彼岸の庭を駆ける竜
*
チカゲは四本の杭を刺し、最後の一つを持って中央へと歩いていた。どういう訳か、リオンと対峙し、刺された後――杭は火を帯びたように、燃えているように見えた。触っても熱くないけれど、不思議なほどに燃えていた。きっとそれが完成品。
その杭を四つ刺してきたのだ。残りは一つだけ。
もうすぐ辿り着くだろうというその時に、どこからかビワを罵る叫び声が聞こえた。
頭上で巨大な化け物が、また誰かを食べているようだ。このままにしておく訳にはいかない。
目の前にビワが現れた。
チカゲは眉を顰め、彼を見る。
「あの化け物、アナタの仲間まで食べているようですが」
「スオウは仲間じゃない。利用しただけさ。大丈夫、君は必要だからね、食べさせやしないよ」
「そんなことは聞いていません。あんな恐ろしい化け物――」
「化け物って言うけどね、一番恐ろしいのは何か知ってるだろう? それは人間だよ、チカゲ」
ビワが告げた。
「僕を騙していたね? この裏切り者め」
リオンにもそう言われた。腹からだくだくと血を流しながらチカゲは考える。もう痛みで何もかもぐちゃぐちゃだ。大嫌いとあの子に言われた。ただ五本の杭を刺さねばならない。
それだけが自分を動かしていた。
「聞いているのかい、もう死ぬところじゃないかチカゲ。よく歩けたものだね。妖力の弱まりを感じたんだ。帰ってきてみれば君が結界を壊そうとしている。なんたる裏切り!」
演技がかった口調で言うと、ビワは手を差し出した。
「そんなものは捨てて僕とおいで。演技はやめて本当の仲間になるんだ。そうして君のツクヨミ様を蘇らせよう」
「アナタにとって何の得が?」
「賢者の石にはいくつかの使い道がある。それで不老不死を望む者もいた。でも君の望みは死者を蘇らせること。僕のものと一致している。僕はねチカゲ、この世の理が壊れるのが見たいんだ。死者が跋扈する世界が。生者が慄き震える世界が。それが僕を裏切った常世への復讐さ」
「ワタシは――ワタシは」
大好きな人がいた。ツクヨミ様。一緒にお団子を食べた。家出したチカゲを迎えに来てくれた。たくさんたくさん、一緒に過ごしたやさしい師匠。けれどそれをも上回るほどに、愛おしい人がいた。怒ったり泣いたり、花が綻ぶように笑う女の子。ちっぽけでちょっと頑固な、かわいらしい少女。
――――嗚呼、凛音。
もう間違えたくないと、思ったのだ。
「そこを退いて下さい。最後の杭を打ち、結界を壊します。ワタシは協力しない。アナタの夢は終わりです」
彼にも悲しい過去があったのだろう。それを垣間見た。この結界の最中で。
けれどもそれは、誰かを傷つけていい理由にはならない。世界を滅ぼしていい理由にはならないのだ。
ふっと、ビワの姿が変わった。
目の前に立つ男に、チカゲは目を見開いた。
ツクヨミだった。
「私を捨てるのかね? 愛しい弟子よ」
満月に照らされ、ツクヨミは静かに立っていた。一面の血みたいなヒガンバナの中に。
チカゲは眉を吊り上げた。
「貴様――! 師匠の名を騙るなど」
「迷いがなければ見破れるはず。だがどうだ、今もお前は私を愛している。違うかね?」
「ツクヨミ様」
満月が赤い瞳に映り込む。
「チカゲ、私はお前にとってそれほどの存在だったか? 捨てていいほどの矮小な存在だったのか?」
「違う、違います」
「おいで。哀れなチカゲ。かわいそうなチカゲ。寂しがり屋の我が弟子よ。誰もお前を愛しはしない。愛するのは私だけ」
だいきらいだと、リオンはそう言った。血を腹から流しながら、今にも倒れそうなチカゲは、夢にまで見た師匠の前で、視界を揺らがせた。
