その日は
その日は、維月は戻って来ることはなかった。
楽をやるにも何やら空気が重いので、雑談をしながら、持ち寄った香を利いたりと穏やかに過ごした。
香は、維月が合わせた物も出されたが、本人が居ないのでどう合わせたかと聞けるわけでもない。
それでも、確かに癒しの香りで、それを合わせた時の維月の心地が窺える様子だった。
「…維心の香りと似ておるのよなあ。」焔が言う。「だが、こちらは何やら艶もあって癒しの気が強い感じ。」
維心は、言った。
「…それは、材料が同じだからの。蒼に梅をと言われて分けたゆえ、それを使ったのは確かぞ。我も仁弥の香木を使っておるから、維月もそうなのだろう。」
綾が、几帳の中から言った。
「我も、共に仁弥様の香木を使って合わせておりましたが、維月様は、梅が良いのではと仰って。なので、焔様にお問い合わせして梅を送って頂きましたわ。」
焔が、頷いた。
「確かにそう。翠明が言うてきたから、うちの梅を送ったよな。我もそれで、梅が良いのかと思うて合わせてみたが、確かに上手く行った。それでも、合わせる者の心地でこうも変わって参るのだの。」
仁弥が言う。
「梅も良いのですが、案外に柑橘類も良いのですよ。我も試行錯誤を繰り返しておって、あの香木はなかなかに難しいものでありまして。」
炎嘉が、言った。
「奥が深いよのう。最近は仁弥の宮の香木が現れてから、皆がそれを何とかできぬか励んでおって、面白い。我もまた考えてみるかの。」
月が高く昇っている。
だが、十六夜からの報告はまだ、何もなかった。
なので、蒼は言った。
「…では、夜も更けて来ましたし、そろそろ露天風呂にでも参りますか。まだ明日もありますし、明日は人世の遊びでもしましょう。犯人隠匿系のもので、二時間も掛からずできるものがあります。」
焔は、顔をしかめた。
「犯人隠匿?マーダーミステリーは疲れるぞ?我は犯人役をやってから、もう向いておらぬと分かっておるからの。」
蒼は、笑った。
「顔に出たらまずいかもだけど、今回は違うよ。人狼ゲームっていうゲームで、みんなが一つの村に住む村人で、その中に人狼っていう人を食べてしまう狼人間が混じっているって設定なんだ。それをただ意見を出し合うだけで見つけるゲームなんだよね。やってみたら分かる。」
炎嘉が、言った。
「何でも一度やってみることぞ。話すだけなら時もそう取らぬし考えるだけであろう。前みたいにあちこち調べに行かずで良いなら、面倒がない。やった事がないし、楽しみであるわ。」と、立ち上がった。「さて、では風呂ぞ。本日はもう、休もう。」
そうして、皆で露天風呂へと向かうことにした。
元旦なのに、静かな夜になりそうだった。
その頃、気を揉みながら側に座っていた碧黎と十六夜の目の前で、維月がぱっちり目を開いた。
そして、むっくりと起き上がると、言った。
「…あら?私、どうしてここで寝てるの?」
十六夜が、慌てて維月を覗き込んで、言った。
「お前、気を失ったんだよ。覚えてるか?綾とか、妃達の所で。」
維月は、首を傾げてから、ハッとした顔をした。
「…大変!私、まだあまりお話もしていないのに倒れたの?」
碧黎は、頷いた。
「一気に思い出して、負担になったようだの。いっぺんにあれだけの妃の顔と名が出て来たのだから、おかしくもなるわ。」
維月は、碧黎を見た。
「お父様。私…どうしてだが気が遠くなってしまって。でも、だからといって何か思い出したということはないようですけれど…妃の皆様のお顔は、覚えておりましたわ。その夫君も、スラスラ出て参りました。」
碧黎は、頷いた。
「見ておった。少しずつが良いのだ。やはり突然何人もとなると、処理が追い付かぬのだろう。何か他にあるか?」
維月は、答えた。
「何も。妃の皆様の事だけでありますわね。どうして知り合ったのか…その始めは、全く。ただ、友だった、ということだけですわ。」
十六夜は、言った。
