宿敵と化け物
真っ暗な深淵。
リオンは川辺にいた。辺り一面にススキが生えている。
川は暗くて水面がよく見えない。
その向こうに母の姿があった。
「おかあさん!」
ハッとしてリオンは叫んだ。
母は何か言っている。けれど聞こえやしなかった。
傷だらけのリオンはそれでも、愛おしい母にやっと会えたと、その一心で叫んだ。
「待ってて、今そっちへ行くから!!」
ざぶりと川に飛び込んだ。思ったよりも深い。それでも泳いだ。けれども疲れた体と速い水流では、たかが知れていた。
「おかあさ、ごぼっ」
クロサギは捕まった。カラタチは負けた。カガリは首を落とされた。チカゲは裏切った。
――――裏切り?
愛していると、彼は言った。それだけは本当だと。でも何が嘘で何が本当か、もう豪水のように混ざり合ってわからないのだ。
「もがっ、かは」
溺れる。そう思った。
対岸には母がいる。そこにすら辿り着けず、溺れてしまう。そうしたら自分はどこへ行くのだろう。
ぐいと、誰かが自分の体を引っ張った。
次の瞬間、ススキの中に放り出される。
「けほっこほ、けほ」
「死ぬのは早い、やめなさい」
誰だろう。見上げたけれど、顔は見えなかった。緑の衣に、烏帽子を被っている。
「……あな、たは、ツクヨミ様?」
「お前に頼みたいことがある」
男は言った。
「向こうの木の下で、泣いている子どもがいる。今の私は迎えに行けないのだ。どうか行ってあげてくれ」
「わ、分かりました」
「それとこれを。寒いだろう、着て行きなさい」
彼がくれたのは美しい羽衣だった。
「あ、ありがとうございま……」
リオンがそう言って顔を上げると、いつのまにか男はいなくなっていた。
よく分からない。分からないけれどあたりは真っ暗だ。それに溺れた拍子に大切な髪紐をなくしてしまったらしい。水面を見つめたけれど、もうどこへ行ったかわからなかった。長い髪を下ろしたリオンは、一つ息を吐く。大切な大切な――チカゲからもらった髪紐だったのに。
けれど行く先は分かった。確かに向こうから誰かの声が聞こえたのだ。リオンは貰った羽衣を纏い、一歩、また一歩とススキの野原を歩いていく。
いつしか月明かりが見えた。
そう、今日は満月だ。
そして気づけば、美しい桜の下に辿り着いたのだった。
桜の下で、幼子が泣いていた。まだ七歳くらいの少年だった。
灰白色の髪は月に照らされ銀に見えた。長いまつ毛の下からほろほろと涙をこぼしているのだった。
「どうしたの」
リオンが声を掛けると、少年はぎくりと肩を揺らし、桜の木に隠れた。
「怖がらないで。ああ、いつもならおにぎりを持っているのに。今切らしてるの、ごめんね」
少年は不思議そうにリオンを見つめた。その赤い瞳にどきりとした。――ああ、それはどうみても、見知った顔だった。ただ何故こんなに幼いのかは分からなかった。
「ぼ、ぼく」
「うん、えっと……お名前を聞いても?」
「チカゲ」
やはりそうだ。どういう訳だか彼は子ども時代のチカゲらしい。深淵を覗いた末に、時空を超えてしまったのだろうか。
「えっと、ここは常世? 隔世?」
尋ねてみたけれど、小さなチカゲは不思議そうにするだけだった。
「常世だよ。おねえさんはだれ?」
名前を言って良いものか悩んだ。もしこれで未来がおかしな方向に変わってしまっても困る。チカゲと会えない未来なんてごめんだ。
「え、えっと名前は……言えないの」
「そうなんだ、じゃあ僕が名前をつけてあげる。ツクヨミ様も僕に名前をくれたから」
幼いチカゲは言った。
「サクラ。桜の木の下で出会ったから。ね? 綺麗でしょう?」
リオンは泣きたくなった。彼は桜には苦い思い出があると言った。もしかしたらこのことかもしれない。
「えっと、それは、ありがとう。――ここはどこなの?」
「世界のすべてに名前があると思うの?」