「寂しかったのです」
「分かっているとも」
「孤独だったのです」
「ああ」
「抱きしめて下さいませんか?」
「いいともチカゲ」
ツクヨミが両手を広げる。そうしてチカゲを抱きしめた。
その腹に、ぐさりと杭が刺さった。
「なっ、あが、……ぐっ」
最初から、そこにツクヨミはいなかった。
姿が戻ったビワが、口から血を吐いた。
「ワタシはあの人がいなくなってから、ずっと一人だった」
チカゲはこれでもかと杭を握る手を強めた。
ふらついたビワが、目を見開きチカゲを見た。
「き、さま……!」
「でも今は一人じゃない。そう信じることができるのです」
チカゲもまた、口から血をこぼしていた。リオンを抱きしめた時に刺さった刀。その傷の弊害だった。死なない。こんなところで死んでたまるものか。だがビワは嗤った。
「僕を殺しても、終わらないよ。僕を裏切った世界が……悪い。鵺は妖力から作り出した化け物だ。いわばクロサギやシラサギと同じ……独立する妖だ」
その目に野望が未だちらついていた。生にしがみつく彼の、その目は濁っている。
「僕を殺そうが、杭を刺して結界を消そうが……あの化け物は消えない。……この世の全てを喰らい尽くすだろう」
言いながら彼は不敵に嗤っていた。それは最早狂気だった。その右手が動くのをチカゲは見逃さなかった。
「そんなに血がお好きですか」
彼が動くよりも早く、チカゲは杭から手を離し、抜き放った刀を振るった。
「ならば味わえ!」
次の瞬間血飛沫が舞った。ごとんと、ビワの首が落ちた。
「はーっはーっはーっ」
チカゲは動けなかった。腹から流れる血が、口から溢れる赤が、月夜に映えた。
「殺したのね!」
悲痛な叫び声が聞こえ、白い鳥が飛んでくる。それはシラサギだった。
「ビワ様!」
まるで泣き叫んばかりに声を上げ、人の姿になる。その背中には白い翼。
真っ白な娘はビワの首をかき抱いた。白い着物がしとどに赤く塗れた。
「ああ、ビワ様、私を愛して下されば、こんなことには……」
ぎっと、少女はチカゲをねめつける。
「私はビワ様と暮らすわ。この首を埋め、そのお傍に――あなたには分からないでしょうね」
チカゲはシラサギを見た。今更どうでもいいことだったけれど、何か思わずにはいられなかった。
ビワは彼女の献身に気づいていたはずだ。けれどもその愛を利用しようとしかしなかった。正しく受け止めれば、与え返せば、こんな末路を辿らずに済んだのかもしれない。けれども彼には無理なことだったのだろう。きっと想定の内にはなかったのだ。なぜなら彼は既に、この世のすべてを諦めて、憎んでしまっていたのだから。それはかつての自分のようであり、しかし自分とは明確に異なった。
ビワはきっとどこかで、人の道を違えるあまり、人ではなくなってしまったのかもしれない。ならば妖であるシラサギがその首を持っていくのは、なんだか道理が通っているように思えた。おかしな話だ。
ともかくシラサギは、恐ろしい目をしてこちらを見ていた。彼女がどうするつもりなのかは分からない。ただ、チカゲにはもう戦う力はなかった。
しかし彼女は、はっと頭上を見て、悔しげに首を抱きしめたまま、どこかへと飛び去って行った。白い羽根が舞い、それきりだった。
嫌な予感がした。
迫り来る巨大な気配。それはビワの妄執が作り上げた化け物。独立した妖。
鵺は大きな口を開けて、チカゲを呑み込もうとしていた。
巨大な牙が見えた。真っ赤な口腔が迫りくる。
逃げようにも走る力がなかった。
さっきの一撃で精一杯だった。
ああ終わりだ。
