08 春光
兵が楊俊を府へ引くと、吏は札を抱えたまま身を寄せる。楊俊は縛を受けつつ、遺される者たちのことを考えた。今ここで自分が果たせる務めは、もはやそれほど多くは残っていない。
ほどなくして、走り来る足音が堂に響く。まず王象が現れ膝をついた。少し遅れて司馬懿と荀緯が続く。三人の顔には血の気がない。曹丕の一声で首が落ちる、その刻限がすでに始まっていることを理解していた。王象は唇を噛み、司馬懿は目の焦点を定め直し、荀緯は言葉を胸中で組み替える。みな、急ぐ心が隠せずにいる。
曹丕は坐を動かず、目で人を量った。左右の虎賁は槍を立て、楊俊は縄を負わされたまま前に置かれる。堂の空気は硬く、咳一つで崩れそうであった。
王象が声を絞る。
「主上、季才殿の罪とされるところ、民を安んじたその働きにございます。争いを減らし、飢えを遠ざけ、怨みを残さぬように配慮したのでございます。どうかお赦し下さい」
司馬懿が続く。
「主上、季才殿は人を育て、吏を立て、郡を育てておられます。ここで失えば、南陽は再び乱れに傾きましょう。どうか思い直され、お用い下さいますよう」
荀緯もまた膝を進めた。
「主上、季才殿の徳は声高に出ずとも、民の胸に残っております。断てば残るのは怖れにございます」
曹丕は眉一つ動かさずに返す。
「許さぬ」
その一語にも、三人はなお退かぬ。石床へ額を打ち、また打つ。叩頭の音が重なり、血が流れる。王象も司馬懿も荀緯も、同じ赤を額に負い、なお言を尽くした。血は袖へ移り、石目に染みていく。侍する者の肩がわずかに震え、虎賁の手が柄へ寄る。それでも曹丕の目は凍ったまま揺れぬ。
叩頭の音が続き、堂の空気は石のように固まった。王象は額を床に打ちつけ、司馬懿は視線を伏せたまま息を抑え、荀緯は唇を結んで動かぬ。曹丕は叩頭の赤と忠の言葉とを、ひとつひとつ秤に掛けるように見ていた。
請いを重ねれば重ねるほど、赦しは遠のく。
楊俊はそれをすでに悟っていた。帝の前で血を流した者たちは、明日からも帝の近くに立つ。ここで三人の道を狭めれば、その先にある国の務めが痩せる。
楊俊は縄のまま身を正した。己のために額から血を流す者たちの想いに、胸が熱くなる。されど情のままに声を上げ続ければ、王象の願いは私と見られ、司馬懿の言は計と見られ、荀緯の涙は弱さと見られよう。そうなれば、彼らは今日の赤と共に、明日をも疑われよう。
楊俊は僅かに振り返り、三人に視線を向けた。そうして、礼の形を崩さず、わずかに首を振る。もうよい、と。ただそれだけを伝える仕草であった。王象の肩が小さく震え、司馬懿の唇が固く結ばれ、荀緯は胸の痛みを堪えるように瞼を閉じる。叩頭の音が細くなる。
曹丕の視線が楊俊へ移った。縄に引かれた姿は弱っては見えぬ。血の中にあってさえどこか穏やかで、春の気配が漂う。楊俊はその眼を受け、まず深く礼をした。曹丕を責めぬ。自分を救おうとした者を煽らぬ。ここで断ち切るべきものを断ち切るために言葉を選ぶ。
楊俊は曹丕へ向き直った。声を張らず、簾越しの陽が肌に触れるほどの柔らかな調子で言う。
「自分の罪を理解しております」
その言葉に王象は目を見開き、荀緯の唇がかすかに開く。司馬懿は床の赤を見つめたまま、指先を動かさぬ。曹丕の喉がわずかに動き、怒りの形を保つための硬さが、ほんの一瞬、綻びを見せる。
楊俊はなお穏やかであった。ただ、ここにいる者をそれぞれ明日の方へと押し出すように息をする。
堂はすぐには騒がなかった。楊俊は眉も歪めず、呻きも漏らさぬ。誰もが曹丕の次の言葉を待っていた。
しかし、楊俊の口許に赤がにじみ、やがて顎を伝うと、曹丕の喉から掠れた声が漏れ、堂の視線が一斉に楊俊へ集まった。
王象が息を止め、顔色を消す。司馬懿の視線が上がり、荀緯は血に濡れた袖を握り直した。何が起きたのかを悟った刹那、誰も声を出せぬまま立ち尽くす。楊俊は舌を噛み切った痛みを表に出さず、ただ肩の力をほどいてゆく。その身の離れ方は、花が枝を離れるほどに穏やかで、怨みも恐れも、どこにも残さなかった。
× × ×
訃は南陽から洛陽へ、さらに諸郡へと移る。報を受け取った者は肩を落とし、伝舎の灯は早く落とされ、廊の往来が減る。市では札を掛け替える手が止まり、秤は揺れたまま戻らぬ。荷を負う者は道の端で膝をつき、戸口の女は子の手を引いて顔を伏せた。香を焚く家もあれば、庭を掃きながら声をこらえる家もある。然れども、堪えきれぬ嘆きが、路地から漏れた。ひとりが冤を口にして泣けば、隣がそれを受け、門前でも辻でも声が重なってゆく。嘆く声は風に散らず、人々の心に広がっていった。
時は過ぎ、やがて人々はそれぞれの務めの席へと戻っていった。札を持つ手も、列に立つ足も、いつもと同じ形を装う。王象は灯の下で手を洗い、指の間に残る赤の気配を拭った。荀緯は筆を執り、字を置くたび思いを馳せる。司馬懿は列に立ち、言葉を惜しむように目を伏せた。三人は互いに慰めを探さず、ただ楊俊の死を、それぞれの胸に置いた。思い出せば、笑みは柔らかで、誰かを責める言はついに聞かなかった。その温もりが、今さら沁みた。
洛陽でも南陽でも、日は変わらず明け、吏も民も、楊俊の教えを崩さぬよう努めた。争いの声が上がりかければ、怨みが残らぬようにする。弱い者が先に追い立てられぬよう道をあけ、値が乱れれば札を置き直して秤を正す。人の振る舞いの端々に、楊俊の治の痕が宿っていた。
審固と衞恂もまた、それぞれの持ち場で人を導いた。若い吏が苛立てば声を落として肩を正し、弱き者が言葉を失えば先に席を譲る。書き損じた札を責めず、筋を通して置き直し、急ぎの札ほど言を揃える。教えは口で説かれず、振る舞いとなって移り、やがて周りの手も同じ形を覚えた。楊俊に救われた者たちが、後の世の柱となってゆくのは、こうした継ぎ目の積み重ねであった。
曹丕は独り庭に佇み、庭の草の先を見つめた。踏めば折れる儚さに、折ってはならぬものを折った感触が混じる。帝として顔を上げねばならぬが、目を伏せる刻もまた増えていた。風が袖を掠めても、杯の縁をなぞる指は動かず、胸には言葉にならぬ悔いが浮かぶ。
季節が移り、宛の大地にもまた草の緑が差した。人は楊俊の名を声にせずとも、背を正し、言を抑え、隣へ一碗の湯を回す。そのたびに、失った春がかすかに戻るようであった。