「そうか。だったらいい。みんな、露天風呂に移動してるみたいだし、今日はもう寝るんだろう。お前も、今起きたばっかだけど寝る時間だぞ?どうする。」
維月は、顔をしかめた。
「…眠くない。」
だろうな。
碧黎は、ホッとして言った。
「まあ、だったら十六夜と庭にでも出て歩いて来たらどうか?そのうちまた眠気も来るわ。我は戻る。十六夜、維月は頼んだぞ。」
十六夜は、顔をしかめた。
「わかったよ。まあ、地上はルシウスが見てくれてるから何かあったら言うだろ。」
維月は、え、と十六夜を見た。
「え、あなた私のせいでずっと地上に居たんじゃない?良いわよ、私一人で平気よ。お礼の着物も縫わなきゃならないし、そのうち眠くなるわ。戻って良いわよ。」
十六夜は、心配そうに維月を見た。
「まあ…記憶に混乱もないみてぇだし、じゃあいいか?何かあったらすぐ呼べよ。オレは、ちょっと上に上がって来るから。」
維月は、何度も頷いた。
「ええ。平気よ。行ってらっしゃい。」
碧黎と十六夜は、顔を見合わせてから、二人して光に戻って、そうして消えて行った。
維月は、フッと肩の力を抜いた…きっと呆れられるし、おかしな夢を見たってことは、言わずにおこう。
維月は、そう思って反物を探しに部屋の奥へと入って行ったのだった。
王達は、露天風呂に浸かってから、それぞれの控えに入った。
途中、蒼に報告が来て、維月は何事もなかったように目を覚ましたらしい。
維心には維心の対があるので、そこへ戻る。
しかし控えの間が近い王同士は、また飲み直すかとか話し合っているのは聞いた。
それでも、維心はもう、今日は疲れた。
月の宮に来ること自体が敷居が高い状態の維心なので、何とか普段通りにと気を張ったので一人になりたかったのだ。
維月は何も覚えていないのに、回りと維心は覚えていて、皆が気を遣っているのを感じるだけに、どう反応して良いのかもわからない。
本当は、もっと維月と話してみたかった。
なぜなら、どこまでが前の維月なのか、確かめてみたいと思う気持ちがあったからだった。
もちろん、焔が言っていた通り、それはすぐに消えてなくなる維月なのかも知れなかった。
それでも、少しでも愛した維月と話せるのなら、と、維心は思ってしまうのだ。
十六夜と維月の部屋は、南の庭に面した奥近くにあった。
維心が居るのは、西寄りにある対だ。
維心は、ソッと自分の対から窓を開いて庭へと出ると、遠くからでもどうしているのか見て来よう、と、歩き出した。
維月は、せっせと何故知っているのかわからないが、知っている方法で布を裁断していた。
維心からは、山ほど絹をもらったので、その中から良さそうな布を見つけて来て、仕立てにかかっていたのだ。
こうしていると、記憶がおかしいのも気にならなくなってくる。
今日、維心が自分が仕立てた着物を着て来てくれたのを見た時には、とても嬉しい気持ちになった。
会った時に話したかったが、何やら回りの王達が割り込んで来るので、余計なことは言わないことにしたのだ。
女嫌いの維心が、変な噂を気にしてもう、維月が仕立てた着物を着てくれなくなったら悲しいからだ。
それにしても、維心はとても美しかった。
いつ見ても心が洗われるようなスッキリとした凛々しい姿には、身の程も弁えずに心が沸き立ってしまう。
冷静でいようと思うが、目の前に出るとそれは、無理だった。
遠く眺めていられるのなら、それで充分だったのに、その機会であった席で、倒れて気を失ってしまった。
…もったいないことしたなあ。
維月は、ため息をついた。
そんな邪な気持ちでいたから、あんな夢も見るのだ。
自分が、維心の側に仕えてその手を取って、共に庭を歩いている夢だった。
…思い出しても、恥ずかしくなる。
維月は、思わず目の前の裁断したばかりの布の上に、恥ずかし過ぎて突っ伏した。
すると、いきなり窓から声がした。
「維月?!どうした?!」
え、と維月が顔を上げると、そこには部屋着に身を包んだ維心が慌てたように立っていた。




