夜の出来事
維心は、庭を回り込んで、十六夜と維月の部屋を覗き込んだ。
といっても、向こうは明るいし離れているのでこちらは見えないだろう。
維月は、せっせと布を裁断していた。
…また着物を縫うのか。
維心は、そういえば礼に着物を仕立てるとか言っていた、と思い出した。
維月は、恐らく維心の着物を縫おうとしてくれているのだろう。
十六夜の気配は月にあるのでそこには居ない。
…やはり慕わしい。
維心は、せつなくなった。
あの姿は、龍の宮で維心のために、着物を縫っていた維月そのものなのだ。
思い出すとまた、己の罪深さに潰される思いだったが、見ていると維月は、急に顔を赤くしたかと思うと、いきなり目の前の裁断したばかりの布の中に突っ伏した。
…?!
維心は、思わず動いていた。
維月が倒れた…!
「維月!」と、窓を開いた。「どうした?!」
維月は、ハッと顔を上げる。
二人は、そのまま固まってお互いを見つめた。
え…?
維月は、固まったまま維心を見つめた。
え、え、維心様…?!どうしてここに…?!
「ええええ!」維月は、思わず声を上げた。「い、い、維心様!」
なんて恥ずかしい。
維月は、思わず顔を伏せた。
維心は、慌てて言った。
「あ、いや、すまぬ。庭を歩いておったら、主が見えたので。いきなり突っ伏したゆえ、具合が悪うなったかと。すまぬ、戻るゆえ。」
慌てて踵を返そうとする維心に、維月は急いで言った。
「あの!違うのです、驚いて!」と、驚く素早さで飛んで来て維心の袖を掴んだ。「お待ちくださいませ!」
維心は、びっくりした顔をした。
維月は、ヤバい、一番やったらいけない事だったと、急いで手を離した。
「あの、申し訳ありませぬ!ご無礼を!」
だが、維心は首を振った。
「いや、気にしておらぬ。慣れておるから。」
慣れてるの?
維月は思ったが、これだけ美しければ、しょっちゅう袖にすがって来る女も居るのだろう。
維月は、自分を必死に落ち着かせて、言った。
「あの…皆様、控えに戻られたのですね。」
維月が、この機会を逃してなるものかと言うと、維心は頷いた。
「帰った。我は寝る前に散策でもと出て参ったのだ。」
維心は維心で、維月と話せる機会かもしれないと食い入るように次の言葉を待った。
維月は、じっと黙って何やら迷っているようだったが、辛抱強く待つ維心に、思い切ったように顔を上げて、言った。
「…あの!」維心は、ウンウンと維月と目を合わせて頷く。維月は、それに力を得て、続けた。「こちらのお庭でしたら、私の方が良く知ってると思いますの!ご案内致しましょうか…?」
最後の方は、少し自信が無さげだったが、維心は少し食い気味に頷いた。
「参ろう。」維月が、自分で言っておきながらあっさり承諾されたのに驚いていると、維心は手を差し出した。「これへ。」
維月は、その手を見て頬を赤らめたが、ここで恥ずかしがっていたら、せっかくの機会を失くしてしまう、と、急いでその手を取った。
維心は、その手をしっかり握って言った。
「では、外へ。」
維月は、自分の着物が完全に部屋着なのに気付いて、維心を見上げた。
「あの…こんな形で申し訳ありませぬわ。」
事前に言ってくれてたら、きちんと着替えておいたのに。
とはいえ、維心もそうと思って来たわけでもないだろうし、無理な相談だった。
維心は、首を振った。
「我も部屋着で出て参ったし。」
確かにそう。
維月は、維心に手を取られて歩き出したが、よく考えたら龍王ともあろう神が、部屋着で気軽に他神の宮の庭へとフラッと出て来るものなのだと驚いた。
もう寝る前だし、誰も居ないと油断されたのだろうか。
二人は、いつも歩いた庭なのに、ギクシャクとしながら庭の中を進んで行ったのだった。
《あれ?》十六夜は、下を見て、言った。《あれ維心じゃねぇか。》
すると、碧黎の声が答えた。
《そうだの。維心はさっきから維月を窓の外で眺めておったのだが、維月が例によって部屋の中で一人、何が恥ずかしいのか悶えておったのを、具合が悪くなったと勘違いして慌てて出て参ってしもうたのよ。それで、お互いに話したかったようで、あっさり共に庭を歩くことになった。》
十六夜は、頷いた。
《じゃあまあ、邪魔はしねぇわ。見回りも終わったしそろそろ戻ろうかと思ってたんだけどよー。後にするか。》
碧黎は、頷いたようだった。
《そうだの。どちらにしろ、なぜに維月が維心の事だけ覚えておらぬのか、ああして接しておったら分かって来るやもしれぬしな。様子を見ようぞ。》
そうして、二人は上から維心と維月の様子を見ながら、なるようになるだろうと思っていたのだった。
維心と維月は、並んで歩いているものの、何を話したら良いのかとお互いにだんまりだった。
維心は、維月にならいくらでも話すことがあったのだが、記憶のない維月に何を話したら奇妙に思われないのかと、考えていたら何も口から出せなかったのだ。
維月は、このまま黙っていたら進まないと思ったのか、奥の滝の所まで来た時に、言った。
「あの…いろいろと送ってくださってありがとうございました。」維月は、何とか話題を絞り出そうと考えた。「とても美しい絹ばかりで。御文を書く和紙なども、良い香りがして。」
維心は、頷いた。
「気に入ったのなら、申せばいくらでも送ろうぞ。そういえば、主が退出した後主の香を利いてみたが、皆が艶があって癒しの香りでもあると褒めておったぞ。」
香を楽しんだんだ。
維月は、思って答えた。
「あれは、維心様が梅を譲ってくださったからですわ。それに、蜜を混ぜて…香木の砕き具合が、少し難しかったのですの。」
