れると、荷を最小にして谷へ下った。


 麓の道には、兵でも吏でもない者が屯していた。荒れた家の庭に火を焚き、奪った荷を積み、縄で結んだ人々を坐らせている。捕らわれている者はみな、怯え、衰弱しきった様子であった。声を荒げれば刃が先に立とう。楊俊は一歩手前で止まった。賊の首が顎を上げて用を問い、楊俊はみなを返してほしいと頼む。縛られた者の中には、楊俊を見て首を横に振る者があった。


 賊首は笑い、代価を求めた。楊俊は背の包みを解き、帛と麻布を広げ、師から受けた書巻もためらわず重ねた。賊の目がそれらをなぞり、手下が奪うように抱えた。賊首はなお足りぬと言う。楊俊は上衣を解いて置き、最後に身の銭嚢を開き、残りを掌にあけた。中身がすべて地に散りばめられ、楊俊の袋が空になると、賊首はようやくうなずき、捕らえていた人々の縄を解かせる。


 六家の者は一人ずつ立たされた。手首の跡は赤く、歩みも頼りない。楊俊は彼らにまず水袋を渡し、呼吸が落ち着くのを待ってから、谷を離れた。山道に入ると、遅れた者の荷を別の者が受け、子を抱える腕に手が添えられた。途中、足の裏が裂けた者がいれば、麻布が裂かれて巻かれ、老人の杖が震えれば若い者が順に背負った。


 山へ戻ればすぐさま火が起こされ、粥が回った。戻った者は名を呼ばれて泣き崩れる者もいた。救い出された家の者は、失われかけた命が確かにここにあることを確かめるように、肩を寄せて泣いている。楊俊はその輪の外で裂けた袋を繕い、空になった包みを畳んだ。


 夜が更けて火の輪の声が細ると、楊俊は年長の者と最もよく動ける者とを傍らへ呼んだ。六家が戻った安堵の中で、なお外の脅威が近いことを、楊俊は隠さなかった。あの賊徒は、贖いの品を受け取っただけでは終わらぬだろう。楊俊がここに留まれば、全てを奪うために山へ踏み込んで来るやもしれぬ。


 楊俊は、呼んだ者たちに今後の暮らしについての助言を与え、京県と密県の道筋で避けるべき辻も言い置いた。守るべきものは明日の暮らしである。


 やがて家族が最低限の荷をまとめ、余りを火の傍へと置いた。楊俊の手許には、軽い麻袋と要るだけの水が残る。


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