第八十六話 呼ぶ声
廃坑に到着します。ひと月前から灯る明かりの正体、そしてリンにとって一番つらい遭遇になります。
廃坑の入り口は、蔦に覆われて半分崩れていた。
だが、その奥からは、確かに光が漏れていた。
「本当に、灯ってやがる」
ガロンが、松明も持たずに低く呟いた。
「あの旅商人が言った通りですね」ミュゼが声を潜める。「物騒、って」
セレスは、崩れた坑口の縁に手をかけた。木材の継ぎ目には、まだ新しい滑車の跡がある。何年も放棄された廃坑にしては、手入れが行き届きすぎていた。
リンは、坑口の前で足を止めていた。
「――大丈夫か」
「大丈夫」
答える声が、硬い。セレスは、それ以上は聞かなかった。
「行くぞ」
四人は、灯りを頼りに坑道の奥へと足を進めた。
◇
しばらく歩くと、坑道は不自然に広がった空間に出た。
人の手で削り広げられたものだ。壁際には、木箱がいくつも積まれている。蓋の開いたひとつを覗き込むと、中には、見覚えのある偽紋様の術式具が並んでいた。
「これ……地下遺跡の時と、同じ型」
ミュゼが、青ざめた声で言う。
「量産してやがるのか」
ガロンが、木箱の一つを蹴り倒した。中身が音を立てて転がる。
空間の奥には、鉄格子がいくつも並んでいた。ほとんどが、既に空だった。急いで運び出したのだろう、鎖の一部が千切れたまま残されている。
「――もう、移した後、か」
「待って」
ミュゼが、一番奥の鉄格子を指した。
そこだけ、まだ人がいた。
老いた男が、壁にもたれるようにして倒れていた。手首の偽紋様は、他のどれよりも色濃く、皮膚の奥まで食い込んでいる。
「動かせなかったんだ、こいつだけ」ガロンが、錠を叩き壊しながら呻いた。「弱りすぎてて、連れていけなかったんだろう」
男の胸に、番号を示す木札が下がっていた。数字だけが書かれていて、名前は無かった。
リンが、その木札を見た瞬間、息を呑む音がした。
「――九番」
小さな声だった。
「私と、同じ書き方」
セレスが、その場に膝をついた時だった。
リンが、その場に立ち尽くしたまま、動かなくなった。
「リン?」
呼びかけても、反応がない。
目が、焦点を失っている。呼吸だけが、浅く、速い。
「――おい、しっかりしろ!」
ガロンが駆け寄ろうとした瞬間、坑道の奥から、鈴の音が聞こえた。
ちりん。
小さな音だった。だが、その場の空気が、一瞬で変わった。
「……その、音」
リンの唇が、震えながら動いた。
『――帰る場所は、空けてある』
声だった。誰のものでもない、坑道の暗がりから直接染み出してくるような声。
リンの手首が、内側から光り始めた。黒い線が、皮膚の下で脈打つ。
「リン!」
セレスは駆け寄り、リンの肩を掴んだ。だが、彼女の目には、もうセレスが映っていないようだった。
「――ここにいちゃ、駄目」
リンが、譫言のように呟く。
「戻れって、言ってる。戻らないと、みんな……」
「みんな、誰のことだ!リン、聞け!」
リンの足が、坑道の奥へ向けて、一歩、動いた。
セレスは、その手を強く握った。
「駄目だ」
「離して」
「離さない」
リンの目に、初めて焦点が戻った。だがそこにあったのは、怯えと、混乱だった。
「分からない……私、何を」
「大丈夫だ。ここにいる」
セレスは、繋いだ手に、意識を集中させた。白銀の紋様が、微かに熱を持つ。相手の輪郭を感じる。感じた瞬間、押し寄せてくるものがあった。
――恐怖。行き場のない、幼い頃からずっと抱えてきた恐怖。誰かに壊されるかもしれない、また作り直されるかもしれないという、根の深い恐怖。
セレスの奥歯が、軋んだ。痛い。これは、リンの痛みだ。
それでも、手を離さなかった。
「――俺は、ここにいる。お前を、連れ戻す気はない」
黒い線が、脈動を弱めていく。
「……ごめん」
リンの声が、掠れていた。涙が、頬を伝っていた。
「今の、なに。私、何をしようと」
「気にするな。戻ってこられたなら、それでいい」
その時、鉄格子の中で、九番と呼ばれていた男の呼吸が、目に見えて浅くなった。
「――セレスさん!」
ミュゼが、駆け寄って杖をかざす。淡い緑の光が、男の胸に注がれた。だが、光は皮膚の表面で弾かれるように散り、深くまで届かなかった。
「駄目です、偽紋様が濃すぎて、回復魔法が通らない!」
セレスは、鉄格子の隙間から手を伸ばした。男の手首に触れる。白銀の紋様が、微かに熱を持つ。
