第8回
「人間の判断ってのは、いい加減といえばいい加減だぜ。俺もさ、綿密な計算で染髪してりゃ、三日も寝込まずに済んだってこと。例えば、暖かい昼間にやるとか、忘れてたドライヤーを面倒がらずにかける、とかさ」
「そうでんな…」悟君は素直である。
「その考察なんだけどね。前後ゴフンの状況、特に心理面の状況ってことになる」
「はいはい…」と食い入る悟君。私も講談師にでもなった気分で興が乗ってきた。しかし勿体ぶって、「まあ、続きは長くなるから、…もうこんな時間か」と、引いてみた。
「そう言わんと、聴かせて下はいよ」
「そうか? 遅くなりまっせ。ハハハハ…」
私はわざと関西弁を雑ぜ、笑いで暈した。既に悟君の熱意というか、気迫のようなものに圧倒されている。
「それじゃ、染髪しようとした前のゴフンの軌跡からだが…、よく考えてみると、以前にはそうした体験則ってもんがあったのさ。つまり、春や夏、秋でもそうしたっていうね。ところが、この場合の気候は風邪をひくほどではない。ところが冬じゃ、ひくわな。所謂、慣性の法則が悪い方にでた訳よ、ダサイ話だが…。こういうのって、身体が憶えとるっていうか…、それで何げなく描いたゴフンの軌跡さ。俺の脳細胞の指令は、『こうしろ!』って言ってる訳じゃない。つまりは、身体が勝手に動いていたということさ。悟君、笑わんでくれよ」
「いや、何をおっしゃる。興味深い事例でんがな」と、彼の熱意は萎まない。深夜に会話している二人の光景を第三者が見れば、よからぬ相談をする怪しげな二人、と映ったことだろう。
「夜も更けてきたな…、もう二、三本飲むか…」と、やんわり立って、私は冷蔵庫の缶ビールを摘んで炬燵へと戻った。冷気が増している。それはセーターから伝わって感じられた。
「今夜は冷えまんなぁ…」「ああ…」と返し、ビールを勧める。
「これってのも、考察なんだよな」
「と、いうと?」
「こんな冷えた晩にさ、よく考えりゃ冷たいビールっていうのも気が利かない話じゃないか。当然、よ~く考えりゃ、熱燗の一本も準備するわな。君がもし俺の大事な、っていうか、重要人物なら必ずこれくらいは準備するわな。悟君のことを軽く考えたってことじゃなく、なんていうかなあ…」
「なんでっしゃろ?」
「君を親しい友人と見ている節がある。…まあ余談はここまでにして。話が脇道へ反れてしまったなあ、本筋へ戻そう」
ここで私は缶ビールのプルトップを抜いて、グビッと一口、飲み干した。
「で、どこまで話したかな? そうそう、風邪をひいちまった訳だな。慣性の法則を俺の脳細胞が咎めていたら、恐らく染髪行為を止めていただろう。結果として、俺は風邪で寝込まずに済んだってことになる。要するに、三日のトクだよ。三日のプラスマイナスは当然でてくる。仕事だけではなく、どういう未知の可能性が展開していたか分からないからな。…って、ことだよ」
そこまでを一気呵成に捲し立てると、私はふたたびビールをグビッと喉に流し込んだ。
「なるほど…。それはそうでんな」
悟君は納得して、妙なほど深く頷いた。
「ところで、冬にビールっていうのは、余り美味くないね。喉越しが悪いっていうか…。これ、湯で暖めたらどうなんだろうね。燗したビール、これが本当の燗ビールってか?」
「……」と、反応が薄い。「寒いギャグだったな」と私は笑って誤魔化す。
「正夫はん。いくらなんでも、それは無理なんと違います? 炭酸が入っとるで、爆発しまっせ」 と悟君はマジに返してきた。明らかに、素で捉えている。
「…そうだな、実験室じゃあるまいし……。そこまですることもないわな、ハハハハ…」と、私はバツ悪く、自戒した。
二人は炬燵内で毛布に包まって寝た。気分のよい酔いではなかったが、それでも、私は深い眠りについた。
次の朝、八時半を回った頃だと思う。二人はノッソリ起きだした。寝覚めの悟君の顔は虚ろだ。
「話はさておいて、一筋向こうの定食屋で朝飯にしよう」
洗顔の後、私がリードして、表へ出た。霜の白い地面が違和感があるほどサクついて、舗装のない田舎道の趣を伝える。眠気はいつのまにか冷気で消えていた。
早朝のB定食(ホカホカのご飯、オロシ大根に鯖の焼き魚、出汁巻きの卵焼き、刻み葱・カラシをトッピングした納豆、味噌汁、お新香)で腹を満たしながら語り合う。
「ゴフンって、前にも訊いたけど、どれぐらいだと思う?」
「…て、前にも言いましたけど、これくらいやて口では言えまへんわな。なんせ、個人の感覚でっさかいな…」と単純に吐露した。その後、二人は食後の茶を啜りながら、統計学的に、観察の場所、具体的には作戦の地点となりそうな地域をランダムに抽出する話などを続けた。ある種、荒唐無稽とも取られかねない話である。
それはともかくとして、作戦の大まかな要点は、まず《観察帳》なるものを作成し、それを各自が持ち、逐一その行動の起点となった自身で判断した理由〔その前後ゴフンの行動軌跡〕などを書き記すというものだった。
《観察帳》の様式の作成は私が引き受けることになった。職場のOA機器なら、いとも容易い。悟君と私は翌週の土曜にまた会う手筈をつけ、定食屋を出たあと別れた。今までの活動は、単に落ち合って互いが得た情報を交換するのみで終わっていたものが、これからは具体的な記録しいう形でデータに残せるのである。かなり面白くなってきた…と、私は少年のように思った。
会社の余暇を利用して観察帳の表書式をエクセルで作った。数値を正確に計る訳ではないので、時間ベースを一分単位で入れ、他には観察した年月日の欄を作った程度で、あとは空欄の記載スペースとした。久しぶりに子供時代の無邪気な集中力が楽しい。数日を費やし、私なりにまあ納得できる表が完成した。これを次の土曜、悟君に渡し、いよいよ本格的な研究を開始するのである。
土曜が巡り、昼過ぎに悟君は家へやってきた。
「記録帳できたよ」と彼の前へ示すと、「あっ、これでええんやないですか」と言ってA4版の用紙をチラッと見ただけで、既に手提げ鞄に入れようとしている。
「おい、しまわずに出しておいてくれよ。これから説明するからさぁ」
悟君はペコリと頭を下げ、悪びれた様子で二つ折りの用紙をふたたび取り出した。それから二人は長談義に突入した。
続