維心は、頷く。
「我も、油断するとあの仁弥の香木はサラサラと崩れるゆえの。思う大きさに砕くのが難しかった。」
維月は、そうそう!と維心を見上げた。
「そうですの!この辺りで止めたいと思うのに、一定の大きさまで来ると崩れてしまって細かい粉になって、上手く行かなくて。苦労しました。」
沈黙。
話は盛り上がるのだが、あまりにも気軽に話してしまって良いのだろうか、と維月も遠慮してしまうのだ。
何しろ、女嫌いと聞いている龍王で、十六夜は何やら親し気にしているが、自分はあまり、話した事すらなくて、この晦日と大晦日に、文をやり取りしただけなのだ。
一方、維心から見たら、一度は強く撥ね付けられた維月なので、どう接して良いものかと迷っていた。
以前の維月ならば、いくらでも会話は続けられたものだったが、この維月は何も知らない上、とっくに夫婦であった事実すら、全く覚えていない。
主と我の間には、多くの子が居るのだぞと、言いたい気持ちをグッと堪えて、維心は言った。
「…その、この正月が終わったら、また我が宮にも訪ねて参らぬか。」維月が、驚いたように維心を見上げたので、維心は続けた。「月は、木々の声を聞くことができるのだと聞いた。我が宮には、樹齢の長い木々が多くあるのだ。主は、木々の話を聞きたくはないか?」
維月は、目を丸くして維心を見上げながら、言った。
「まあ…どうして私がそれを楽しんでおる事を知っておられたのですか?御文には書いていなかったと思うのですけれど…。」と、ハッとした顔をした。「もしかしたら、私は何か忘れておりますか?維心様は、記憶を失くす前の私をご存知であるのでしょうか。」
それは深く知っておった。
維心は言いたかったが、それでどうしたら良いのだ。
また、陰の月になってしまったあの頃を思い出して、自分を厭うようになるのではないのか。
維心は、目の前の滝の方へと目をやって、言った。
「…主は、我の事は覚えておらぬのだの。」
維月は、やっぱり何が交流があったのだと、困ったように下を向いた。
「申し訳ありませぬ…でも、維心様の事は、とても良い印象を持って見ておりましたの。ですから、どこかで覚えておるのだと思うのです。」
夢を見たし。
維月は、思った。
よく考えたら、あれはここの庭ではなかった…もしかしたら、龍の宮だったのではないだろうか。
ということは、自分は行儀見習いに行った龍の宮で、維心と共に歩くこともあったのではないだろうか。
それを、全く忘れてしまっているのかもしれない。
あの、夢で見た自分と維心は、とても仲良くまるで恋人同士のようだった。
あれが記憶だと言うのなら、忘れてしまうなんてあってはならないことだ。
維月は、維心の手を両手で握った。
維心は、びっくりして維月を見下ろす。
維月は、必死に言った。
「あの、私には記憶がありません。」
維心は、頷く。
「知っておる。」
維月は、続けた。
「でも、夢を見ましたの。ただの夢であったら申し訳ありませぬが、私は、維心様と多分、龍の宮のお庭ではないかという場所で、二人で歩いておりました。とても、親しくお話しながら歩いておりましたの。あれは、もしかしたら夢ではありませんか?私の記憶でしょうか。」
維心は、そんな夢を、と思いながら、答えた。
「…恐らく、それは記憶ぞ。確かに、我らは数え切れぬほど宮の庭を歩いたものであった。誠に…何度もの。」
前世今生と。
維心は、心の中で付け足した。
やっぱり、と維月は心の中で思っていた。
だとしたら、とても失礼な事をしているのだ。
「…申し訳ありませぬ。忘れてしまっているなんて。あの…こんな事を聞いて良いのか分かりませぬが、私達は親しかったのでしょうか。その、男女の仲のような、という事でありますけれど。」
維心は、息をついて頷いた。
「…そうだの。だが、我は主に強制するつもりはないゆえ。主は、主が良いと思うようにすれば良いのだ。我も、無かった事として主に接するつもりでおるゆえ。気にすることはないのだ。」
そんなことを言っても。
維月は、こんなイケメンとそんな仲だったのに忘れてしまうって、私ったら私ったら!と、内心物凄く自分を責めていた。
なので、言った。
「維心様…でしたら、私があなた様を慕わしいなあと思うのは、多分少し覚えておるからなのですわ。」維心が、え、と驚いた顔をすると、維月は続けた。「私は忘れてしまってこんな風でありますが、維心様さえよろしいのなら、これからもこうしてお庭を共に歩いてみませぬか。前と同じように。あの…本当に覚えていないので、緊張してしまうのですけれど。」
維心は、維月の手を握った。
「ならば、これまで通りでも良いのか。」維心は、維月を見つめて言った。「維月、我は…もし、主が全て思い出し、やはり我では否と申すのならば、強くは申さぬ。だが、今主が我の側にと思うてくれるのならば、共に居ようぞ。そして、もし嫁いでも良いと思うたら、そう申して欲しい。」
嫁ぐって…結婚?!
維月は、びっくりして目を丸くしたが、よく考えたら神世は普通、中途半端な事はしないのだ。
こうして夜に庭を歩いているだけでも、気が付いたら回りから娶ったと言われて婚姻関係にならざるを得なくなる可能性があるほどだ。
十六夜は、こだわりが無いしどこかに嫁ぐとか、そんな話も平気でするので反対はないだろうが、維月からしたら龍王に嫁ぐというのは、かなり敷居が高かった。
とはいえ、維心とそんなに親しかったのに、忘れてしまっているという事実は負い目があった。
なので、維月は黙って維心に、頷いたのだった。