チカゲは言った。
「ここは秘密の場所だよ、桜がこんなに咲いて、綺麗でしょう?」
確かにハラハラと桜が散って、月明かりに照らされ、大層美しかった。
「サクラさんは――天女様なの?」
無邪気にチカゲが尋ねてくる。
「て、天女って」
「だってとても綺麗だから。それに羽衣を着てる」
「あの、これは――それより! そうだ、ツクヨミ様は? ツクヨミ様のところにいたんじゃないの?」
きょとんとチカゲは目を丸くして、不思議そうにこちらをみた。
「なんでも知ってるんだね。不思議。――でも僕、帰らないよ。家出して来たんだ」
リオンは狼狽えた。幼いチカゲは目立つ。人攫いにでもあったら大変だ。
「な、なんで? 喧嘩でもした?」
「……まあね」
彼は気まずそうに目を逸らした。
「ツクヨミ様は言ったんだ。『いつか私より大切なものがお前にはできる』って。そんなはずないのに! だから、だから僕は言ってやった! 僕の一番大事なのはあなただって! ずっとそばにいるって!! でもそれは違うってツクヨミ様は言うんだ。――あのひと、あのひと」
少年は膝を抱え、頭を擦り付けた。
「僕はあの人の一番になりたかった。でもきっと違うんだ。だから僕はあの人から僕を奪うことにした。――それで、ここにいるんだ」
桜の花びらがひらひらと散っていった。
「……あなたは小さいからまだ分かっていないだけなの」
リオンはしゃがみ込んで、チカゲの肩に手を置いた。
「ツクヨミ様はきっとあなたを探してる」
少年は涙ながらに顔を上げた。
「じゃあなぜ来ないの?」
「あなたは言ったでしょう、ここは秘密の場所だって。世界は広いんだよ。ツクヨミ様はあなたを見つけられないでいるのかもしれない」
「でも僕、僕、会いたくないんだ」
「怖いから?」
「……うん」
赤い瞳が揺らいだ。
「呆れて、捨てられちゃったのかも」
チカゲにも、こんな素直な時代があったのかと、リオンはしみじみと思い、どうにも愛おしくなって抱きしめた。
「っ!」
少年が固まる。
「ああ――ごめんね、びっくりしたね」
頭を撫でてやれば手を払い除けられた。
「こ、子ども扱いしないで!!」
そんなことを言われても。
「サクラさんは――おねえさんはどこにも行かない?」
「行かないよ」
愛おしかった。誰にも傷つけさせたくないと思った。それなのにすでに自分は彼を傷つけてしまったのだ。ずっとそばにいたいと思った。自らの意志だった。
「そばにいるよ」
「本当? それじゃ約束だよ」
「うん、約束」
「良かった――本当によかった……」
ほうっと息を吐き、やがて少年は寝入ってしまった。
その髪を撫でる。
誰かがやってきた。緑の衣に烏帽子を被っている。――ツクヨミだ。
そう思った瞬間、意識は遠ざかった。ああきっと、彼はツクヨミと再会するのだろうと思うと同時に――
「駄目――だめだめ!」
まだお別れを言っていない。このままでは彼の言った通りになってしまう。
サクラという女に裏切られたと。捨てられたと。彼は言ったのだ。
「――チカゲさん!!」
叫んで、リオンは目を覚ました。辺りには血に染まったようなヒガンバナがどこまでも咲いていた。
あれが初恋だとチカゲは言った。始まる前に終わった恋だと、彼は言っていたのだ。
「リオン、起きたの!」
そばにクロサギがいた。鳥の姿だった。リオンは身を起こす。
「あんたを探してたんだ、伝えなきゃって、すれ違ったみたいで――気づいた時には……」
「クロサギ、わたしは――」
「チカゲは嘘つきだったよ」
クロサギは言った。
「嘘をつくしかなかったんだ」
ほとりと、黒い鳥の目から、涙がこぼれた。
「あいつを刺したね?」
ハッとリオンは鳥を見た。
「あいつはカラタチの切り札だったんだ。スパイの真似事をして、ビワの本拠地に潜入した。そして――この結界を壊すつもりだ。でもあんたが、」
