第九十八話 断たれた声
前回の続きです。リンが連れ去られた直後の夜の話になります。
膝をついたセレスの肩に、誰かの手が乗った。
ガロンだった。
「――立て。ここで座り込んでも、リンは戻らねえ」
「分かってる」
分かっていても、体が動かなかった。目の前で伸ばした手が、届かなかった感触だけが、まだ指先に残っている。
「守れなかった」
「二度目だな、その台詞」
ガロンの声は、責めるふうではなかった。セレスの腕を掴み、無理やり立たせる。
「昔、俺も似たようなことを言った。誰かに飯を作ってた頃だ。あの時は、もっと早く気づいてりゃって、何年も引きずった」
「――今は」
「今も引きずってる。ただ、引きずったまま、次の飯を作れるようにはなった」
それだけ言って、ガロンはセレスの肩を強く叩いた。痛みで、少しだけ息が整った。
崩れた砦の階段を、皆で上っていく。地下の湿った空気が、少しずつ夜風に入れ替わっていった。
「連れていかれた、って……どこに」
地上に出るなり、レイフィアが震える声で尋ねた。
「分からない。黒い光と一緒に、その場から消えた。追う暇もなかった」
「白髪の男は」
「同じように、闇の奥へ下がった。追う余力が、誰にも残ってなかった」
足元に、鎧の欠片が転がっていた。アルトが拾い上げると、月明かりの下で、守備隊の紋章が鈍く光った。街道で倒した傭兵たちのものと、同じ形だった。
「守備隊まるごと、あの組織の下にある。町の人間が、上から下まで、囲われてるかもしれねえ」
「領主は」
アルトは、首を横に振った。
「まだ分からない。報告したのは、表向きの異変までだ。どこまで信用できるか、今の段階じゃ判断がつかない」
ミュゼが、震える手で杖を握りしめていた。
「私……治癒しか、できません。連れ戻すための力は、持ってません」
「それは、お前の役目じゃない」
イリスが、短く言った。
「今夜連れ戻せる相手じゃなかった。それは、誰の落ち度でもない」
「――でも」
「でも、じゃない」
イリスの声に、いつもより強い響きがあった。
「私たちは、今ここにいる全員を、まず守る。それが、次にリンを取り戻すための土台になる」
ノアは、少女を抱いたまま、ずっと黙っていた。少女の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
「――この子だけは、連れ戻せた。全部は無理でも、一人は。今夜、それだけは、確かにできた」
その言葉に、誰も反論しなかった。小さな事実が、崩れかけた足場を、かろうじて支えていた。
町の灯りが、遠くにぽつぽつと見える。誰もが、しばらくそれを眺めていた。
「――これから、どうする」
レイフィアの問いに、アルトが答えた。
「まず、この町を出る。組織に守備隊ごと囲われてるなら、長居は危険だ。今の俺たちで正面から相手をすれば、あの子供たちを巻き込む。だから、情報だけ持ち帰る」
「持ち帰った先は」
「王都の伝手だ。表沙汰にできない類の調査を頼める相手が、何人かいる。守備隊が丸ごと汚染されてた前例なんて、聞いたことがない。個人で動くより、そっちを頼った方が早い」
「――分かった」
セレスは、拳を開いた。震えは、まだ完全には消えていなかったが、行き先だけは見えた。
「今夜のうちに、町を出る。だが、これで終わりじゃない。今度は、俺たちの方から、あの紋章を追う」
セレスは、そう言い切った。
イリスが、静かに頷いた。
「当然だ」
ノアが、抱いた少女をそっと下ろし、頭を撫でた。少女は、まだ何が起きたのか分からないまま、小さく頷き返した。
「――この子は、私が町の外まで送る。信頼できる人に預けてから、追いつく」
ノアは、そう言った。
ガロンが、少女の前にしゃがみ込んだ。
「一人で行かせるつもりはない。俺も付き合う」
◇
黒い光に包まれた記憶は、そこで途切れていた。
次に目を開けた時、リンがいたのは、あの地下の広間ではなかった。湿った石壁に囲まれた、見覚えのない小部屋。どうやってここまで運ばれたのか、その間の記憶が、丸ごと抜け落ちている。
手首の黒い線は、肘の少し先まで伸びて止まっていた。それ以上は、進んでいない。
「――ここ、は」
答える声はなかった。ただ、遠くで、あの声の余韻だけが、まだ耳の奥に残っている。
『――もう、隠れなくていい』
リンは、自分の手首を見つめた。
(私を作った声、か)
不思議と、恐怖はなかった。ただ、ひどく静かな気持ちだった。
セレスは、誰かのために「引き受ける」。ノアは、重すぎるものから「降りる」。
リンは、いつも、それができなかった。誰かに寄りかかることも、誰かを頼ることも、うまく形にできない。
できることは、一つだけだった。
(――断つ)
伸ばしかけた指を、自分の意思で握りしめる。助けを求める言葉も、仲間の名を呼ぶことも、今は自分から断つ。
そうすることでしか、この場所で、自分を保つ方法が分からなかった。
セレスの手の熱が、まだ手首のあたりに残っている気がした。あの手を、もう一度取ることを考えるだけで、胸の奥が軋んだ。
届いてしまえば、きっと巻き込む。自分の中の何かが、あの声に応えかけたことを、誰かに知られてしまう。
それなら、最初から断つ方が、まだましだった。
「……ごめん」
誰にも届かない声で、リンはもう一度、同じ言葉を繰り返した。
石の壁の向こうから、足音が近づいてくる。リンは、涙の跡を乱暴に拭って、顔を上げた。
目を、閉じない。
それだけは、まだ、自分に許していた。
第九十八話「断たれた声」をお読みいただき、ありがとうございます。リンが連れ去られてしまいました。セレスたちの次の一手も含めて、続きを見守っていただけると嬉しいです。よろしければ、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。