繋がる感覚は、確かにあった。糸の端が、指先に触れている。
(――掴め)
男の指が、わずかに動いた。
動いて、そのまま、力を失った。
白銀の光が男の手首まで届いた瞬間、そこに残っていたのは、もう握り返す力の無い手だった。
「――届かなかった」
セレスは、声にした。四文字が、思っていたよりずっと重かった。
ミュゼが、杖を握ったまま、その場に座り込んだ。
「そんな……ついさっきまで、息、してたのに」
ガロンは、何も言わずに、鉄格子の錠を静かに閉めた。名前の代わりに、木札の数字だけが、暗がりに残った。
鈴の音は、いつの間にか止んでいた。坑道には、また元の静寂が戻っている。
だが、その静けさが、かえって不気味だった。
「――逃げられたな」
ガロンが、悔しそうに舌打ちした。
「囚われてた奴らも、声の主も、両方だ」
セレスは、リンの手を、まだ離さなかった。
「悪い。無理に、聞き出そうとする気はない。だが一つだけ」
「……なに」
「今の声、知ってるものだったのか」
リンは、しばらく黙っていた。それから、小さく頷いた。
「知ってる。ずっと前から、時々、聞こえてた」
「今までも?」
「……うん。でも、こんなに強く引っ張られたのは、初めて」
リンは、自分の手首を見下ろした。黒い線は、まだ微かに残っている。
「私、あのまま行ってたら、戻ってこられなかったかもしれない」
その言葉に、ミュゼが息を呑んだ。
「そんな……」
「事実だから」
リンは、静かに言った。
「今日、分かった。私の中に、まだあいつらが繋いだ糸が、残ってる。全部切れてるわけじゃなかった」
その告白は、誰にとっても重かった。セレスは、何も言えなかった。ただ、まだ握ったままの手に、少しだけ力を込めた。
「――切ればいい」
しばらくして、セレスはそれだけ言った。
「まだ繋がってる糸があるなら、いつか、お前が自分で切ればいい。今日じゃなくていい。焦る必要もない」
リンは、セレスを見上げた。
「……できる、かな」
「できるかどうかは知らない。でも、俺たちは、それを待つ」
リンは、何も言わなかった。ただ、涙をもう一度拭って、小さく頷いた。
それから、九番と呼ばれていた男が横たわる鉄格子の方を、一度だけ見た。
「――名前、知りたかった」
誰にともなく、リンはそう呟いた。
「聞く前に、いなくなった」
◇
残りの鉄格子の周りを、四人は改めて調べた。
急いで撤収した跡があちこちに残っている。書類らしきものは焼かれ、灰になっていた。唯一残っていたのは、壁際の棚の隙間に押し込まれていた、一冊の帳面だった。
「これ……」
ミュゼが開くと、几帳面な文字で、数字と記号だけが並んでいた。日付らしきものと、荷の量、そして行き先を示すとおぼしき短い記号。
「見落とした、ってことか」
「それとも、わざと残していったか、ですね」
記号の並びは、王都の外を示しているようだった。だが、詳しい場所までは、この帳面だけでは読み取れない。
「持ち帰って、アルトに見てもらうしかないな」
セレスは、帳面を懐にしまった。
答えの出ない問いは、また一つ、王都への持ち帰り荷物に加わった。
坑口を出ると、夕暮れの光が、崩れた入り口を橙色に染めていた。
リンは、ずっと無言だった。だが、坑口を出た瞬間、小さく息を吐いた。
「――帰ろう」
その一言に、セレスは頷いた。
「ああ、帰ろう」
王都までの帰り道、リンはセレスの少し後ろを歩いていた。何度か振り返ると、彼女はまだ自分の手首に、そっと触れていた。
完全に切れていない糸が、まだそこにある。
それでも、今日、リンは自分の足で、こちら側に戻ってきた。
それだけは、確かなことだった。
第八十六話「呼ぶ声」をお読みいただき、ありがとうございます。
今回、二つのことを同時に書きました。一つは、リンが黒幕側の呼びかけに、初めて本人の意思とは無関係に引き寄せられかける場面。もう一つは、名前も知らないまま届かなかった「九番」の最期です。
リンは今回、間一髪で戻ってこられましたが、まだ完全に切れていない糸がある、という事実だけが残りました。そして、セレスの「繋ぐ」が届かなかった相手も、今回初めて出てきます。強い力にも、届かない時がある――この先、ずっと効いてくる要素です。
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