間に合わない。
その時、チカゲは竜を見た。血の海のようなヒガンバナの中、巨大な鵺の上を、白銀の竜が飛んでくる。そしてがぶりとその首に噛み付いた。
いいや、それは鵺の背中を走るリオンだった。次の瞬間、刀で思い切り斬られ、鵺の首が飛んだ。
「わたしは守るために斬るの」
そう告げて、鵺を斬ったのはリオンであった。
「さようなら」
血飛沫が舞っていた。巨大な化け物の首がごとりと落ちた。同時に体も消えていく。
「わっとと、」
地面に降り立った少女の横で、鵺の首も体も消えていく。
先ほど見たのは幻か。けれども確かに竜が見えたような気がしたのだ。
「これ、で、ぜんぶ……?」
血に濡れたリオン。しかしヒガンバナはまだ消えない。ああこの妄執が、ある意味ビワを生み出したようなものだ。
チカゲは最後の杭を、死体から抜き、地面に突き刺した。思い切り。
まるで敵の心臓を刺すように。
そうしていつしか、血でできた花びらが風に舞うようにして、ヒガンバナの花畑は消え去った。
結界は消え、辺りは無惨な戦場へと姿を化した。
リオンが瑠璃の瞳に、男を映した。再会を果たしたというのに、彼女は泣きそうだった。それはきっと、争った時にできたチカゲの傷のせいだった。彼女に刺された腹から、今もだくだくと血が流れている。
「あなたは最初から、わたしを好きでいてくれた」
震える声で彼女は告げた。
「あなたはわたしに名前をくれた、サクラと」
チカゲはハッとする。すべてを悟った。常世と隔世の境目の結界。その中で、何が起きても不思議ではなかった。
この少女は何かの深淵を見たのかもしれない。幼いチカゲと会ったのかもしれない。
幼い頃、桜の下で恋をした。
天女のような娘に。彼女は自分を捨てた。
――――否、捨ててはいなかったのだ。
チカゲの腹からただただ血が流れる。もう立っているのもやっとだった。リオンも怪我をしているが、チカゲの方が傷が深かった。
「わ、たし、なんてことを」
彼女の唇がわなないた。
「裏切り者だと、あなたを刺した……だいきらいだと、」
「リオン」
口の端から血が流れ落ちる。けれどチカゲは笑った。嬉しかったのだ。彼女が自分を想ってくれることが。自分のために、涙を流してくれることが。
「アナタはワタシを捨ててはいなかった。こうして迎えにきてくれたじゃないですか」
ほろほろと、少女の目から真珠のような涙がこぼれ落ちた。美しいと思った。
「今すぐ、今すぐ止血するから!」
膝をつき、倒れ伏したチカゲに少女が叫ぶ。涙を拭って、懸命に包帯を取り出した。
「ごめんなさいごめんなさいっ、こんなはずじゃ」
「凛音さん」
「な、なに」
嗚呼――愛しいいとしい少女。アナタは――お前は――唯一無二だ。
「アナタの刀で死ねるなら、本望です」
カッと少女の瞳が燃え上がった。
「やっぱりあなたは嘘つきです!!」
「え」
「生きたいと願っているくせに!! ――そうでしょう、お願い! わたしまだあなたとやりたいことがたくさんある! 千景さん!!」
それはリオンの願いであったけれど、きっと自分もそう願っているのだと思った。馬鹿な話だ。
ああ、もうきっと二度と血影には戻らない。
この子がいるなら、千景でいられると、そう思った。
「千の景色を見に行こう!? ねえ、――ねえ!! 千景さん!!」
そんなに叫んで、なんといじらしいのだろうと、思った。同時に置いて行かれた自分が蘇る。
彼女はちゃんと迎えに来たのに。
この子を置いて行きたくないなと、そう思った。けれども血は流れ、とうとうチカゲは意識を飛ばした。