「わたしはそんなつもりは」
「話を聞いてあげたの?」
「っ」
「チカゲはきっと、それでも本当のことを言わなかっただろう。あんたを守るために。――だから俺が言う。俺はあんたもチカゲも大切だから。――チカゲは五本の杭を刺して、ビワの結界を壊そうとしてるんだ。さっきすれ違った時、あんたを頼むと言われた。腹から血を流して、ぼろぼろだったよ」
「わたし――!」
リオンは立ち上がる。
「行ってあげて。あいつもう、痛みで少しおかしくなってたから」
リオンは歩いた。炎のように揺れるヒガンバナの畑を歩いて行った。
向こうでは巨大な鵺が死体を貪り喰っている。恐ろしい光景だ。
その時だ。誰かの人影が見えた。
ビワでも、チカゲでもなかった。
それはスオウだった。スオウは鵺が人々を食べるのを見て、さらには歪んだ結界の中に迷い込んでしまったのだった。
「ビワ!! 出てこい!!」
彼は叫んだ。
「あんな化け物に俺の部下まで喰わせるとは!! これは裏切りにも等しいぞ! ビワ!!」
そしてふと、こちらを見た。
「お前は……?」
もう隠す必要もない。リオンは傷だらけのまま告げた。
「わたしはリオン。帝の妹です」
「ああなるほど。あの時潜入していた女官か。最後まで犯してやれば良かったな」
リオンはぐっと刀を握りしめた。
「あなたは賢者の石を追い求める余り、たくさんのものを踏みつけてきた」
「それはお前も同じでは? 守るために殺してきただろう」
「ええ、その重みも知っている。だから責任を取って、あなたを殺します」
「ハッ、なんの責任だって?」
幼い頃、建物の下敷きになった母を、見捨てて逃げた。逃げてと言われて、そのまま走って行くしかなかった。無力な自分を呪った。
「お母さんもお父さんも守れなかった――あなたの命令で銀竜村の人々は死んだ。これはある意味、けじめです。わたしがやらなければ!」
リオンは言うなり走り出した。スオウはすぐに反応し、刀を振って攻撃を防いだ。そのまま踏み込もうとしてくる。力強い刃だった。なるほど強い。リオンは奥歯を食いしばり、それを弾き返す。
「ほう、骨があるな。だが所詮は女! 力で俺にかなうまい!」
何度も刀が突き出される。リオンは必死に猛攻を防いだ。
「っ」
腹の一部が切られた。痛みが襲ったが、気にしてはいられない。膝をつけば負けだ。
「どうした? 防ぐしか脳がないのか?」
先ほどチカゲを挑発した時、リオンはヤケになっていた。だがこの男は違う。確かな力でリオンを上回っている。ならば小回りで対応すべきだとリオンは思った。
どうにか走り、刀の届かない背後に回り込む。きっと彼はそれでも対応しようとするだろう。
「何をっ!」
スオウはぐっと体を動かし、思い切り刀を突き出した。それこそが隙だった。
リオンはあらかじめ予期していたそれを避けた。
「な……っ!」
行き場を失った攻撃の勢いで、彼がぐらつく。リオンはその隙をつき、懐に飛び込むと、刀を素早く突き刺した。
「ぐ、あ、がは……っ」
「お父さんとお母さん――そしてツクヨミ様の仇です」
素早く刀を引き抜く。
「く、そ。この女が……っ」
けれども彼はもう歩くこともままならなかった。膝をつき、口から血を吐いた。
その時だ。鵺が振り向いた。
リオンはハッとする。思わず飛びのいた瞬間、悲鳴が上がった。スオウの悲鳴だ。
「やめろ、やめ――! ビワ!! こいつを止めろ!! 裏切り者がぁあ!!」
巨大な口がスオウを咥える。次の瞬間、骨が噛み砕かれる音がした。ごきりべきり、スオウは鵺に喰われて、死んだ。
リオンは息を乱した。あまりに恐ろしい光景だった。
チカゲはどこだろう。ビワは仲間でさえもあの化け物に喰わせている。
チカゲを一刻も早く見つけ出さねば。酷い焦燥が胸を襲った。




