第八十九話 値札のない話
旅商人が、今度は逃げません。
翌日の夕方、宿の裏路地で、セレスは再びあの男を見つけた。
いや、正確には、見つけられたのはセレスの方だった。
「――今日は、逃げないんですね」
物陰から、線の細い青年が姿を現した。物腰は柔らかいままだが、目だけが、以前より少し鋭い。
「お前……何のためにこの街に」
「商人ですから。あちこち回ります」
「白々しいな」
セレスは、剣の柄に手をかけないまま、距離を詰めた。
「リード村で、俺の紋様に触れた。あれは、どういう意味だ」
「さあ、何のことでしょう」
青年は、いつもの曖昧な笑みを浮かべた。だが、すぐにその笑みを消して、声を落とした。
「――一つだけ、忠告です」
「忠告?」
「廃坑の帳面、ギルドに預けたでしょう」
セレスの心臓が、跳ねた。なぜ、それを知っている。
「あれを解読する人間は、気をつけた方がいい。記号の意味に近づく者を、向こうは放っておかない」
「向こう、とは」
「銀仮面の、遺したもの」
青年は、静かにそう言った。
「あの人は、もういません。ですが、あの人が遺した『型』を使う連中が、まだ動いています。あなたたちが今、少しずつ辿っている道は、その連中の本丸に繋がっています」
「本丸って何だ。誰が、何のためにやってる」
「それを話すには、私はまだ、あなたを信用しきれていません」
青年は、一歩下がった。
「ただ――」
彼は、ふと、遠くを見るような目をした。
「あの人自身は、悪人ではありませんでした。少なくとも、私が知っている限りでは」
「知り合いなのか」
「昔、少しだけ」
それ以上は、答えなかった。
「もう一つ、言っておきます」
青年は、声をさらに落とした。
「あなたたちの中に、あちら側の言葉に聞き覚えのある方がいますね」
セレスの背筋が、冷えた。
「――リンのことか」
「名前までは、私は知りません」
青年は、首を振った。
「ただ、彼女に近づくものが、この先も出てきます。それは、私の側の話ではありません」
「守りようがあるのか、それは」
「守るのは、あなたたちの仕事です。私は、値札を教えるだけの商人ですから」
青年は、踵を返しかけて、もう一度だけ振り返った。
「近いうちに、また会うことになると思います。その時は、もう少し詳しい話ができるかもしれません」
青年は、路地の奥へ向かいかけて、一度だけ足を止めた。
「――一つ、訂正します」
「何だ」
「悠長に構えていい話ではありません。彼女の中の糸は、放っておいても薄れていくものじゃない。むしろ、逆です」
「逆、とは」
「時間が経つほど、向こうに近づいていきます。私が知っている限り、そういう風に作られている」
セレスは、息を呑んだ。
「――どれくらいの猶予がある」
「分かりません。ですが、私なら、悠長な調査で済ませません」
青年の声には、これまでで一番、感情らしいものが滲んでいた。
言い残して、青年は路地の奥へと消えていった。
今度は、追わなかった。追ったところで、捕まる相手ではないと、もう分かっていた。
◇
その夜、宿にアルトが駆け込んできた。
「セレス!帳面の記号、半分近く読み解けた」
「早いな」
「昔、似た暗号の仕事をしたことがある。荷の行き先は、複数の中継地を経由してるが……最終的な集積地の候補が、二つに絞れた」
アルトは、地図を広げた。
「一つは、北の国境近く。もう一つは――」
彼の指が、地図の一点で止まった。
「王都のすぐ外。半日で行ける距離だ」
セレスは、地図を見下ろした。
半日。近すぎる距離に、背筋が冷えた。
「まさか、灯台下暗しか」
「断定はできない。だが、この距離なら、まず当たって損はない」
アルトの声には、いつにない緊張が滲んでいた。
「セレス、これは正式な依頼として上に通す。準備が整い次第、動く」
「分かった」
その時、廊下からリンが顔を出した。話を聞いていたらしい。
「――王都の近く」
「立ち聞きか」
「聞こえた」
リンは、部屋に入ってくると、地図の一点をじっと見つめた。
「この辺り……何かあった気がする」
「知ってるのか」
「分からない。でも、地名を見た時に、胸がざわついた」
アルトが、慎重な口調で尋ねた。
「行ったことがあるのか」
「たぶん、無い。でも」
リンは、自分の手首に触れた。
「連れていかれる途中、こういう景色を見た気がする。丘があって、崩れた建物があって」
「崩れた建物」
「うん。それだけしか、覚えてない」
セレスとアルトは、顔を見合わせた。
「――地図に、廃教会の印がある」
アルトが、地図の隅を指した。
「三十年前に打ち捨てられた教会の跡地だ。この距離なら、候補地とも近い」
「調べる価値はあるな」
「イリスたちが戻り次第、動こう」
その時、部屋の戸が開いて、ガロンが顔を出した。買い出しから戻ったばかりらしく、荷袋を肩に提げている。
「――何の集まりだ」
「廃教会の話だ」
「廃教会?」
ガロンは荷袋を下ろしながら、地図を覗き込んだ。
「ああ、あそこか。子供の頃、肝試しで行けって言われたが、結局誰も行かなかった場所だな」
「知ってるのか」
「知ってるってほどじゃねえ。ただの噂話だ。呪われてるとか、夜になると声がするとか、その手のやつ」
ガロンは、腕を組んで地図を睨んだ。
「あの手の噂って、案外馬鹿にできねえんだよな。何かしら理由があって広まってることが多い」
「今回もそうかもしれないな」
「だろうな」
ガロンは、荷袋から取り出した干し肉を一切れ、リンへ差し出した。
「食っとけ。腹が減ってちゃ、まともに考えられねえ」
「……ありがとう」
リンは、受け取った肉を、少しだけ躊躇ってから口に入れた。
「――しょっぱい」
「文句言うな。塩は保存の要だ」
その短いやり取りに、張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
セレスは頷きながら、頭の片隅で、あの青年の忠告を反芻していた。
――彼女に近づくものが、この先も出てきます。
窓の外、王都の夜景に、目を凝らす。
どこかで、また誰かが、糸を引いているような気がした。
第八十九話「値札のない話」をお読みいただき、ありがとうございます。
旅商人が少しだけ本音を見せてくれました。「あの人自身は悪人ではなかった」という一言、今後効いてきます。そして、リンが地図を見て何かを感じ取る場面も入れました。彼女の記憶の断片が、少しずつ繋がっていきます。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価でも応援してもらえると嬉しいです!




