第八十七話 繋いだ手の続き
廃坑から一夜明けて、リンの心情に寄り添う回です。
街道沿いの宿に一泊し、王都へ戻る前の朝だった。
リンは、部屋の隅で膝を抱えて座っていた。朝食を呼びに来たミュゼが、その姿を見て足を止める。
「――入っていい?」
「……うん」
ミュゼは、盆を置いて隣に座った。
「昨日のこと、話す?」
「話すこと、あんまりない」
リンは、自分の手首を見下ろした。黒い線は、もうほとんど消えている。それでも、指先でなぞる仕草は止まらなかった。
「怖かった、でしょう」
「……うん」
小さな声だった。
「自分が、自分じゃなくなるみたいだった。足が、勝手に動いて」
「戻ってこられたじゃない」
「セレスが、止めてくれたから」
リンは、膝に顔を伏せた。
「私一人だったら、駄目だった」
ミュゼは、それを否定しなかった。ただ、隣に座り続けた。
「――ねえ、リン」
「なに」
「私も、昔、似たようなこと、あったよ」
リンが、顔を上げた。
「才能なし、って言われたの。村の魔法使いに。適性はあるけど、伸びしろはないって」
「……それとこれは、違うでしょう」
「違うよ。でも、自分が自分のままでいいのか分からなくなる感じは、同じかもしれない」
ミュゼは、少し笑った。
「私は、誰にも引っ張られなかった。ただ、自分で自分を諦めそうになっただけ。リンは、外から引っ張られてる。もっとずっと、つらいと思う」
「……」
「でも、諦めなかったから、私は今、ここにいる。リンも、今日、自分の足で戻ってきたでしょう」
リンは、しばらく黙っていた。
「戻れたのは、セレスが手を離さなかったから」
「うん。それも本当。でも」
ミュゼは、リンの手を取った。
「最後に一歩を踏みとどまったのは、リン自身だよ。あれ、見てた。あなたの目、途中から、ちゃんと自分の意思で止まってた」
リンの目に、涙が滲んだ。
「……分からない。本当に、自分の意思だったのか」
「分からなくていい。今は」
ミュゼは、リンの手を、ぎゅっと握った。
「私たちが、覚えておくから」
◇
朝食の席で、ガロンは珍しく無口だった。パンを黙々と口に運びながら、時折、リンの方を窺うような視線を送っている。
「――なんだよ」
視線に気づいたリンが、ぶっきらぼうに言った。
「いや」
ガロンは、視線を逸らした。それから、しばらくして、ぽつりと言った。
「昨日、格好悪かったな、俺」
「え?」
「お前が引っ張られてる時、体が動かなかった。セレスが動いたのに、俺は突っ立ってただけだ」
ガロンは、パンを握りつぶすように持った。
「守るとか偉そうなこと言っといて、いざって時にこれだ」
「――ガロンは、悪くない」
リンが、初めて自分から口を開いた。
「あれは、私の問題だから。誰かに止めてもらう問題じゃなかった、本当は」
「そういう問題じゃねえだろ」
ガロンは、低く唸った。
「仲間が引っ張られてんのに、動けなかった自分が嫌なんだよ。次は、絶対に止める。剣で敵を斬ることしかできねえと思ってたが、そうじゃないなら、他のやり方も覚える」
その不器用な言葉に、リンは、少しだけ表情を緩めた。
「……ありがとう」
「礼を言われることじゃねえよ」
ガロンは、そっぽを向いて、また黙々とパンを食べ始めた。だが、その耳が、少しだけ赤くなっていた。
◇
王都までの帰り道、セレスはリンと並んで歩いていた。
「――昨日は、悪かった」
リンが、不意にそう言った。
「なにが」
「勝手に糸に引っ張られて、足止めたこと」
「謝ることじゃない」
「でも」
「お前が謝る道理はない。悪いのは、あの声の主だ」
セレスは、はっきりとそう言った。
「お前は被害者だ。それ以上でも以下でもない」
リンは、しばらく黙って歩いた。
「――ねえ」
「なんだ」
「昨日、私の中に入ってきたでしょう。私の、怖い気持ち」
「……ああ」
「重かったんじゃないの、あれ」
セレスは、少し考えてから答えた。
「重かった。正直、今も奥歯が痛い」
「……ごめん」
「謝るな、って言ったろ」
セレスは、軽く笑った。
「重くても、繋いだのは俺の意思だ。お前のせいじゃない」
リンは、それ以上何も言わなかった。ただ、しばらく歩いてから、ぽつりと呟いた。
「――繋ぐのって、大変なんだね」
「そうだな」
「それでも、繋ぐの?」
「繋ぐ」
セレスは、迷わず答えた。
「繋がなかったら、届かない。届かなかったら、お前は昨日、戻ってこられなかった」
リンは、俯いた。それから、小さく、本当に小さく、笑った。
「――変な人」
「よく言われる」
その軽いやり取りに、少しだけ空気が緩んだ。
◇
王都に着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
ギルドに顔を出すと、アルトが窓際の席で書類に目を通していた。四人の姿を見るなり、椅子を蹴るように立ち上がる。
「――遅かったな。何かあったのか」
その一言だけで、アルトはすぐに異変を察したらしい。セレスは、廃坑での出来事を、順を追って話した。空になった鉄格子、灰にされた書類、鈴の音、そしてリンの一件。
話を聞き終えたアルトの表情は、しばらく硬いままだった。
「――お前が無事で、良かった」
彼は、リンに向かってそう言った。素っ気ない言い方だったが、リンはそれを、驚いたように受け止めた。
「……心配、してくれたんだ」
「当然だろう」
アルトは、それ以上は言わず、視線を帳面に移した。
「これが、持ち帰った資料か」
「読み解けるか」
「時間はかかるだろうが、やってみる」
アルトは、帳面を丁寧に受け取ると、ページをめくりながら眉を寄せた。
「……この記号、どこかで見た覚えがある。少し預からせてくれ」
「頼む」
セレスが頷くと、アルトは帳面を大事そうに懐にしまった。
その夜、宿に戻ったリンは、部屋に入る前に、セレスを呼び止めた。
「――今日、色々とありがとう」
「もう何度も聞いた」
「まだ言い足りない」
リンは、真剣な顔でセレスを見上げた。
「私、まだ完全には、大丈夫じゃないと思う。また、同じことが起きるかもしれない」
「かもな」
「それでも、一緒にいさせてくれる?」
その問いに、セレスは迷わなかった。
「当たり前だろ」
リンは、少しだけ泣きそうな顔をして、それから、いつもよりわずかに柔らかい表情で頷いた。
「――おやすみ」
「ああ、おやすみ」
王都の夜は、いつも通りに更けていった。答えの出ない問いは、まだいくつも残っている。だが、少なくとも今日、リンはこちら側で、自分の足で歩いていた。
それだけで、十分な収穫だった。
第八十七話「繋いだ手の続き」をお読みいただき、ありがとうございます。
前回のリンの危機を、今回はきちんと受け止める回にしました。ミュゼの過去との重ね合わせ、ガロンの不器用な悔しさ、セレスとリンの会話、それぞれの角度から向き合わせています。「繋ぐ」という力の重さも、今回で少し掘り下げました。
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