表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/46

第12回

  二人が帰ると、すぐ静寂が襲った。それが無言で降りしきる雪と妙にリンクして、私の孤独感を増幅させるのだった。窓ガラスが雪明りに映え、明るさと気の昂ぶりで、その夜は眠れそうになかった。意地になって缶ビールを一気飲みして眠りについた。ところが、やはり眠れない。脳裏を(よぎ)ぎることといえば、次の観察テーマについてだった。偶然と言ってもいいのだろうが、その時、いいテーマが浮かんだ。それはどういう内容かを述べると、この町は町とはいえ田舎の(しがらみ)も数多く残り、よく言えば人情に厚く、悪く言うと五月蝿(うるさ)いローカル色の強い町だった。浮かんだテーマとは、その中の一つであった。(しがらみ)については、悟君と過去に語り合ったこともあった。彼もテーマとして捉え、“香典=二千円の慣習”を研究報告した経緯がある。得体の知れないテーマだが、それらの個々の事象には意外と観察しやすい(しがらみ)があるのだ。私が浮かんだテーマというのも、その一つであった。

 習慣(Custom)には、いい意味の慣習と、負担となる悪い意味での慣習がある。皆で楽しむ“祭り”などは、いい部類なのだろう。私がテーマとしたのは、古い村落に続いてきた名残りの慣習である。特に、宗教行事は伝統に重んじられ、それ自体は意義深いのだろうが、今日の社会風俗として考えれば、如何なものかと首を(かし)げる妙なものも存在する。特に若い世代からすれば、負担どころか嫌悪感を抱く人々すら存在する。宗教行事そのものは歴史的伝統に支えられ残されるべきものなのだろうが、これとて、本来は個人の自由裁量に委ねられるべき性質のものである。私はテーマとして、“餅講”と、この地方で呼ばれている慣習を捉えた。私の住むこの町も、古い村落の名残りが未だ色濃く漂う。“餅講”もその一つである。最近になってこの町へ移り住んだ者や私のように(ようや)く町の住民として溶け込めた者は、古くからのこうした慣習を知らない。“餅講”とは“講”と呼ばれる神々への豊穣祈願やお礼、その他の目的で人々が集う組織的なグループである。これらは、“神明講” “日待講” “愛宕講” “行者講” “庚申講”…と多岐に渡る。それぞれの目的で集うのだが、“餅講”は(いただ)けない。というのも、講中の者は当家(とうや)といってローテーションの巡り番があり、巡ってきた年には様々な餅を作って訪れる同じ講中の人々へ振舞うのである。この労働力の負担たるや大変なものなのだ。私のような一人身では到底かなわない。実は、隣の三沢さんに「どうでっしゃろ?」と勧誘され、返事を保留していた経緯があるのだ。ローカル色の残るこの町では、無碍(むげ)に断るというのも角が立ち(はばか)られる。私が組長をしているというのも急に断れない理由の一つだった。そんなことで、日を延ばし、未だに返事はしていない。モチモチした粘っこい話だ。私は相当この件で滅入っている。この気分が、所謂(いわゆる)(しがらみ)なのだろう。勿論、それは神道に限らず、仏教等においても云える。

 それはさて置き、私のテーマは、三沢さんに対して如何に断るかを探ろう…という観察である。自らの対応を自らが探るのであるから、当然ながら事後の判断記録となるだろう。そう思いながら、いつのまにか私はウトウトと微睡(まどろ)んだ。

 目覚めたのは、深夜の三時過ぎで、疾うに翌日となっていた。すっかり身体が冷えきっている。怠惰感からか、私は布団を敷かず、そのまま炬燵(こたつ)で寝込むことにした。

 次の朝は、全てが一面、白銀の世界となった。20センチは優に積もったか…と思える。幸い土曜でもあり、次の日は当然、日曜なのだから、別段、慌てて家事をすることもない。ゆったりした気分で、(しば)し、窓から外の風景を(なが)めた。雪は既に()んでいた。時間の束縛がない土曜の朝、…なんとゆったりした感覚でいられるのだろうか。私はこのときの流れが無償の価値に思えていた。

 人間は歳を重ねるにつれ、時の速度を思い知らされる。それは感性の変化によるところが大きいのだ。例えば、20歳の若者が感性として捉える一日は、単純に計算すれば20分の1、60歳の老人では60分の1となる。即ち、生存年齢の長さによって少しづつ一日の感性が短くなるのだ。中年以上の者が、“最近、日が()つのが早い”とか、“一年ぐらい、すぐ過ぎてしまう”などとボヤクのは、このためではないかと考えられる。これも私の研究の一つである。今、私が研究しているゴフンという時間概念は、これとは別次元の研究テーマであって、瞬間とか咄嗟(とっさ)という即断を余儀なくされた場合である。その判断時点の《前後ゴフンという時間》が描く人間の軌跡の変化、換言すれば、それは運命の変化なのだが、その事象を観察しようということだ。では、その結果を研究成果としてどう活用するのかと訊ねられれば、それは単なる研究だと言う以外にはない。こうだ、と断言できないのである。しかし私達は、その漠然とした概念を探るべく研究活動を続けているのである。ある種、変人グループ? なのかも知れない。人との交わりの際、スンナリ事が処せれば、別に判断を必要としない。自然や事物とは違い、人との交わりでは朴念仁(ぼくねんじん)を必要とする。私達は、ソフト、ハード両面の朴念仁(ぼくねんじん)を求めているのだ。もちろん、観察テーマが“慣習”なのだから、人間以外の行動、風俗に及ぶことも考えられるが、人の場合は朴念仁(ぼくねんじん)でなくては面白くもなんともない訳だ。

 除雪作業で適度な運動をした後、家の雑事なども済ませて、私は久しぶりに八百半へ買物に出かけた。普通ならばサンダルか短靴で出かけるのだが、さすがに雪道ではそれもできない。長靴で辿る一歩一歩は、けだるさと冷たさが付き纏うが、それでも新雪をズボッと踏みつける動作は快感がある。ふと後方を振り返れば、連なる足跡が存在し、平面の白キャンバスに立派な模様を描いている。(ようやく車が通れる少し広い道へ迂回する。そこは既に泥にまみれた雪の死骸が横たわるのみで、普通の風景と少しも変わりがない。

                                                  続

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