第43回
ともあれ、私達三人は重い腰を上げ、堤防を去った。夜風も冷えてきて、しんみり心地よい。
繁華街の真ん中を少しトボトボと歩き、…そう、以前、時計草を買ったことがある園芸店を通過する。そして、二軒ほど先の最近オープンしたビアガーデンに入ることにした。その店は夏限定で開かれるのものだったが、ビルの屋上にあったから、二軒ほど先という言い回しは適当ではないかも知れない。
ビルに入り、無愛想に観音開きしたエレベーターに乗り込む。三次元ボックスの狭い空間に閉じ込められながら垂直に屋上階へと上昇する。これだって立派な四次元への突入なのだが、閉ざされた空間はただ重苦しいし、沈黙が続くのみで、フワッと移動する妙な不安定さも感じさせられ、僅かイップンそこいらの短い時間に翻弄された。
屋上階に着いたが、気分は決して爽快ではない。私達三人は労せずして昇りつめたのだから、当然なんの充実感もない。これが非常階段をハァ~ハァ~と荒い息を撒き散らしながら到達したのならば、また結果は違ったものになっただろう。第一、身体を酷使した後の生ビールは、エレベーターより数段は美味かったに違いないのだ。私達はそれを選択しなかった。というか、眼前に見えたエレベーターの誘惑? に敗れ、無意識のうちに、さも暗黙の了解があるが如く、体裁を保ち乗り込んだのだ。私達に潜在する慣性に敗れたのだ。だが、敗れたという失意の念はないし、達成感のない潜在意識のみを留めた訳だ。私が趣味とする登山愛好家達が、汗して頂上を極める意味もその辺りにあるように思える。その過程=(イコール)充足感を得たいのだ。次元を減ずる方向=(イコール)達成感、乃至は生活実感、という方程式が成立するのかも知れない。
つまらなく思いながら、達成感の少ない生ビールを飲み、アテの焼き鳥の串を頬張る。まあ、このビルまで徒歩で来たのだから、まだ増しだな…と、自らを慰めて、このことは二人に話さなかった。だが、安直に思ったこの煩わしい想念が、後で考えれば私達の大きな成果の一つだったのである。この時点で私はそのことに気づいてはいなかった。
盆を過ぎ、八月も残り僅かになったが、相変わらず酷暑は衰える気配がない。それでも、夕べの日没の早さは、少しづつだが秋の到来を告げるようになった。
その日、私は久しぶりに海辺へ出ていた。去りゆく夏を惜しむかのように、若者達が砂浜で戯れている。研究所は九月の第三土曜まで自主トレーニング? ということで、活動を休止していた。
ビーチパラソルの下で、ぐったり大の字になりながら砂上の人となると、時間には全く拘束されない開放感に満たされる。えもいわれぬ安息の気分がヒタヒタと満ちる。今頃、悟君や塩山はどうしてるだろうと、つまらなく考えていると、急に右横からビーチボールが飛んできた。少し向こうでキャッキャッとはしゃぐ年の頃なら十八、九の若い娘のグループがいることは、眼を瞑って感じてはいたが、まさか球が転がってこようとは夢にも思っていなかった。無碍に放置もできず、仕方なく? 半身を起こして球を返してやる。
「おじさん、ありがとう…」と小さく響いて届く。無言で片手を上げると、何故か微笑んでいた。豊満な肉体を惜しげもなく露にしたビキニ姿の数人の娘が見える。色気ジジイと思われるのも癪だから、またすぐに大の字へ戻った。幾分、欲情している自分に腹が立った。しかし瞼を閉じていると、少しづつ冷静になってくる。雑念は眼に映らない霊が介入したか、などと思える余裕も生じてきた。人間なんて全くつまらん生き物だ、とまた別の意味で腹立たしくなる。ああ…っ、と溜息も出た。下腹部の勃起が萎えると、今度は空腹感が俄かに奇襲した。食物の体内備蓄はできないから、これはまあ仕方がないのだが、充電残量が分かるバッテリーのメーターでも身体に備わっていれば便利に思えた。これも暇だから浮かぶ、ある種の雑念である。浮遊して消える雑念はいいが、宿便のように身体へ蓄積し居座る雑念はタチが悪い。嵩じると拘りへと変化し、やがてはストレスにもなりノイローゼへも進行して、心理面の恐ろしい病因ともなる。要は、一時的なモノとして発散する、或いは忘れ去ることが肝要なのだ。これも聴講で得た知識である。心理学も霊研究も、どちらも見えない世界を相手にするのだから、ある意味で性質が悪い。
続




